太平記 現代語訳 17-6 延暦寺衆徒、近江方面へ軍を進める

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「京都を包囲しての四方からの天皇軍の一斉総攻撃、今度こそは勝利の可能性、大!」との期待も空しく、各方面の意志不統一の結果、天皇軍は敗退。四条隆資(しじょうたかすけ)も、八幡(やわた・京都府・八幡市)から坂本(さかもと:滋賀県・大津市)への撤退を余儀なくされた。阿弥陀峰(あみだがみね)に陣取っていた阿波(あわ)・淡路(あわじ)勢も、細川定禅(ほそかわじょうぜん)の攻撃に敗退し、坂本へ退却。長坂(ながさか:京都市・北区)をかためていた額田(ぬかだ)らも敗退して、山の奥へ逃走。

このような情勢の急変に、足利サイドは籠から外に出た鳥のごとく喜び、天皇サイドは穴にこもった獣のごとくに縮こまってしまった。

延暦寺・衆徒リーダーA 興福寺(こうふくじ:奈良県・奈良市)の衆徒らも、あないな返答を送ってきたことやし、きっと、我々ワイドについてくれるんやろう。

延暦寺・衆徒リーダーB それにしては、奈良からの援軍の到着、遅いやないか。いったいいつになったら、来てくれよんねん?

いつまで待ってみても、援軍は奈良からは来ないのだ。実は、

足利尊氏(あしかがたかうじ) この際、興福寺の連中らもこちらサイドに引きずり込んでしまおう・・・よし、「荘園数箇所を寄付しますから、どうでしょう、我々といっしょにやりませんか?」との書状を、興福寺に送れ。

尊氏からのこの申し出を受けて、興福寺衆徒らは、目の前の欲に後々の恥をも忘れ、延暦寺に加勢するとの約束をあっという間に反故にしてしまい、足利軍との連合結成を承諾してしまったのであった。

延暦寺・衆徒リーダーA あーあ、どこもかしこも、八方ふさがりやんかぁ。

延暦寺・衆徒リーダーB 今となっては、希望の持てそうな情報と言うたら、備後の桜山家(さくらやまけ)の者らと、備中の那須五郎(なすのごろう)、備前の児島(こじま)、今木(いまき)、大富(おおどみ)らが、軍船を仕立てて近日中に京都へやってくる、という情報くらいかなぁ。

延暦寺・衆徒リーダーC 伊勢国の愛洲(あいす)からの、「伊勢国の敵を退治した後、近江国へ発向しますよ」とのメッセージも、来てるけど・・・。

延暦寺の衆徒らは、あらん限りの財力を尽くして、天皇軍の士卒らの食料確保に努力してきた。しかしながら、公家、武家やその郎等ら、上下合わせて20万人を越える人々の胃袋を、6月初めから9月の中旬に至るまで、養い続けてこなければならなかったのである。今や、経済的備蓄も底をついてしまい、米蔵はスッカラカンになってしまった。

さらに悪い事には、北陸方面は、斯波高経(しばたかつね)に完全に制圧されてしまっていて、その方面からの食料輸送ルートが遮断されている。一方、近江においては、小笠原貞宗(おがさわらさだむね)が野路(のじ:滋賀県・草津市)、篠原(しのはら:滋賀県・近江八幡市)付近に陣取っていて、琵琶湖上の舟運を全てストップさせてしまっている。

このようなわけで、延暦寺内の食料不足は、日に日に深刻さを増してきた。朝廷軍の士卒のみならず、いよいよ三千の僧侶らまでもが、朝夕の食事にも事欠くようになってきた。谷々の仏教講義も絶えはてて、社々の祭礼さえも行えなくなってきた。

延暦寺・衆徒リーダーA このままでは、どうしようもないわ。まず、近江方面の朝敵を退治して、美濃(みの:岐阜県南部)、尾張(おわり:愛知県西部)との間の輸送ルートを開かんと、あかん!

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9月17日、延暦寺の衆徒5,000余人が出動、琵琶湖を船で渡って、志那浜(しなのはま:滋賀県・草津市)に上陸し、野路、篠原へ押し寄せていった。

延暦寺から寄せてきたこの大軍を見て、

小笠原貞宗 防備の整ってねぇ、平地のどまん中の城にこもってみても、包囲されたら、もうどうにもならねぇ。むしろ、平原での迎撃戦にうって出るのが、正解ずら。

かくして、両軍は激突。

やがて、延暦寺サイドの道場坊祐覚(どうじょうぼうゆうかく)率いる軍は、一敗地にまみれて足も立たない状態のまま退いていく。これと入れ替わった、成願坊源俊(じょうがんぼうげんしゅん)の軍は、一人残らず討たれてしまった。

延暦寺サイドは、この敗北にますますいきり立ち、同月23日、全山500房から精鋭の衆徒らを選抜して2万余人の軍を編成、再び軍船を連ねて、琵琶湖をおし渡って行った。

小笠原サイドは、「延暦寺の大軍、再びよせ来る」との情報に、浮き足立ってしまった。

延暦寺軍・前衛リーダーD おいおい、小笠原軍なぁ、わしらの数の多さにビビッテしもぉて、その大半が逃亡、残るは、わずかに300足らずになってしもぉた、との情報をキャッチ!

