太平記 現代語訳 33-3 光厳上皇ら、京都へ帰還

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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足利直冬(あしかがただふゆ)、斯波高経(しばたかつね)、山名時氏(やまなときうじ)、桃井直常(もものいなおつね)らは、諸国から京都に攻め上ってはみたものの、東寺(とうじ:京都市南区)と神南(こうない:大阪府高槻市)の戦いに連敗してしまい、それぞれの本拠地へ逃げ帰ってしまった。

しかし、彼らが政権転覆(せいけんてんぷく)の志を捨てたわけではない。

ゆえに、首都においてはかろうじて静謐(せいひつ)が保れ、よその地からやってきた武士たちが覇権(はけん)を握るような状態になってはいないが、地方においてはなおも平和が到来する兆しも見えず、日々武器を取り、朝に夕に兵糧を準備し、といった状態である。

吉野朝(よしのちょう)年号・正平(しょうへい)7年(1352)に、京都朝廷の光厳上皇(こうごんじょうこう)、光明上皇(こうみょうじょうこう)、崇光上皇(すうこうじょうこう)、皇太子・直仁親王(なおひとしんのう)が、吉野朝廷の囚われの身となり、賀名生(あのお:奈良県・五條市)の奥に押し込められてから、すでに5年が経過(注1)。

「京都において、既に新天皇(注2)が即位された今となっては、このような山中にお住みいただくのは、余りにもおいたわしい事ではないか」という事で、吉野朝年号・正平12年(1357)2月、吉野朝廷は、これらの皇族全員を賀名生の山中から解放し、京都へ還幸(かんこう)させた。(注3)

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(訳者注1)30-8 参照。実際には、5年間の中、前2年間が賀名生、後3年間は河内の金剛寺に幽閉されていた。([日本の歴史9 佐藤進一 著 中央公論社])。

(訳者注2)後光厳天皇。32-1 参照。

(訳者注3)史実においては、これらの人々の京都への帰還は、太平記のここに書かれているような、同一タイミングでは行われていない。
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光明上皇は、父君の故・後伏見上皇(ごふしみじょうこう)のかつての住居・伏見殿(ふしみでん)に入り、そこを住いとした。

上皇のもとへ参上してくる公卿は、一人もいない。

庭には草が生い茂り、桐の落ち葉が積もって道も隠れ、軒は深く苔むしてしまっている。

光明上皇 (内心)あぁ・・・見る人に涙を催させる月とさえも、疎い間柄になってしもうたなぁ・・・。

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光厳上皇は、去る京都朝年号・観応(かんのう)3年(1352)8月8日、河内(かわち:大阪府南東部)の金剛寺(こんごうじ:大阪府・河内長野市)で出家していた。おん年41歳(注4)、法名は、「勝光智(しょうこうち)」。

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(訳者注4)太平記作者の誤り。正しくは、40歳。
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京都へ帰還の後、光厳上皇、光明上皇は、共に、夢窓疎石(むそうそせき)の弟子になった。そして、光厳上皇は、嵯峨(さが:右京区)の奥、小倉山(おぐらやま)の麓にひっそりとした庵を結んだ。一方、光明上皇は、伏見の大光明寺(だいこうみょうじ:伏見区)に入った。双方共に、ものさびしく、目立たない住いの様で、言葉にも表現し難い。

かのゴータマ・シッダルタ太子(注5)は、父・シュッドーダナ王の王宮を出てダンタロカ山に分け入り(注6)、シュダイナ太子(注7)は、クル国の翁(おきな)に対して、我が身をもって布施とした。

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(訳者注5)釈尊の出家前の名前。

(訳者注6)太平記作者の誤り。ダンタロカ山は、「釈尊が前世においてシュダイナ太子であった時に、修行された所」とされている。([仏教辞典 大文館書店刊])。

(訳者注7)上記の注を参照。
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シッダルタ太子も、シュダイナ太子も共に、将来、十善の国を合わせた16の大国の王位を約束されていたのであったが(注8)、何もかも捨てて出家を決意した時には、「その王位、一塵よりもさらに軽し」と、されたのあった。

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(訳者注8)シュダイナ太子はともかくとして、シッダルタ太子については、太平記作者の誤りである。シッダルタ太子の時代、インドの大国といえば、マガダ国、コーサラ国。太子の生国・カピラ国は、小国であって大国とは言い難い。
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光厳上皇 (内心)ましてや、わが日本列島をインドに比較してみたら、粟粒(あわつぶ)のごとき小さな国、アジア大陸東方の辺境の地に過ぎん。たとえ日本全土を統一して無為の大化(ぶいのたいか:注9)の中に人民を楽しませることができたとしても、あちらの大国の王位に比べたら、1000億分の1にも満たへんようなもんやないかいな。

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(訳者注9)あえていろいろと作為せずとも、自然と国家が治まっている状態。
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このような理(ことわり)を、よくよく噛み締め、憂いの念をもってして、それをかえって仏縁に繋がれる良き契機と成し、ついに世を捨てて、出家を遂げたのであった。

光明上皇 (内心)思い切って捨ててしもて、ほんまによかったわ。わが身が、ものすごい軽ぅなったようなカンジや・・・いや、それだけやない、心もなんか、ものすごい静かな、深い平安を得られたような気がする。

部屋の半ばまで入り込んでくる雲も、寝床に差し込んでくる月光も、今や、座禅修行の合間の友である。

光厳上皇 (内心)天皇や上皇の位におった時は、その地位・権力の力でもって、心の平安を得ようと、私は願(ねご)ぉとった。そやけど、ついに、それは叶(かな)わんかった。ところが、地位も何もかも捨てた今になって、はじめて、それを得る事ができたとは・・・自分はほんまに、逆説の人生を生きてきてたんやなぁ・・・。

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