太平記 現代語訳 4-1 後醍醐帝派の人々、苦境に

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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笠置寺の陥落の際に囚われの身となった人々への処置は、これから年末にかけては色々と事が多いから、ということで、翌年に持ち越しとなった。

年が改まって元弘2年(1332)となり、朝廷と幕府の仕事始めの儀式の終わった後、鎌倉から使者として、工藤高景(くどうたかかげ)、二階堂行朝(にかいどうゆきとも)の両名が上洛してきた。

彼らは、幕府の決定内容として、「死罪に処すべき人、流刑に処すべき人とその配流先」のリストを、六波羅庁にて発表した。

延暦寺や奈良の寺院の門跡、公卿、諸官庁の長官に至るまで、その罪の軽重に応じて、禁獄流罪(きんごくるざい)に処された。

中でも処罰の重かったのが、足助重範(あすけしげのり)である。彼に対しての判決は、「六条河原に引き出し、首をはねるべし」。

万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)は、二人の子息、藤房(ふじふさ)・季房(すえふさ)に連座して捕縛され、囚人としての扱いを受けていた。

万里小路宣房 (内心)齢(よわい)すでに70歳近ぉなったというこの時になぁ・・・先帝陛下は、京都から遠く離れた所に、流されはるというやないか。うちの二人の立派な息子も、死刑になってまうかもしれん・・・この自分自身も、囚われの身や。

万里小路宣房 (内心)今まで命ながらえてきた末に、こないなつらい事ばっかし、見たり聞いたりせなならんとは・・・あぁ、やるせないのぉ・・・。

彼は、絶望の中に一首詠んだ。

 長生きなんか なんでしたいと 思たんやろか? この年になって このざまやがな

 (原文)長かれと 何思ひけん 世の中の 憂きを見するは 命なりけり

後醍醐先帝に仕えていた公卿は片っ端から、罪の有無にかかわらず、「もはや、朝廷に出仕の要に及ばず」とされて隠遁(いんとん)を余儀なくされ、あるいは、「本日をもって、これこれの役職を解任!」となり、その日の食にも事欠くありさま。

人の運勢のアップ・ダウン、人生と世の時勢とのマッチ・ミスマッチ・・・すべて、夢か幻か・・・。時は移り、事は去って、哀楽互いに相替わる、憂きがならいのこの世の中において、何かを楽しんでみても、それがいったい、いかほどの意味を持つといえるであろうか、何かを嘆いてみても、それにいったい、いかほどの意味があるというのか。

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源具行(みなもとのともゆき)は、佐々木道誉(ささきどうよ)の警護の下、鎌倉へ連行されることになった。

その道中で、処刑されてしまうであろうと、京都を出発する前に彼に知らせた者があったのだろうか、逢坂(おおさか)の関(滋賀県大津市)にて一首。

 もう帰る こともないやろ ここがあの 片道切符の 逢坂の関

 (原文)帰るべき 時しなければ 是(これ)や此(こ)の 行くを限りの 逢坂の関(注1)

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(訳者注1)百人一首の中の蝉丸(せみまる)の歌、「これやこの 行くも帰るも 分かれては 逢ふも逢はぬも あふさかの関」を意識しての歌であろう。
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また、瀬田唐橋(せたのからはし:滋賀県・大津市)を渡る時に一首。

 今日限りと 思う人生 夢みたい 二度と渡れん 瀬田の長橋

 (原文)きょうのみと 思う我が身の 夢の世を 渡る物(もの)かは せたの長橋

実際に、「道中にて、源具行を殺してしまえ」との命令が事前に下されていた。さらに、鎌倉から使者がやってきて、「近江国の柏原(かしわばら:滋賀県・坂田郡・山東町)のあたりで、処置してしまえ」と、催促する。

