太平記 現代語訳 21-6 新田軍、反攻に転ず

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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11月5日、吉野朝(よしのちょう)の群臣らは合議の後、先帝に謚名(おくりな)を奉った。

在位の間、先帝は延喜(えんぎ)年間の治世を理想としていたので、その時の帝王の謚名(醍醐天皇)に縁の深い名前を、ということで、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)とした。(注1)

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(訳者注1)実際には、天皇自ら生前すでに自分の謚名を決定していたようである。[日本の歴史9・南北朝の動乱 佐藤進一 著 中央公論社 1974] の 11ページには、以下のようにある。

「久しい以前から、延喜(醍醐朝)、天暦(村上朝)時代こそ聖徳な天子の君臨した平和な時代であり、王朝の最盛期であったという伝説が王朝・貴族の間に語りつがれていたが、後醍醐はこの伝説を次のように解釈した。すなわち、延喜・天暦時代は、幕府・院政・摂政関白など天皇の権力を掣肘(せいちゅう)するもののまったくない時代であり、このように国家権力が完全に天皇の一身に集中する政治形態こそ、日本の政治のあるべき姿であると。これは延喜・天暦政治の実体と一応別個の、後醍醐自身の解釈である。彼が前例を無視して、死後におくられるべき謚名(しごう=おくりな)を生前に「後醍醐」と定めたのも、「延喜・天暦にかえれ」というスローガンを打ち出したのも、そのような思想的立場からであった。」
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新天皇(後村上帝)は未だ幼少であるし、前天皇が崩じた後3年間は公家のリーダーに政治が任される、という古来からの習わしもあるので、

 「政治面での判断は、大納言・北畠親房(きたばたけちかふさ)が行う。洞院実世(とういんさねよ)と四条隆資(しじょうたかすけ)が、諸事を取り次いで奏上する。」

という事になった。

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新帝即位の後、その布告はまっ先に、越前(えちぜん:福井県東部)の脇屋義助(わきやよしすけ)のもとへ送られ、さらに、筑紫(つくし:福岡県)にいる懐良(かねよし)親王、遠江(とうとうみ:静岡県中部)の井伊(いい)の城にいる宗良(むねよし)親王、奥州(おうしゅう:東北地方東部)の新国司・北畠顕信(きたばたけあきのぶ)のもとにも、「後醍醐先帝のご遺言を奉じ、陛下への忠義の戦に邁進(まいしん)せよ!」との天皇命令書が送られた。

新田義貞(にったよしさだ)が死して後、北陸地方の反足利陣営は、義貞の弟・脇屋義助が統括していたが、彼らの勢いは微々たるものになっていた。しかしなおも、方々の城郭に軍勢を駐留させ、足利側勢力の進出をなんとか食い止めていた。

脇屋義助 いつまでもなぁ、こんな状態で引っ込んでるオレたちじゃねぇぜ、なぁ、みんな!

新田軍リーダーA そうですとも! そろそろね、方々の城から軍勢を繰り出してね、

新田軍リーダーB 全軍合流の後、イッキに黒丸(くろまる)城攻めだぁ!

新田軍リーダーC 斯波高経(しばたかつね)めぇ、今度という今度こそは、アイツの息の根止めてやっからなぁ!

新田軍リーダーD 義貞様のカタキ、絶対に取ってやるぞぉ!

新田軍リーダーE (その場にかけこんできて)殿、殿!

脇屋義助 うぅ? いったいなんだぁ?

新田軍リーダーE 吉野から勅使(ちょくし)が!

脇屋義助 エーッ!

