太平記 現代語訳 9-4 足利高氏、篠村において、近隣の武士たちを招集

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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京都を出た足利高氏(あしかがたかうじ)は、篠村(しのむら:京都府・亀岡市・篠町)に陣を敷き、近隣の武士たちに招集をかけた。

丹波国(たんばこく)住人・久下時重(くげときしげ)が、250騎を率いて真っ先に馳せ参じてきた。見れば、全員の旗と笠標(かさじるし)に、「一番」という文字が書かれている。高氏はこれに興味を覚え、足利家執事・高師直(こうのもろなお)を呼び寄せた。

足利高氏 なぁ師直、あれ見ろよ。久下家の連中、みんな笠標に、「一番」って文字書いてるじゃないか。あれは、あそこの家の紋所なんだろうか、それとも、「今日ここへ一番にやってきたぞ」という意味なのかな?

高師直 ハァーイ、ハイハイ、お答えいたしやぁす。あの「一番」ってぇ文字はね、あそこの家の由緒正しい紋所ですぞい。

高師直 あいつの先祖、武蔵国住人・久下重光(くげしげみつ)はね、かの源頼朝(みなもとのよりとも)公が、土肥庄(とひしょう:神奈川県・足柄下郡・湯河原町)の杉山で挙兵された時に、真っ先に馳せ参じてきたんでさぁね。そいでもって、頼朝公大いに喜ばれていわく、「わしがもし天下取ったらな、イの一番に、お前に恩賞やっから」。そいでもってね、おん手ずから筆を取り、「一番」って文字を書いて、久下に与えられたんですぞい。それがそのまんま、アイツン家(ち)の紋所となったってわけですよぉ。

足利高氏 ふーん、そんなすごい由緒ある家の者が、最初に馳せ参じてきてくれるとはなぁ。こりゃまた、エンギがいいじゃないか。歴史は繰り返すって言うけど、ほんとうだなぁ。

高氏は大いに、久下を褒め称えた。(注1)

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(訳者注1)原文では、「さては是が最初に参りたるこそ、当家の吉例なれ」とて、御賞玩殊に甚しかりけり」。
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「足利高氏、倒幕側へ!」との情報は、近隣に次々と大きな波紋をまき起こしていった。

例の高山寺(こうさんじ:兵庫県・丹波市)にたてこもっていた、足立(あだち)、荻野(おぎの)、小島(こじま)(注2)、和田(わだ)、位田(いんでん)、本庄(ほんじょう)、平庄(ひらじょう)らは、今さら他人の下につくのもおもしろくないというわけで、丹波から若狭(わかさ:福井県西南部)へ越え、北陸道(ほくりくどう)経由で京都へ攻め上ろうと企てた。

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(訳者注2)8-7 に登場の、荻野彦六(おぎのひころく)、足立三郎(あだちさぶろう)、児島高徳(こじまたかのり)のことを指しているのであろうと思われる。
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その他の者たち、すなわち、久下(くげ)、長澤(ながさわ)、志宇知(しうち)、山内(やまのうち)、葦田(あしだ)、余田(よだ)、酒井(さかい)、波賀野(はがの)、小山(おやま)、波々伯部(ははかべ)等、近隣の武士らは一人残らず、高氏の旗の下に馳せ参じてきたので、篠村に布陣の足利軍の兵力は一気に、2万3千余騎にまで膨張した。

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この情報をキャッチした六波羅庁(ろくはらちょう)では、南北両長官を囲んでまたまた作戦会議。

北条時益(ほうじょうときます) 今度という今度こそは、一大決戦だぞぉ。

北条仲時(ほうじょうなかとき) 天下分け目の戦いだ。この戦の勝敗いかんによって、この先、天下が鎮まるか乱れるかが、決まってしまうんだよ。

六波羅庁メンバーA あのぉ・・・戦う前からこんな事言うのもナンですけどぉ・・・万一、あくまでも、万が一ですよ、こっちサイドが敗北しちゃった場合にはね、天皇陛下と上皇陛下をお守りして、関東へお遷し申しあげては?

