太平記 現代語訳 36-5 佐々木兄弟、戦死

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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9月28日、摂津国(せっつこく:大阪府北部+兵庫県南東部)においても、思いもかけぬ事態の展開により、幕府側に多数が戦死者が出た。

そもそもの発端はといえば、

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今は亡き赤松範資(あかまつのりすけ)は、二心無き忠戦の功績により、先代将軍・故・足利尊氏(あしかがたかうじ)から、摂津国の守護職を拝領していた。そして、範資の死後、その長男・光範(みつのり)が、その地位を継承していた。

ところが昨年、あの、日本全国の勢力を率いての足利義詮(よしあきら)による「吉野朝・大攻略戦」の際に、こんな事があった・・・

足利義詮・側近A (小声で)あの人、いつもこうなんだよなぁ、ハァー(溜息)。

義詮・側近B 「あの人」って、いったい誰?

義詮・側近A (小声で)赤松光範殿だよぉ・・・今回も、戦費調達、過少だぁ。

義詮・側近C (小声で)エェー! またかよぉ。

たまたま、その場に居あわせ、この会話に耳をそばだてていた佐々木道誉(ささきどうよ)は、思わずニンマリ、

佐々木道誉 (内心)オォッ、これは、いい事を聞いたね!

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吉野朝大攻略戦の終了の後、赤松光範には、別にどうという咎(とが)も無かったのに、佐々木道誉は足利義詮に対していわく、

佐々木道誉 (小声で)さぁ、これから天下分け目の戦をやるぞぉってぇ時なのに、戦費の調達もちゃんとしない、そんな、ふとどき(不届)なやから(輩)が、いるんですもんねぇ・・・もうヤンなっちゃいますなぁ・・・そんなちょうしだから、今回の戦も、うまくいかなかったわけですよぉ・・・ハーァ(溜息)。

足利義詮 (小声で)それって、いったい誰?

佐々木道誉 (小声で)えぇっ! ご存じ無かったんでぇ? 赤松ですよ、ほら、あの摂津国の守護の!

足利義詮 (小声で)へぇー、あの光範がねぇ。

佐々木道誉 (小声で)あの男はね、いつもいつも、あぁなんですよぉ。

足利義詮 ・・・。

佐々木道誉 (小声で)あんな、ガバナンス(govenance)能力最低の人間に、摂津国守護職だなんて・・・もうほんと、ミスマッチ(mismatch)もいいとこですわ。

足利義詮 ・・・。

佐々木道誉 (小声で)摂津国の守護職、彼から取り上げるべきですよ。

足利義詮 (小声で)・・・うーん、それもそうかなぁ・・・。

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というわけで、摂津国・守護職は、赤松光範から取り上げられてしまったのである。そして、その後任におさまったのが、なんと、佐々木道誉。

赤松光範 なんやなんやぁ! なにがいったい、どないなっとぉねん!

赤松光範 今度の吉野攻めに際してはなぁ、「おれは、将軍様への忠烈、ぜったい誰にも負けへんどぉ!」の一心でやってきたんやないかぁい! 「戦費の調達にせよ、合戦にせよ、誰にもぜったい負けへんどぉ」っちゅう思いでなぁ!

赤松光範 そやから、さぞかし、恩賞グンバツ(抜群)やろなぁと、大いに期待しとったわいやぁ。そやのに、いったい、なんやねぇーん、この処置はぁ!

赤松光範 だいたいがや、摂津いうたら、おやじ(父)が、故・将軍様からもろ(貰)て以来、長年拝領してきたとこやねんどぉ! それを取り上げるっちゅう事はやなぁ、おれら親子二代に渡っての忠節に、ゼロ査定、下したっちゅう事やないかぁーい!

光範は、憤りに燃え、どうにも恨みがおさまらない。

しかし、とにもかくにも「上の人」が下された裁決であるからして、彼の力ではどうにもならない。怒りをグッとこらえ、慎んで、幕府に訴えを起こすしかなかった。

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和田正武(わだまさたけ) おいおい、聞いたか、「摂津の松」の話。

楠正儀(くすのきまさのり) あぁ・・・摂津の「松」、なんや、真っ「赤」になって、怒(おこ)っとるらしいなぁ。

和田正武 で、どう思う?