護送の任に当たっていた佐々木道誉は、具行の前に来て言った。

佐々木道誉 いったいどのような前世の因縁があってかは知りませんけど、よぉけ人間がいる中に、この私が、あなたの護送を担当する事になったんですよねぇ・・・。

源具行 ・・・。

佐々木道誉 このような事を申し上げるのは、情け知らずな事のようにも思えますが・・・こうなったらもう、はっきりと申し上げるしかありません。

佐々木道誉 自分は下っ端の人間やからね、あなたの命をお助けしてあげれるだけの力もありません・・・今日まではね、「源具行卿を赦免す!」てな、幕府の裁決、あぁ、早いとこ、出てくれねぇもんかいなぁと思いながら・・・ここまでの道中、やって来たんですけどねぇ。

佐々木道誉 でも、ついに、鎌倉からの使者がやって来よりましてねぇ・・・「源具行卿を失い奉れ!」との、キツーイ命令ですわ。

佐々木道誉 というわけでしてなぁ・・・何事も前世の因縁とおぼしめされて、ごなっとく頂きたく・・・(泣きながら、袖を顔に押し当て)

源具行 ・・・(思わず涙を流し、それを押し拭い)。

佐々木道誉 ・・・(涙)。

源具行 囚人の身となってから今日まで、あんたにはほんまに、良ぉしてもろぉたなぁ。このご恩、死んだ後までも忘れへんでぇ。

佐々木道誉 ・・・(涙)。

源具行 先帝陛下でさえも、遠島流刑(えんとうるけい)や、いうねんから、その下のもんが処刑されるん、しかたないわなぁ。

源具行 とにかく、あんたが私に運んでくれた深い人情、たとえ、命ながらえれたとしても、感謝のしようもないくらい、ありがたい。

具行は、硯と紙とを取り寄せ、無言のまま手紙を細々と書いた。

源具行 この手紙、なんかのついででもあったら、例の方に届けてぇな。

日没と同時に、道誉は、輿を用意して具行をそれに乗せ、街道から西に入った山ぎわの、松が一群生えている所まで運んだ。

輿から降りた具行は、敷皮の上にいずまいをただし、再び硯をとり寄せて、しずしずと辞世の文をしたためた。

 誕生から死への道程に 遊歩すること42年
 今 山河は かつて見たこともないような姿を
 わが眼前に 見せている
 これこそが 天と地との無限なる姿

 (原文:逍遙生死 四十二年 山河一革 天地洞然)

最後に「6月19日 某」と書いた後、彼は筆をおき、手指を組み合わせて座した。

田児六郎(だごろくろう)が背後へ回ったと見るやいなや、源具行の首は前に・・・あぁ、哀れという言葉ではとても言い尽くせないこの思い。

道誉は泣く泣く、遺体を荼毘(だび)に付し、様々の供養を行って、具行の極楽往生を祈った。

哀れなるかな、源具行。

後醍醐先帝が即位前に「師宮(そちのみや)」と呼ばれておられた頃から、彼は、そのお側近くに仕え、朝夕に拝礼を怠らず、昼夜に忠勤すること、他に抜きんでるものがあった。ゆえに、先帝の御即位の後は、昇進も滞り無く、その御寵愛(ごちょうあい)も深まっていったのであった。「源具行、たった今、命終えたり」と、先帝が聞かれたならば、どんなに哀れに思われることであろうか。

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同月21日、殿法印良忠(とののほういんりょうちゅう)を、御所・大炊門(おおいもん)および油小路(あぶらこうじ)周辺警備担当・小串秀信(おぐしひでのぶ)が捕縛し、六波羅庁へ連行してきた。

六波羅庁長官・北条仲時(ほうじょうなかとき)は、斉藤十郎(さいとうじゅうろう)に、彼の取り調べを担当させた。

斉藤十郎 仲時殿は、次のように言っておられるぞよ。

 「先帝でさえもが不可能であった倒幕などという、とんでもない事を、あなたのごとき人が思い立つとは、なんとまぁおそれ多く、また、軽率この上ない事か。先帝を我らの手から奪取するために、六波羅庁内の位置関係を示す絵図なんかまでをも懐に入れて、この周辺をうろうろしておったというではないか! まさに武家の敵(かたき)、重罪の極み、その陰謀の企ては罪責余りある! 計画の全容を、ここに残らず白状せよ、詳細に鎌倉の方へ報告するから。」

殿法印良忠 なんやてぇ! いったいナニ言うとんねん、えぇかげんにしぃや!

