太平記 現代語訳 2-9 持明院統の人々、六波羅へ避難

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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このような、まことに騒然たる世情ゆえ、尊い方々を捕縛しようなどと企てる、逆心を持つ者も出てくるかも、ということで、27日午前10時ころ、[持明院統]の方々、すなわち、後伏見上皇(ごふしみじょうこう)、量仁皇太子のお二方は、持明院(じみょういん)を出て、まず六条殿(ろくじょうでん:注1)へ避難、さらにそこから、六波羅庁北館へ避難された。

それにつき従うメンバーは、菊亭兼季(きくていかねすえ)、中院通顕(なかのいんみちあき)、西園寺公宗(さいおいんじきんむね)、日野資名(ひのすけな:注2)、勧修寺経顕(かじゅうじつねあき)、日野資明(ひのすけあきら:注3)といった人々。全員、衣冠をただし、御車の前後にあい従った。

その他、院の北面(ほくめん)守護担当の武士をはじめ、朝廷の百官、諸警護の者たちも、 多くは、狩衣(かりぎぬ)の下に腹巻き鎧を着用して、一行に従った。

京都中、わずかの間にすっかり様変わり、これらの軍勢、天子のみ旗を守ってギンギン、といった有様。それを見聞きする人々は、ただただ驚くばかりである。

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(訳者注1)[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]の注によれば、六条の北、西洞院の西にあったという。

(訳者注2)この人は、日野資朝の兄である。

(訳者注3)この人は、日野資朝の弟である。
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