楠正儀 そらぁもう、おれらにとっては、絶好のチャンス到来っちゅうことやんけ。

和田正武 ブフフ・・・いっちょ、行くか?

楠正儀 行こ!

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正武と正儀は、500余騎を率いて摂津国へ侵入、渡辺橋(わたなべばし:位置不明)を渡り、天満天神(てんまてんじん:大阪市・北区)の森に陣を取った。

それに対抗すべく、摂津国に駐在の、佐々木道誉の孫・佐々木秀詮(ささきひでのり)とその弟・佐々木次郎左衛門(じろうざえもん)は、1,000余騎を率いて出陣、神崎橋(かんざきばし:位置不明)のたもとへ到達し、そこで作戦会議を開いた。

佐々木秀詮 橋のこちら側に陣を展開して、敵を迎え撃つのがいいのでは?

守護代・吉田秀仲(よしだひでなか)いわく、

吉田秀仲 殿(との)! そないに弱気なことで、どないしますねんや!

佐々木秀詮 ・・・。

吉田秀仲 この摂津国が道誉様のもんになったん、いったいどないなわけ(理由)やったかというとですね、「赤松光範は、守護の地位にありながら、ややもすると、和田・楠の領国内への侵犯を許してきた。摂津国の守護職を務(つと)めるには、あまりにも未熟にして無能、ゆえに、佐々木家に」と、いう事やったわけですよ。

吉田秀仲 敵の勢力下にある国を攻めとってしまえ、とまでは言いません、そやけど、この摂津国に侵入してきた敵をただの一人でも生きて帰らしたとなっては、赤松に大笑いされてしまいますやん? 「ホレ見てみぃ、あいつらかて、あかんやんかぁ」言うてね。

吉田秀仲 それだけですんだら、まぁえぇですわ。そやけど、京都の将軍様、それ聞いて、いったいどない、思わはるでしょうかなぁ?

佐々木秀詮 ・・・。

吉田秀仲 わてはなぁ、殿! もう自分の命、完全に、捨ててしもぉとりますねん! 殿の為やったら、百回でも千回でも、わが命捨てるでぇ! 佐々木のお家の方々も、よそ(他家)のお方らも、きっとわしの事、見捨てるような事、ないわなぁ! そぉやろぉ?!

吉田秀仲 さぁ、みんなぁ、恩賞欲しかったら、わしに続いて来んかいやぁー!

大口をたたいて、秀仲は真っ先に神崎橋を渡った。佐々木軍1000余騎も、彼に続いて河を越えた。

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吉田秀仲は、付近に居合わせた牛飼(うしかい)の童(わらわ)たちにたずねた。

吉田秀仲 おいおい、おまえら、楠や和田の事、なんか知らんかぁ?

牛飼の童D あぁ、楠に和田かいなぁ・・・楠軍は、まだ、川、越えとらへんでぇ。

牛飼の童E ここらにいよるんは、和田軍だけやわ。

吉田秀仲 和田軍の人数、どれくらいや?

牛飼の童E そないに多ない・・・そうやなぁ・・・500騎足らず、ぐらいやろなぁ。

吉田秀仲 なにぃ、わずか500騎足らずぅ? ウワッハッハッハッァ! まぁなんと、哀れなやっちゃないかい! 和田のもんら、ここで残らず全滅やなぁ。楠も、川越えてきよったとこで、イチコロやぁ。

というわけで、佐々木軍メンバーは、馬に食料を与えたりしながら、のんびりと構えている。

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この様子を見すました和田正武と楠正儀は、川の西方へ、部下4、5人を送り込んだ。

頃合いを見はからい、彼らは口々に叫んだ、

楠軍メンバーF えらいこっちゃ、えらいこっちゃぁ!

楠軍メンバーG 和田と楠、奇襲しかけてきよったどぉ!

和田軍メンバーH 西の方から攻めてきとるどぉ!

和田軍メンバーI 神崎橋の橋詰、大丈夫かいやぁ?!

和田軍メンバーJ 橋、ちゃんと守れよぉ! 逃げ道なくなってしまうどぉ!

これを聞いた佐々木秀詮は、

佐々木秀詮 オ! 敵、迂回して、我が軍の背後に回りこんだ! 全軍Uターン! Uターンして、敵に当たれぇ!