斉藤十郎 ・・・。

殿法印良忠 考えてみぃ、日本の国土は全て陛下のもの、地上の人間もことごとく、陛下のもんやないかい! 陛下のご苦悩を見て嘆かん日本の民が、いったいどこにおるか! 一人の人間として、この国家の現状を、安閑として見とれるはずがないやろが!

殿法印良忠 「おそれ多い」やとぉ! 「軽率」やとぉ! ナニを言うか! 陛下のお心を思いはかり、その御身を、そちらの手の内から奪い奉らんとの企てが、いったいなんで、おそれ多いんや! 邪なる権力に天誅を加えるために、企てたわが計画を、「軽率」などとは、言うてほしぃないなぁ!

殿法印良忠 あぁ、そぉや、その通りや! 陛下が倒幕を企ててはるっちゅうことは、とぉの昔から知っとったわいな。そやから、私も、陛下について、笠置の皇居へ行って倒幕軍に加わったんや、それにまちがいない!

殿法印良忠 そやけどな、急に京都を脱出してのことやったから、防衛もかためることができへんままに、陛下の軍は敗北、逃走、やむなく目的を達成できず、いうわけや。

殿法印良忠 そやけどな、その間に、私と源具行殿と相談の上で、「倒幕命令勅書」、山ほど書いて、諸国の武士に、バンバン、送ったったわい!

斉藤十郎 ・・・。

殿法印良忠 私の言いたい事は、これで全部や!

これを受けて、六波羅庁では会議を開いた。様々の意見が出たが、

二階堂信濃入道 彼の罪責はもう紛れもなしだからねぇ、死罪に処すことについては、誰も異論は無いでしょうよ。ただね、なにも急いで、刑を執行する必要もないのでは? 彼の仲間たちの捜索を更に行ったうえで、再度、鎌倉に詳細を報告して処断を仰ぐ、という方向でどうでしょうねぇ?

長井高冬 もっともなご意見だと思います。これほどの大事は、鎌倉でご判断いただいてからでないとねぇ。

会議メンバー一同 賛成、賛成。

というわけで、殿法印良忠を、五条京極(ごじょうきょうごく)警備担当・加賀前司(かがのぜんじ)に預けおいて牢屋に閉じこめた後、再度、鎌倉へ使者を送った。

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平成輔(たいらのなりすけ)は、川越円重(かわごええんじゅう)により、鎌倉へ連行されていったが、途中、相模国(さがみこく)の早川(はやかわ)の河口付近(神奈川県・小田原市)で、殺されてしまった。

藤原公明(ふじわらのきんあきら)と洞院実世(とういんさねよ)に対しては、「彼らは、赦免してもよいだろう」という事にいったんはなったのだが、「いや、やっぱりだめだ、心の中では、何を考えているかわからんから」との疑惑を持たれたのであろうか、波多野宣道(はたののぶみち)、佐々木三郎(ささきさぶろう)が預かる事となり、一向に帰宅が許されない。

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花山院師賢(かざんいんもろかた)は、下総国(しもうさこく:千葉県中部)へ流罪となり、千葉貞胤(ちばさだたね)の預かりとなった。

師賢は、志学の年齢、すなわち15歳になった頃より、和漢の学問を極める事を志し、位階の昇進などにはあまり関心が無かった。そのような人であったから、今や流刑の身となっても、まったく動揺することも無い。

