太平記 現代語訳 14-10 足利尊氏、京都へ

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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翌1月11日、足利尊氏(あしかがたかうじ)は、80万騎を率いて京都へ入った。

 「問題なく京都へ入れたら、持明院統(じみょういんとう)の皇族に属する後伏見上皇(ごふしみじょうこう)、あるいは、親王らの中の一人に、天皇に即位していただいた上で、武士の政権を樹立しよう。」
 
と、予め計画していたのだが、かんじんの持明院統の皇族たちは、花園(はなぞの)上皇、親王、元皇太子・康人(やすひと)親王ら一人として京都に残ってはおらず、みな、延暦寺に避難してしまっていた。

足利尊氏 (内心)さてさて、困った・・・。天皇位についてもらうべきお方が、一人も京都に残っておられないとは・・・まさか、この自分が天下の政治を自ら行う、というわけにもいかんしなぁ・・・天下の事、いかがすべきか・・・。

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結城親光(ゆうきちかみつ)は、後醍醐天皇から、二(ふた)ごころ無き忠実な者、と、深く信頼され、陛下よりの御恩顧は格別であった。天皇と行動を共にしようと、一度は思ったが、

結城親光 (内心)このままじゃぁ、どうしようもない。でも、尊氏を討ち取れたら、流れが変わるだろう。

ということで、親光は、わざと京都に止まり、ある禅僧を仲介に立てて、足利尊氏に降伏の意を伝えた。

足利尊氏 (内心)ふーん、投降したいと言ってるのか、あの結城親光がねぇ・・・いやいや、そりゃぁ決して、本心からのものではないだろう。何か企んで、私をだまそうとしてるんだろう。

足利尊氏 (内心)・・・うん、ま、でも・・・話だけは一応、聞いてみるとしようか。

ということで、大友氏泰(おおともうじやす)が使者に立てられ、結城親光と、揚梅東洞院(やまももひがしのとういん)で面会することになった。

氏泰は、元より思慮の足りない人、親光に会うなりいきなり、

大友氏泰 (荒々しく)おまえが、「降参する」ちゅうてきたもんで、将軍様は、わしを使者に任命されてな、くわしい事情ばぁ聞いてこい、との御命令や。ばってん、降伏して出てくる者には、それなりの礼儀作法ちゅうもんがあるだろうが! さぁ、早いとこ、武器ばぁ、みなこっちによこせ!

結城親光 (内心)尊氏め、おれの心中を察して、わしを討つために、この男をさし向けてきたんだな! よぉし。

結城親光 使者がそのように言われるんだから、武器はみな、お渡ししなきゃな。

言うやいなや、親光は、3尺8寸の太刀を抜き、氏泰に走り掛かり、兜のシコロから首の根元のへんまで、きっさき5寸ほど打ち込んだ。

氏泰は、とっさに太刀を抜いて親光の攻撃を受け止めようとしたが、先制攻撃を受けて目がくらんでしまったのであろうか、太刀を1尺ほど抜きながらも、馬から落ちて死んでしまった。

大友家の若党300余騎は、結城親光ら17人を包囲し、一人残らず討ち取ろうと、襲いかかっていった。

親光の郎等たちは、もとより主と共に討死にせんと、覚悟定めてやってきた者ばかり。中途半端な戦いなど、してなるものかと、大友側の者と、引き組んでは差し違え、差し違え、一歩も引かず、14人すべてその場で、共に死んでいった。

足利サイドも朝廷サイドも、これを聞いてみな口々に、

 「立派なツワモノたちの命が、あっという間に失われていってしまったとは、実に惜しい事。」

と、褒めたたえた。

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