北条仲時 でもって、鎌倉遷都か・・・ま、それもいいかぁ。

北条時益 鎌倉へ落ちついてから、あらためて大軍をもってして上洛、反乱軍討伐に取り掛かりゃぁ、いいんだよなぁ。

後伏見上皇(ごふしみじょうこう)と光厳天皇(こうごんてんのう)は、3月から、御所にしつらえられた六波羅北方庁におられる。

尊胤法親王(そんいんほっしんのう)は、延暦寺(えんりゃくじ)のトップ、天台座主(てんだいざす)の地位にあるので、世の中どうひっくり返ったとしても、身の上に変事が降りかかる恐れは無い。しかし、法親王は天皇の弟である。しばらくは、陛下のお側近くにいて、皇位の長久を祈ろうと思われたのであろうか、尊胤法親王もまた、六波羅北方庁へお移りになられた。

さらに、皇太后、皇后、内親王、摂政関白の奥方、太政・左右の三大臣、公卿、院の近臣、文武百官、皇室に関係深い寺院の衆徒、院を警備する武士たち以下、諸家の侍、童子、女房らに至るまで、我も我もと、六波羅庁に避難してしまった。彼らが去った後の京都中心部は、人影も見えず、ひっそりと静まりかえっている。

まさに、嵐の後の木の葉のごとく、住民は東へ西へと逃亡、六波羅庁が存在する鴨川(かもがわ)以東の一帯だけが、桜の開花のようなにぎわいを見せている。しかしこれとて、いったいいつまで続く夢であろう・・・まったくもって、転変止む事のない世の中の有様には、いまさらのように驚かされる。

「天皇は、天下あまねくをもって、家となす」と言う。ゆえに、鴨川の向こう側の洛東(らくとう)、「六波羅庁改め行宮(あんぐう)」にお移りになられたとて、光厳天皇(こうごんてんのう)もさほど、お心を痛められる必要もないであろうに・・・六波羅庁と御所との距離だって、さほど遠くはないのに・・・。

光厳天皇 (内心)あーぁ、ほんまになんちゅうこっちゃ! 私が即位してからというもん、天下は一向に鎮まらへんなぁ・・・。

光厳天皇 (内心)とうとう、こないな事になってしもぉた・・・朝廷の全メンバーが、首都郊外の塵に交わらざるをえんようになってしもぉたがな・・・こないな事になってしもぉた原因、やっぱし、私にあるんやろぉかなぁ・・・私の行いに、何か天に背くような点があるからやろぉか・・・。

深い嘆きの中に、自責の念に責めさいなまれる、光厳天皇。ゆえに、毎日午前4時ごろまで寝床に入らずに、元老賢臣らを召され、中国古代の賢帝たちの政治の事跡をひたすら学ばれ、怪力乱神(かいりきらんしん:注3)方面の話には一切耳を傾けられない。

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(訳者注3)怪異、勇力、動乱、鬼神などの話題。
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4月16日は、月の二番目の申(さる)の日にあたっているのだが、日吉神社(ひえじんじゃ:滋賀県・大津市)の祭礼を、行えないままである。その地に鎮座まします神も、きっと心寂しく思われている事であろう。琵琶湖(びわこ)の中では、神前の贄(にえ)に供されるはずだった錦の鱗の魚が、ただ徒(いたず)らに波の中を泳ぎ回っているだけである。

4月17日は、月の二番目の酉(とり)の日なのに、恒例の賀茂(かも)神社の祭も行われない。一条大路(いちじょうおおじ)は人通りもまばら、祭り見物の場所取りを争う牛車の姿も全く見えない。祭礼に使用される馬の銀装飾には塵が積もり、宝珠(ほうじゅ)形の装飾も、光を失ってしまっている。

「祭礼というものは、今年は豊作だったからといって、贅沢になってはいけない。また、凶作だったからといって、粗末になってもいけないのだ」と言われている。なのに、神社の開闢(かいびゃく)以来この方、毎年欠かすことなく行われてきた上賀茂(かみがも)・下鴨(しもがも)両神社のこの祭礼、この年、初めてついに、執行を見る事が無かった。

これは実に重大な事である。このような不届きな人間の行為に対して、神は今後、どのような処置を下してこられるであろうか、もはや想像もしがたい・・・まことに畏れ多い事としか、言う他はない。

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「首都決戦は5月7日! 全軍、京都に押し寄せ、六波羅庁軍と合戦を行うべし!」

倒幕勢力側の軍議ついに決し、篠村、八幡(やわた:京都府・八幡市)、山崎(やまざき:京都府・乙訓郡・大山崎町)各陣営の先鋒の者らは、宵のうちに前進を開始、京都の西方の梅津(うめづ:右京区)、桂里(かつらざと:西京区)、南方の竹田(たけだ:伏見区)、伏見一帯にかがり火を焚く。山陽・山陰両道からの京都への入り口付近においては、緊迫の度が増大して行く。

北条時益 (内心)マイッタなぁ・・・「高山寺(こうさんじ)にたてこもっていた連中らが、若狭路(わかさじ:注4)経由で、鞍馬(くらま:左京区)、高雄(たかお:右京区)方面から、攻め寄せてくる」なんて情報も、入ってきてるんだよなぁ。

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(訳者注4)福井県から京都へ至るルート。
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北条仲時 (内心)今となっては、脱出口は東の方のみ、近江(おうみ:滋賀県)、美濃(みの:岐阜県南部)方面ルートだけか。