延暦寺軍・前衛リーダーE なんや、たったそれだけやったら、わしらだけで十分やん。後続のもんらの到着なんか待ってる事ないわ、さっさと攻めかかろうやぁ!

延暦寺軍・前衛リーダーF 行こ行こぉ!

例によって血気盛んな者たちばかり、延暦寺軍前衛メンバーたちは、我先にと進んでいった。

この大軍を前にして、なおも戦場に留まった小笠原軍のメンバーたちである、気後れなどいささかも見せようはずが無い。

早暁午前6時、小笠原軍300余騎は、延暦寺軍が陣取っている四十九院(しじゅうくいん:滋賀県・犬上郡・豊郷町)へ、先制攻撃をかけた。

小笠原軍の猛攻に、延暦寺サイドは、理教坊(りきょうぼう)阿闍梨(あじゃり)をはじめ、主要メンバーが30余人も討たれてしまった。

かくして、船に竿差し、堅田(かたた:滋賀県・大津市)目指して、延暦寺軍は湖上を退却余儀なくされた。

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このような中に、足利陣営の佐々木道誉(ささきどうよ)が、京都を密かに脱出し、若狭(わかさ:福井県西南部)経由で、坂本の天皇軍側陣営へ投降してきた。

佐々木道誉 近江はねぇ、わが佐々木家が代々、守護職をおつとめしてきた国でごぜぇやすよ。なのに、小笠原のヤロウめが、京都へのルート上に居座りやがって、おまけに2度もの合戦に、意外にうまいことやりやがって・・・。その手柄でもって、「近江国の守護は小笠原に」なぁんて事になっちゃってぇ、おれの面目、マルツブレやぁ!

新田義貞(にったよしさだ) ・・・。

佐々木道誉 んだもんでね、朝廷から私メを近江国の守護に任命していただけるんでしたら、私すぐにあちらに行って、小笠原を追い落とし、近江国丸ごと制圧しちゃいまさぁ。そうなりゃ、朝廷軍もイッキに態勢挽回できるやろ? どう? えぇ?

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)も新田義貞も、佐々木道誉が自分たちを欺かんとしてこのような事を持ち掛けているとは見抜けずに、

後醍醐天皇 よっしゃ、道誉の要求通りに、してやれ。

そこで、佐々木道誉に、近江国守護職と領主不在の上等の領地数10箇所を降伏の恩賞として与えた上で、近江へ遣わした。

道誉は、もとから天皇軍側に加担する気など、さらさら無い。近江に着くや否や、彼は、小笠原貞宗に対して言わく、

佐々木道誉 やぁやぁ、近江方面の包囲ラインがため、ご苦労やったのぉ。ところでなぁ、ついこないだの事だけど、足利将軍様からこの道誉に、「近江国の守護に任命するぞよ」という事になってなぁ・・・てなわけで、今日をもって、あんたとわしと、この近江の守備担当、バトンタッチよ。あぁ、いやいや、まことにお役目ご苦労でありましたのぉ、はいはい。

小笠原貞宗 ・・・。

ということで、小笠原貞宗は、すぐに近江から京都へ向かった。

この後、道誉はたちまち、近江国全域を制圧し、ますます坂本への圧力を強めていった。

かくして、延暦寺衆徒らの遠い親類、近い親類、後醍醐天皇派の公家らに仕えている者、縁ある者、みな悉く、近江国内に、寸分の身の置き所も無くなってしまった。

後醍醐天皇 ううう、道誉め、よくもだましよったなぁ! すぐにあいつを退治せぇ!

さっそく、脇屋義助(わきやよしすけ)を大将として、2,000余騎が近江へ差し向けられた。

脇屋軍が湖上を渡り、志那浜で上陸しようとしている所へ、佐々木軍3,000余騎が押し寄せてきて、猛攻を加えた。

脇屋軍サイドは、遠浅の湖面ゆえに、船に乗ったまま湖岸に接近することもできず、上陸地点に馬を下ろすこともできずに難渋している間に、次々に射落とされ、切り倒されていく。

ついにこの日の戦にも天皇軍側は敗れ、生き残ったわずかの者らは、坂本へ漕ぎ戻っていった。

これより後、比叡山上も坂本も、いよいよ食料が尽き、最初は100騎、200騎あった軍も5騎、10騎となり、5騎、10騎で構成の小集団は、誰も馬に乗れない状態になってしまった。(注1)

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(訳者注1)食べる事ができないので(武士が)衰弱して、馬に乗れなくなってしまった、という事を意味しているのか、あるいは、食料に事欠くあまり、ついに乗馬まで食べてしまった、という事を言わんとしているのか、記述の意図がよく分からない。
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