太平記 現代語訳 9-6 倒幕軍、六波羅庁側・防衛ラインを突破

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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六波羅庁(ろくはらちょう)サイドは、6万余騎の兵力を3手に分けて、守備を堅めた。

第一方面軍は、神社総庁跡前にて、足利軍を迎撃。

第二方面軍は、東寺(とうじ:京都市・南区)付近に布陣して、赤松軍団に対して備える。

第三方面軍は、伏見(ふしみ:京都市・伏見区)方面へ向かい、千種(ちぐさ)軍団を竹田(たけだ:伏見区)・伏見にて迎撃。

午前10時、各方面一斉に戦闘開始。馬の蹄がかき立てる土煙は南北になびき、戦う人々のトキの声が天地に響き渡る。

六波羅庁・第一方面軍は、陶山次郎(すやまじろう)と河野通治(こうのみちはる)が、精鋭部隊2万余騎をもって堅めている。足利軍は、そうそうたやすくは、攻めかかれない。六波羅庁軍も、自陣から遠く出るわけにもいかず、両軍睨(にら)みあいの中に、矢戦が展開されていくばかりである。

足利軍中から一人の武者が、最前線に出てきた。ハゼの紅葉色の鎧の上に薄紫色の母衣(ほろ:注1)をかけたその武者は、馬を駆って六波羅庁軍の眼前に進み、声高らかに名乗りを上げた。

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(訳者注1)矢を防ぐために背負う袋。
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設楽五郎(しだらごろう) 言うほどのモンじゃぁねぇからよぉー、オレの名を知っているヤツなんか、そっち側には一人もいねぇだろうなぁー。オレはよぉ、足利殿の家臣、設楽五郎左衛門尉(しだらごろうざえもんのじょう)って言うんだい。六波羅軍の皆さんよぉ、我こそはって思う人がおられたらぁ、オレとひとつ、騎馬戦の一騎打ちやってみねぇかい? お手並みのほど、この場で皆さんにご披露してみなってぇー!

言うが早いか、設楽五郎は、3尺5寸の太刀を抜いて兜の真っ向に振りかぶって構えをかため、馬を六波羅庁軍の真正面に控えた。その構えはなかなか巧みで、矢でもって狙える範囲が極めて少ない。まさに一騎当千と思わせる彼のその勢いに、両軍共に戦闘をストップ、全軍の視線が、設楽五郎ただ一人に集まった。

すると、六波羅庁・第一方面軍中から、一人の武者が馬をしずしずと歩ませて、最前線に出てきた。年のほどは50歳ほど、黒糸威(くろいとおどし)の鎧に五枚兜の緒を締め、白栗毛(しろくりげ)の馬に青色の総をかけて乗っている。彼は、大音声で名乗りを上げた。

斉藤玄基(さいとうげんき) ワシはなぁ、愚蒙(ぐもう)の身とは申せ、長年、六波羅庁局長メンバー(注2)の一員に加えられ、幹部の末席を汚してきた家のモンや。世間の口さがない連中らは、きっとワシのことを、「あれは文官(注3)やから、あんなヤツと戦ぉても、しょうもないわなぁ」とかなんとか、嘲っとることやろぉてぇ。

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(訳者注2)原文では「奉行」。評定衆・引付衆の一員。

(訳者注3)原文では「筆とり」。
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斉藤玄基 そやけどこの際、言わせてもらうでぇ! うちのご先祖はといえば、あの鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)・藤原利仁(ふじわらのとしひと)様に他ならず! 以来、代々、「武」の道をもって生きてきた家柄なんじゃい、ウチの家はなぁ!

斉藤玄基 わしは、その17代目の子孫、斉藤伊予房玄基(さいとういよのぼうげんき)っちゅうモンやねん! 今日の合戦こそはまさに、天下分け目の戦、なんでこの命を惜しむもんかい! 合戦に生き残った人がおったら、わしの忠義の戦の様をよぉ目に焼き付けてな、子々孫々まで語り伝えてくれよぉ!

設楽五郎 よぉし、行くぞぉ!

斉藤玄基 おう!

二人は双方から馬を掛け合わせて接近、鎧の袖と袖とをムズと組んで、ドウと馬から落ちた。

設楽五郎 エェイ!