佐々木軍・メンバー一同 ウギャギャギャギャ・・・。

深田の中に伸びる一本道に列を成し、さっき渡った橋のたもとへ戻らんと、佐々木軍メンバーは全員、馬頭を西に向け、ひたすら馬を駆った。

と、その時、

矢 ビューン、ビューン、ビューン・・・

左右から、矢が飛んできた。楠正儀の指示の下、道の両側、深田の中に潜伏していた軽武装の野伏(のぶせり)300人が、鏃(やじり)をそろえて一斉に射撃してきたのである。

佐々木軍は、大混乱に陥った。矢を避けて道から左右に退避しようにも、両側とも深田ゆえ、馬の足が立たない。

佐々木軍・先陣メンバー一同 後陣、前進ストップ、ストップゥーッ! 引き返せぇ、引き返せぇ! 広い所で戦えーっ!

前陣に制止され、佐々木軍・後陣は、再び、東方にUターン。そこへ、和田、楠、橋本(はしもと)、福塚(ふくづか)ら、吉野朝側正規軍500余騎が、一斉に襲いかかってきた。

中津川(なかつがわ)の橋詰(位置不明)付近で、白江源次(しらえげんじ)ら6人が踏みとどまって、戦死。

「戦場の地理、それぞれの場所の足場の良し悪しを熟知しきっているから、きっとうまく戦ってくれるであろう」と、かねてより秀詮から期待を寄せられていた摂津国在住の地元武士・中白一揆(なかしろいっき)武士団メンバー500余騎は、一戦もせずに、鎧兜、太刀、刀を捨て、続々と川中へ飛び込んでいく。

戦闘開始の前、あれほど大いに気勢を上げていた吉田秀仲は、いの一番に橋を渡って逃げていく・・・ごていねいにも、自らの背後の橋板一間分を落として・・・和田・楠軍に追跡されないように、と思っての事であろうか・・・その結果、後続の佐々木軍メンバー300余騎は、全員、川の中へ・・・水中に溺れながら、流されていく。

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佐々木秀詮と佐々木次郎左衛門は、ようやく橋のあたりまで逃げおおせたが、

県二郎(あがたじろう) あぁ・・・もうあかん・・・(天を仰ぎ、目を閉じ)橋、落とされてる。

佐々木秀詮 ・・・。

佐々木次郎左衛門 ・・・。

県二郎 (馬から下り、佐々木兄弟の前に座して)もう、とても逃げれません・・・こないなったら、他に道は無し・・・殿、馬の頭、向け直して、敵に堂々と渡り合い、どうか、討死にしてくださいませ! わし、おともします!

佐々木秀詮 うん!

佐々木次郎左衛門 (黙ってうなづく)

佐々木兄弟は、さすがに名ある武士、敵前逃亡を恥じて、兄弟たった二人でとって返し、即座にその場で、討死にしてしまった。

瓜生次郎左衛門(うりうじろうざえもん)・父子兄弟3人は、佐々木兄弟がまさに討死寸前状態になっているのを見て、応援にかけつけようと試みた。

しかし、乗馬の首部分を射られてしまい、騎馬での移動が不可能となってしまった。

彼ら3人は、田のあぜの上に立ち並び、「敵がかかってきたら、相打ちにして死ぬまで!」と身構えたが、遠距離からの矢の連射を浴び、次々と倒れていった。

約1時間で、戦闘は終結。

佐々木軍側の戦死者は273人、このうち、敵に討たれて死んだ者は、わずかに5、6人のみ、残り250余人の死因は全て、川に流されての溺死であった。

楠正儀は、父祖代々の仁慧(じんけい)の心を受け継ぎ、情け深い人であったから、野伏によって生け捕りの身となり、縛りあげられていた佐々木軍メンバーを、斬って捨てる事もなく、川に流された者も、助け上げてやった。そして、このようにして命拾いした人々を監禁する事もなく、裸の者には小袖を着せてやり、負傷者には薬を与え、全員、京都へ帰らせた。

佐々木軍・メンバー一同 (内心)敗残のわが身の恥は悲しいけれども、命拾いできたとあっては、そりゃもうやっぱし、嬉しくないと言えば、うそになる。

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