六波羅庁メンバーA (内心)延暦寺の連中らだって、いざとなったら、どう動くかわかりゃぁしねぇぞ・・・あいつら依然として、こっちに敵対心秘めてやがるもんなぁ。

六波羅庁メンバーB (内心)もしかしたら延暦寺の連中、瀬田(せた:滋賀県・大津市)を塞いでしまうかも、そうなったら、近江・美濃方面への脱出も、むずかしくなってしまうかも・・・うぅん、まずいなぁ。

まさに、籠の中の鳥、網代(あじろ)にかかった魚のような状態、京都からの脱出は、はたして可能なのだろうか? 六波羅庁を守る武士たちは、表面上は血気盛んに装ってはいるが、その内心は怯えに満ち満ちている。

中国・雲南郡においては、「家に3人の男子がおれば、そのうち一人を兵にする」のだそうだ。

まさにこの言葉のごとく、方々から武士を根こそぎかき集めて、河内(かわち:大阪府南東部)へ向かわせたのであった。かの、楠正成(くすのきまさしげ)がたてもこる千剣破(ちはや)城、実にちっぽけな、あの城一つを攻める為に。

ところが、その小城、未だ落ちずというのに、思いもよらぬ禍が、自らの足許からまき起こってしまったのである。あぁ、今まさに、義兵の旗は長安(ちょうあん:注5)の西方に接近す。防がんとするに兵は少なく、救わんとするに道は閉塞(へいそく)せり。

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(訳者注5)京都を、中国・唐代の首都・長安(ちょうあん)になぞらえている。
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北条時益(ほうじょうときます) (内心)あーぁ、こんな事になるって前もって予想できてたら、もっと手元に、兵力を残しといたんだがなぁ。

北条仲時(ほうじょうなかとき) (内心)京都防衛に充てるべきトラノコの兵力を、みんな外に出してしまったのは、重大なミスだった。ほんと、悔やまれる。

六波羅両長官をはじめ、全員後悔すれども、もはや、どうにもなるものではない。

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首都防衛の方策については、以前から六波羅庁は、次のような作戦を立てていた。

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今度の戦、各方面の敵軍がしめしあわせて一斉に押し寄せてきた場合、障害物の全くない平地で合戦をしていたのでは、こちらには到底、勝ち目はない。故に、事前に我らの拠点を要塞化しておこう。堅固な拠点さえあれば、時にはそこで馬の足を休め、兵の気力を蓄える事も可能となる。敵が接近してきたら、そこから兵を繰り出して、迎撃すればよい。
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というわけで、彼らは、六波羅庁館の中にたてこもった。鴨川(かもがわ)に面している側に、長さ7、8町ほどの深い堀を築き、その中に、鴨川の水を流し込んだ。まさに、「中国・昆明池(こんめいち)の春の水、西日を鎮め、広く波立つ」といった様。

六波羅庁館の残り三方の周囲には、芝を植えた土塀を高く築き、その上に櫓を並べ、塀の前面に、逆茂木(さかもぎ)を何重にも設置した。まさに、中国の城塩州(じょうえんしゅう)・受降城(じゅこうじょう:注6)の守備もかくや、と思わせるほどの、堅固なること極まりない備えである。

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(訳者注6)唐の時代、北西の辺境に「受降城」という城を築いて、突厥族の侵入を防いだ。
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このように、防御に工夫をこらしてみたのであったが・・・たしかに、城の構えは良く考えられている。しかし悲しいかな、智というものが、そこには欠如しているのだ。

中国の古人いわく、

 剣閣(けんかく:注7)は たしかに険阻の難所である
 しかし これに頼る者は 失敗する
 自らの根元を堅める事を 忘れてしまうからだ

 洞庭湖(どうていこ:注8)は 極めて深い
 しかし これを頼むものは 敗北する
 人民を愛し 国を治める努力 それを忘れてしまうからだ

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(注7)四川省東方の難所。三国時代に、蜀国の防衛拠点となった。

(注8)長江流域の大湖。
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「天下の勢力は真っ二つに分かれ、安危はただこの一戦の結果で決まる」という、今まさにこの時、兵糧を捨て、船を沈め、自らの退路を自ら絶ち切り、決死の戦闘を行ってこそ、危機打開の可能性も見えてこよう、というもの。

なのに、「いざとなったら京都の東口から逃げ出せばいいや」などというような、安易な思惑を心中に秘めながら、ちっぽけな根拠地にたてこもるとは・・・そのような情けない発想しか浮かんでこないのか、六波羅庁サイドには・・・その武略の矮小なること、まことに悲しいものがあるではないか。

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