斉藤玄基 ヤッ、ヤッ、トォ!

力に優る設楽は上になって斉藤の首を掻き、敏捷な斉藤は下から設楽を三回刀で差す。

両者ともに剛の者、死して後までも互いに引き組んだ手を放さず、共に刀を突き立てて、二人そろって倒れている。

これを見て、足利軍からさらにもう一人、武者が出てきた。紺色の唐綾威(からあやおどし)の鎧にクワガタ打った兜の緒を締め、5尺余の太刀を抜いて肩にかついでいる。彼は、六波羅庁軍の前方半町ほどの場所に馬を掛け寄せ、声高々に名乗りを上げた。

大高重成(だいこうしげなり) わしはな、八幡太郎・源義家(はちまんたろう・みなもとのよしいえ)様ご在世の頃から、源家に代々お仕えしてきた家のモンだ。我が家の名もかつては、世間に轟きわたっていたもんだがなぁ、いやぁ、さすがに最近、その知名度も多少落ちギミ・・・ってなわけで、最近はとんと、これはって思えるような好敵手にもなかなか出逢えんでなぁ・・・いやはや。

大高重成 わしは、足利殿の家臣、大高二郎重成(だいこうじろうしげなり)。先日からの度々の合戦で大いに手柄を立てたとかいう、陶山殿に、河野殿、そこにおられるんかいな? もしおられたら、いざ、出会い給え。わしと刀で勝負、二人して、一大スペクタルを演じてみようじゃねぇか!

大高重成は、タズナをかいくり、馬の口に白い泡をかませながら控えている。

彼からの挑戦を受けた二人のうち、陶山次郎の方は、「東寺方面の敵軍優勢」との知らせを聞いて、急ぎ八条方面へ援軍に向かったのでこの陣にはおらず、河野通治だけが、防衛ラインの最前線に陣取っていた。

通治は、元来はやりたったらもう止まらない性格の勇敢な武者、このような挑戦を受けたからには、些かもためらうはずがあろうか。

河野通治 河野通治なら、ここにおるぞよ。よし、その挑戦、受けて立つでぇ!

通治は、重成に組まんと、接近していく。

これを見た通治の養子・通遠(みちとお)当年16歳の若武者が、「父を討たせじ」と、通治の前を遮り、いきなり重成に組み付いていった。

河野通遠 エェイ、覚悟ォ!

大高重成 おっとどっこいー。

重成は、通遠のあげまきをつかんで、宙づりにしてしまった。

河野通遠 放せ、放せ! エェィ!

大高重成 まったくもう・・・おまえみたいなボウヤと組んで勝負してもなぁ・・・オッ・・・。

捕えた相手が着ている鎧の、笠符をよく見てみると、

大高重成 (内心)正方形2つを組み合わせた中に、「三」の字か・・・ふふん、さては、コイツ、河野の子供か甥だなぁ。

重成は、片手で太刀を使って通遠の両の膝を切って落とし、20尺ほど遠方へ、彼の身体を放り投げた。

河野通治 ウゥッ よくもやりおったな!

最愛の子を目の前で討たれてしまったとあっては、もはや、命を惜しむはずもない、大高重成に引き組まんと、河野通治は、鐙(あぶみ)を踏んで馬を馳せる。これを見た河野の郎等300余騎も、

河野家・郎等一同 殿を討たせてたまるかぁ!

一斉にオメイて、重成めがけて殺到。

足利軍側も、重成を討たせまいと、1,000余騎にてオメイてかかる。

両軍互いに入り乱れ、黒煙を立てて死闘を展開。足利軍サイド不利となり、内野の方向へハット退くやいなや、すかさず足利軍サイドは、新手を投入して戦闘を続行。六波羅庁軍サイド退勢となり、鴨(かも)河原へ後退するや、こちらも新手を繰り出し、ここを先途と必死に闘う。一条大路から二条大路にかけて、東へ西へ7度、8度、追いつ返しつの激戦が展開されていく。

両軍互いに命を惜しまず闘い、いずれが豪胆、いずれが臆病という事も無い。しかし次第に、兵力面において勝る足利軍サイドが優勢となり、ついに、六波羅庁第一方面軍サイドの敗勢となり、六波羅庁目指して退却。

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東寺方面においては、赤松円心(あかまつえんしん)率いる赤松軍3,000余騎が進出。東寺の櫓(やぐら)のある門の近くまで、押し寄せていく。

鐙(あぶみ)を踏ん張り、左右を顧(かえり)みながら、赤松範資(あかまつのりすけ)が叫ぶ。

赤松範資 おぉい、誰かぁ! あこの木戸(きど)と逆茂木(さかもぎ)、引き破って取っパラってまえー!