やがて、その場に勅使が入ってきた。

勅使 ・・・と、いうわけでなぁ・・・(涙)。

脇屋義助 (ガク然)・・・そんなぁ・・・陛下が崩御だなんて・・・そんな・・・。

新田軍リーダーA ・・・。

新田軍リーダーB ・・・。

新田軍リーダーC まったく・・・闇夜の中で灯火を失ってしまったようなもんだぜ・・・まったく。

新田軍リーダーD 殿・・・。

勅使 いやいや、皆そないに力を落すでない。先帝陛下はなぁ、今際(いまわ)の際に至っても、あんたら新田兄弟に対してな、深い深い思いを寄せてはったんやでぇ。

脇屋義助 ・・・。

勅使 陛下は最期にな、こう仰せられたんやで、「新田兄弟の子孫らを股肱(ここう)の臣とならしめ、彼らに天下を平定させよ」とな。

脇屋義助 ・・・陛下!・・・(涙)。

勅使 ・・・ことの他、あんたら新田一族を頼りにしてはったんや。あんたらに全ての期待を託して、崩御あそばされたんやでぇ!(涙)。

脇屋義助 陛下! なんというありがたい・・・なんというもったいない・・・。わが新田一族、陛下への忠義、さらに、さらに、心肝に銘じて・・・(涙)。

勅使 ・・・という事やからな、義貞の時と同様、今後は義助、あんたが朝廷軍の指揮を執るんや。各自の武勲やそれに対する恩賞等々、万事よぉ考えて、朝廷に申請するようにな。

脇屋義助 ははっ!(平伏)

新田軍リーダーA こうなったら、なんとしてでも、一戦して勝利をもぎとらなきゃなぁ!

新田軍リーダーB この戦場でのオレたちの奮闘が、吉野にいる人々らの励ましになっていくってわけさね。

新田軍リーダーC よぉし、やるぞぉ!

新田軍リーダーD でもね、明日からすぐに戦闘開始ってわけには、行かないよねぇ。

新田軍リーダーC どうして?!

新田軍リーダーD だってさぁ、陛下の49日も、まだ明けてないんだよ。

新田軍リーダーC あ、そっかぁー。

脇屋義助 49日か・・・戦闘開始の日が待ち遠しいな!

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この3年間というもの、越前の30余か所の城において、戦の止む時はなかったが、中でも特筆すべきは、湊城(みなとじょう:福井県・坂井市)であろう。

北陸道7か国の足利側勢力をもってしても、ついに攻め落せなかったこの城は、脇屋義助の若党・畑時能(はたときよし)が、わずか23人を率いてこもっている平城であった。

吉野朝の新天皇が即位して間もないこの時、天の運りもようやく、新田サイドに有利に傾きはじめたようである。

いよいよ、先帝の喪が明け、新田軍の大反攻開始の時が来た。

大将・脇屋義助より各方面に、「一斉に城から兵を出して一所に合流し、越前国にたむろする朝敵を平らげ、他国までうって出るべし!」との通達が送られた。

7月3日、畑時能は、300余騎を率いて湊城からうって出た。(注2)

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(訳者注2)先には、「わずか23人を率いてこもり」とあったのに、ここでは300余に兵力が増えていて、「?」である。少人数でもって城を守りきったので、周囲からの寝返りによって兵力が増強した、と解釈すべきなのだろうか?
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彼らは、金津(かなつ:福井県・あわら市)、長崎(ながさき:坂井市)、河合(かわい:福井県・福井市)、河口(かわぐち:あわら市-坂井市)へ進撃し、足利サイドの城12か所を落し、首を切る事800余人、女子供や嬰児まで、残らず刺し殺していった。

同月5日、由良光氏(ゆらみつうじ)は、500余騎を率い、西方寺(さいほうじ:あわら市)からうって出て、和田(わだ:福井市)、江守(えもり:福井市)、波羅密(はらみ:福井市)、深町(ふかまち:福井市)、安居(はこ:福井市)へ進出、足利サイドが守りをかためている城6か所を2日間の中に攻め落し、すぐに自らの将兵をその城に入れて守らせた。

同月5日、堀口氏政(ほりぐちうじまさ)は、500余騎を率いて、居山城(いやまじょう:大野市)を出て、香下(かした:大野市)、鶴澤(つるさわ:越前市)、穴馬(あなま:大野市)、河北(かわきた:福井市)一帯の11か城を5日間の中に攻め落し、降伏した者ら千余人を引率して河合庄へ進撃。