中国・唐朝最盛期の詩人・杜甫(とほ)は、安録山(あんろくざん)の乱の巻き添えをくらい、都から遠い地へ行かざるをえなかったが、その際に、

 左右の鬢(びん)の 頭髪をもつらせた情けない姿で
 灩澦(えんよう)川の道を経て
 一隻の釣舟(つりぶね)に乗り
 滄浪(そうろう)川の天に 今まさに入る

 (原文)路経灩澦双蓬鬢 天落滄浪一釣舟

と、天の果てにいる自らの恨みを、詠み尽くした。

また、わが国の大歌人・小野篁(おののたかむら)は、隠岐国に流されるときに、

 海原(わたのはら) 八十嶋(やそしま)かけて 漕ぎ出でぬ

と、漁労の海人にことづけて、旅泊の思いを詠んだ。

花山院師賢 (内心)人間の一生というものは、しょせん、うまくいく時もあれば、そうはいかない時もあるもの。それをよくよく認識した上で、嘆かわしい局面に遭遇しても、嘆かない、運の開ける時もあれば、開けない時もある、という事実をきっちりと見つめ、悲しい時にあっても、悲しまない、このように、あるべきなんやろう。

花山院師賢 (内心)まして、「主憂うる時はすなわち臣辱めを受く、主辱められる時は臣死す」と言う言葉もあるやないか。たとえ、自らのこの骨を塩辛(しおから)にされようとも、肉体を車裂きにされようとも、嘆くべき事やないわ。

このように、いささかも悲しみを見せない師賢であった。

折に触れ、興がわくままに毎日、詩文を朗詠する日々。

現世での望みも絶えた今は、「もう出家してしまいたい」と、しきりに申し出たところ、鎌倉幕府最高権力者・北条高時(ほうじょうたかとき)より、「出家、OK」の許可が出たので、40際にも満たない年齢で、髪を剃り落とし、仏門に入った。

それから間もなく、元弘の乱が勃発した頃に、にわかに病に犯されて亡くなってしまった。

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万里小路季房(までのこうじすえふさ)は、常陸国(ひたちこく:茨城県)へ流刑、長沼駿河守(ながぬまするがのかみ)の預かりとなった。

兄の万里小路藤房(ふじふさ)もまた、常陸国へ流刑、小田兼秋(おだかねあき)の預かりとなった。

左遷遠流の悲しみ、いずれも劣らぬ涙ではあるが、藤房の心中を察するに、哀れさがいや増す。

当時、中宮妃につかえる女官で左衛門佐局(さえもんのすけのつぼね)という、容色まことにすぐれた女人がいた。

あれはたしか、さる元享(げんきょう)年間の秋の頃であったか、後醍醐天皇は、中宮の実家の北山・西園寺(きたやまさいおんじ)邸に行幸された。

邸内で、祝いの舞踊が催された。

堂下の庭の中、ダンサーたちが袖を翻して舞い、楽人たちが音楽を奏でる。管弦のアップテンポの演奏にのって、玉のごとき美声は玲瓏(れいろう)と響く。

その時、左衛門佐局は琵琶のパートをおおせつかり、「青海波(せいかいは)」という曲を奏でたのであった。その演奏は、

 うぐいすの美しいさえずりが 花の下を滑りぬけるように
 人知れず湧き出ずる泉水が 氷の底に淀むように
 恨みのメロディ 和合のハーモニー 現れては消え 消えては現われ
 四本の弦は 帛(きぬ)を裂くがごとくに歌う
 撥(ばち)をふるっては バララン 撥をふるっては ジャララン
 楽の音にさそわれて 梁の上に燕が飛び 水中に魚は躍る

 (原文)
  間関(かんかん)たる鶯の語りは花下に滑(なめらか)
  幽咽(ゆうえつ)せる泉の流れは氷の底に難(なや)めり
  適怨(てきえん)清和(せいか)節に随(したがって)移(うつ)る
  四弦(しげん)一声(いっせい)帛(はく)を裂くがごとし
  撥(はら)っては復(ま)た挑(かか)ぐ
  一曲の清音梁上(りょうじょう)に燕飛び
  水中に魚躍るばかりなり