それを聞いた宇野(うの)、柏原(かしわばら)、佐用(さよ)、真島(まじま)各家の血気盛んな若武者300余騎が、

赤松軍・若武者一同 うぉーい!

彼らは一斉に馬を乗り捨て、六波羅庁・第二方面軍の防衛線に接近していく。

防衛線の構えを見渡せば、西は羅城門(らじょうもん:南区)の辺から東は八条河原(はちじょうがわら)のあたりまで、5、6寸~8、9寸の琵琶の腹に使う木材や、野洲郡(やすぐん:滋賀県・野洲市)産の木材を組み立てて頑丈な塀を造り、その前にラングイや逆茂木を設置している。さらに、その前面には、広さ3丈余りの堀があり、川から水をそこに引入れている。その水中に飛び込もうにも、深さがいったいどれくらいなのか見当もつかない。橋を渡ろうにも、板は全て外されてしまっている。

赤松軍・若武者一同 (内心)うーん、いったいどないしたもんやろか・・・。

全員立ち尽くす中、播磨国(はりまこく:兵庫県南西部)の住人・妻鹿長宗(めがながむね)が馬から飛び下り、弓の先端を握りしめ、水中にその弓を挿し入れた。

妻鹿長宗 (内心)弓の上端がわずかに、水面の上に出とるわ。これくらいの深さやったら、わしの背は立つな、よぉし!

長宗は、5尺3寸の太刀を抜いて肩に掛け、靴を脱ぎ捨て、堀の中に飛び込んだ。

妻鹿長宗の身体 ザッブーン!

案の定、水は長宗の胸板の上までも来ない。これを見た後続の武部七郎(たけべのしちろう)は、

武部七郎 みんな、水は浅いでぇ、おれに続けぇ!

武部七郎 ザブン!

武部七郎 おっおっ・・・。(ブクブクブク)

武部七郎の身長は5尺ほどしかない。兜の先まで水面下に没してしまった。妻鹿長宗は後ろをキッと振り返り、

妻鹿長宗 ハァー、ほんまに世話の焼けるやっちゃのぉ・・・ほれ、わしのあげまきに取り付いて、早(は)よ、向う岸に上がらんかい!

武部七郎 よいしょっと・・・ほいっ!

七郎は長宗の鎧の上帯を踏んで彼の肩に乗り上がるやいなや、一回ぴょんと跳躍しただけで、向う岸に上がってしまった。

妻鹿長宗 なんちゅやっちゃ、おまえはぁ! このわしを、橋がわりに使いよって! わはははは・・・。

妻鹿長宗 さぁてと、そこの塀、引き破ってしもたろかい。

長宗は、岸の上へズンと跳ね上がり、太さ4、5寸余りほどもある六波羅側防衛線の塀柱に手をかけた。

妻鹿長宗 エーイ! エーイ! エーイ!

塀 ドドドドドド-ッ!

長宗の大力の前に、塀のうち1丈~2丈程の部分が崩れ去った。そして、その上に積み上げられていた大量の土が堀を埋め、格好の進入路が出来た。

六波羅庁軍・第二方面軍リーダー それ! あの二人を一斉射撃!

矢 ピーン、ピーン、ピーン、ピンピーン・・・。

六波羅庁軍側の櫓300余箇所から、妻鹿長宗と武部七郎めがけて、さしつめひっつめ、雨のような矢の一斉射撃!