総大将・脇屋義助は、禰津(ねづ)、風間(かざま)、瓜生(うりう)、川嶋(かわしま)、宇都宮(うつのみや)、江戸(えど)、波多野(はだの)の軍勢、合計3,000余を率いて出陣。国府(こくふ:福井県・越前市)から三手に分かれ、織田(おだ:福井県・丹生郡・越前町)、田中(たなか:越前町)、荒神峯(こうじんがみね:越前町)、安古渡(あこのわたし:福井市)一帯の17城を3日3夜の中に攻め落し、城の大将7人を捕虜にし、士卒500余人を殺して、河合庄へうって出た。

同月16日、各方面の新田軍は合流して6,000余騎の大軍となり、三方から黒丸城(福井市)に迫った。

河合種経(かわいたねつね)は、新田サイドに投降して畑時能の配下に入っていたが、時能は、種経の部下を率いて夜半、足羽城(あすはじょう)の南西方向にある小山の上に陣取った。その後、終夜にわたって黒丸城の周囲を懸け回ってはトキの声を上げ、遠矢を射かけ、「新田軍主力がここに到着したら、オレが真っ先に城へ攻め入るのだ!」とのデモンストレイションを行いながら、夜明けを待った。

上木平九郎家光(うえきへいくろういえみつ)は、元は新田サイドにありながら、最近は足利サイドに寝返り、黒丸城の中にいた。家光は、足利・北陸方面軍総大将の斯波高経の前にきていわく、

上木家光 この城は昨年、新田殿に攻めたてられましたよねぇ。でも、あの時は、斯波殿の不思議なご強運でもって、なんとか勝利することができました。でもねぇ、今度もまた前のようなチョウシで大丈夫、なぁんて事、まさか思われてませんでしょう?

斯波高経 ・・・。

上木家光 万が一にも、そんなふうに考えておいでだとしたら・・・そいつぁ、とんでもない考え違いってもんですよぉ!

斯波高経 ・・・。

上木家光 あの時はね、こちらの城へ向かってきた連中らはみぃんな、関東や中国地方の武士たちでしたから、ここらの地理も不案内だったんですよ。でもって、深田に馬をはまらせてしまい、掘や溝に落ちてしまい・・・そしてついに、名将・新田義貞も流矢の鏑(かぶら)にかかって、というわけですわ。

斯波高経 うん・・・。

上木家光 でもね、今度の戦は前とは相当、ようすが違ってますよ。まず第一に、今までこちらの陣営に属してた連中らがたぁくさん寝返ってしまって、あちらサイドにいっちゃってますからね、攻めてくる側も、城内や付近の地理をよくよく心得てる。

斯波高経 ・・・。

上木家光 その上、畑時能なんていう、それこそ日本一の大力の剛の者が、「この城攻めて、命を落とすぞ」なんてぇ、覚悟かためて、オレらに立ち向かってくるんですからなぁ・・・あの男と互角に渡り合える者なんか、おそらく、こちら側には一人もおりませんでぇ。

斯波高経 ・・・。

上木家光 他からの援軍もあてにできないこの平城に、こんな小勢でたてこもったあげくに、「名将・斯波高経殿、落命」だなんて・・・そんな話、わしとしては願い下げにしてほしいもんですわ。

斯波高経 ・・・。

上木家光 ですからねぇ、ここはとにかく一歩引いてね、今夜の中に、加賀国(かがこく:石川県南部)へ退却なされませ。遅かれ早かれ、京都から援軍がやってくるんだから、それと合流して兵を集め、越前に戻って敵を退治する、それでいいんですよ、それでぇ!

細川出羽守(ほそかわでわのかみ) 同感ですねぇ。

鹿草兵庫助(かぐさひょうごのすけ) 上木殿の言われる事も、もっともですよ。

朝倉広景(あさくらひろかげ) 上木殿の提案通りにしてみません?

斉藤(さいとう) それがいいと思いますねぇ。

斯波高経 ・・・よし、いたしかたあるまい。

というわけで、高経は、自らの勢力範囲下にある五つの城に火を放ち、その光を松明がわりに、夜の間に、加賀国の富樫(とがし)氏の城へ逃げ込んだ。

畑時能のこの謀略をもってして、脇屋義助はついに黒丸城を落し、兄の雪辱を果たした。

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