万里小路藤房 (内心)あぁ、なんとスバラシイ女人なんやろう・・・この世の中に、こんな人がいたんかぁ・・・。

その姿をちらりと見た瞬間から、藤房は、左衛門佐局のとりこになってしまった。

人知れず、彼の胸の中に発生したその思いは、日を経るに従い、ますます深まっていく。

万里小路藤房 (内心)この胸の中の思い、なんとかして彼女に伝えたい・・・けど、その手だてがない。あぁ・・・あぁ・・・。

その時から、嘆きあかし思いくらして3年、口さがない人の目をかいくぐり、いったいいかなる手立てをもって実現したのであろうか、ついに藤房は、左衛門佐局との逢瀬を渡る事に成功。たった一夜の夢幻(ゆめ)か現実(うつつ)かもさだかならぬような思いの中に、二人は愛を交わしたのであった。

その翌日の夜だったのだ、後醍醐帝天皇が御所を脱出し、笠置に向かわれたのが。

藤房も、急ぎ正装を脱ぎ、軍服に着替えて天皇におともすることになった。

万里小路藤房 (内心)彼女にまた会えるかどうかも分からへん・・・たった一夜の夢に見たあの面影、ああ名残惜しいなぁ・・・。もう一度だけ、もう一度だけ、会えるもんやったら会ってみよう。

藤房は、左衛門佐局が居住している御所の西の棟に行ってみたが、

中宮局の女官 左衛門佐局はん、いはらしまへんでぇ。中宮様のおともして、今朝から、西園寺邸へ行ってしまわはりましたえ。

藤房 (内心)あーぁ・・・。

藤房は、鬢(びん)の髪を少し切りとって紙に包み、そこに歌を書き添えて、そこへ置いて帰った。

 黒髪の 乱れん世まで 存(ながら)えば 是(これ)を今はの 形見(かたみ)とも見よ

 (原文のまま)(注2)

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(訳者注2)近いうちに到来するであろう乱世になるまで、あなたが生きながらえていたら、どうか、死に行く私の形見と思って、この黒髪を見てね、という意味。
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後日、住居へ帰ってきた左衛門佐局は、この髪と手紙を見て、

左衛門佐局 黒髪の 乱れん世まで 存へば 是を今はの 形見とも見よ・・・

左衛門佐局 黒髪の・・・乱れん世まで・・・存へば・・・(涙)

左衛門佐局 是を今はの・・・(涙)形見とも・・・(涙、涙)見よ・・・ううう(涙)

藤房が書き残していったその歌を、読んでは泣き、泣いては読み、その紙を、何度も何度も巻いては開き、開いては巻き・・・心は乱れて、もうどうしようもない。涙が紙に落ちて文字は消え、彼に対する思いが、ますますこみあげてくる。

左衛門佐局 せめて、せめて・・・あのお方のおられる場所でも分かったら・・・たとえ虎が伏してる野原であろうと、鯨がたむろしてる浦辺であろうと、ついていくのに・・・(涙)

しかし、彼の行き先はどことも知れず、再会がかなうか否かも定かではない。あまりの悲しみに耐えかねて、左衛門佐局は詠んだ、

 残された あなたの手紙 離さへん いついつまでも 形見にするわ

 (原文)書き置きし 君が玉章(たまずさ) 身に副(そ)えて 後の世までの 形見とやせん

彼女は、この歌を、藤房から送られた歌の横に書き添え、形見の髪といっしょに袖に入れて、御所を出奔、京都の嵐山(あらしやま)を流れる大堰川(おおいがわ)に身を投げてしまった。なんと哀れな事であろうか。

「あなたがくれた一日の愛のために 百年の一生を誤ったあたくし」とは、まさに、このような事を言うのであろうか。

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洞院公敏(とういんきんとし)は、上総国(かずさこく:千葉県北部)へ、東南院僧正聖尋(とうなんいんそうじょう・じんそん)は、下総国(しもうさこく:千葉県中部)へ流罪。

峯僧正俊雅(みねのそうじょう・しゅんが)は、対馬国(つしまこく:対馬島)へ流罪とのはずであったが、
急に長門国(ながとこく:山口県北部)に変更された。

後醍醐先帝の第4親王(静尊法親王)は、但馬国(たじまこく:兵庫県北部)へ流罪となり、その国の守護の大田守延(おおたもりのぶ)が、その身柄を預かることになった。

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