長宗は、鎧や兜に突き立った矢を抜かずに、そのままビシビシビシッと折り曲げ、櫓の下へ、ツツツッと走り入る。

東寺の門の左右に並ぶ金剛力士像の前に、太刀を逆さに突き、歯をくいしばって立っている長宗のその威容、いったいどちらが金剛力士でどちらが人間なのか、見分けがつかぬほどである。

東寺、西八条(にしはちじょう:南区)、針小路(はりこうじ:南区)、唐橋(からはし:南区)に布陣していた六波羅庁・第2方面軍1万余騎は、「東寺方面の木戸口危うし」と聞いて驚き、一丸となって、東寺の東門脇から、雨雲が夕暮れの山から湧き出づるがごとく、勢い激しくうって出てきた。

六波羅庁・第2方面軍一同 ウオーッ!

赤松軍一同 (内心)危うし、妻鹿! 危うし、武部!

赤松軍サイドの作用範家(さよのりいえ)、得平源太(とくひらげんた)、別所六郎左衛門(べっしょろくろうざえもん)、別所五郎左衛門(べっしょごろうざえもん)らは、

作用たち一同 あの二人を見殺しにしてたまるかぁ! 行くぞーっ!

彼らは一斉に門の側に突進、妻鹿長宗と武部七郎を助け、不退転決死の覚悟をもって闘い続ける。

赤松円心 あいつら、死なしたらあかんやん! みんな、突撃や! 行くぞぉー!

赤松軍一同 おーーーう!

円心、範資、貞範(さだのり)、則祐(のりすけ)の赤松父子をはじめ、真島(まじま)、上月(こうづき)、菅家(かんけ)、衣笠(きぬがさ)各家の武者3,000余騎が、六波羅庁側防衛ラインに向かって突撃していく。赤松軍、怒濤(どとう)の総攻撃!

かくして、六波羅庁・第2方面軍1万余騎は、縦横無尽に分断されてしまい、七条河原へ追いやられてしまった。

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一方面の防衛ラインが破られてしまうと、それはたちまち、全軍の崩壊へと波及していく。六波羅庁・第三方面軍もまた、竹田方面での合戦に破れ、木幡(こわた:京都府・宇治市)、伏見においても敗北。

六波羅庁サイド全軍は、散りじりになりながら六波羅庁を目指して退却、庁内にたてこもった。

勝ちに乗じて、四方の倒幕軍5万余騎は、逃げる相手を追撃する。いまは全軍一つに合し、五条橋(ごじょうばし)詰(づめ)から七条河原まで戦線を展開、六波羅庁側の陣地を重囲する、しかも、東側だけをわざと開けて・・・言うまでもなく、防御側の人心が一つになることを妨げ、六波羅庁をたやすく攻め落とせるようにするための計略である。(注4)

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(訳者注4)ここで倒幕軍側が六波羅庁を完全に包囲してしまうと、「もはや逃れる道はないのか、よし、こうなったら」と六波羅軍は決死の覚悟で反撃をしてくるであろう、となると、倒幕軍側も損害多数、故に、わざと一方だけを開いておいた、というストーリーになっている。
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千種忠顕 通常戦の時みたいに、六波羅庁をゆるゆると攻めとってはあかん! ぼやぼやしてたら、千剣破城(ちはやじょう)を囲んどる幕府軍が、あっちの囲みを解いて、後(ご)づめ(注5)に回ってきよるからな。みんな心を一つにして、イッキに攻め落としてしまえよぉ!

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(訳者注5)包囲されている側が何よりも心待ちにするのが、援軍の到来である。援軍は、包囲している敵陣の背後から敵を攻撃(これを「後づめ」という)、それにあわせて、包囲されている側も外にうって出る。かくして、敵を挟み撃ちにする事が可能となる。
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さっそく、出雲(いずも:島根県東部)、伯耆(ほうき:鳥取県西部)の武士たちは、車2、300台を集めてナガエどうしを結び合わせた。そしてその上に、民家を破壊して得た材木を山のように積み上げ、六波羅庁側の設営した櫓の下に押し出した。

出雲・伯耆の武士たちのリーダーA 点火ーっ!

出雲・伯耆の武士たち一同 うぉーい。

彼らは一斉に、材木に火をつけた。車もろとも、櫓は次々と焼け落ちていく。

その時、尊胤法親王(そんいんほっしんのう)の管轄寺院である延暦寺の上林房(じょうりんぼう)と勝行房(しょうぎょうぼう)に所属の宗徒300余人が、甲冑を帯し、地蔵堂(じぞうどう)の北門から五条橋詰め方面にうって出てきた。

坊門正忠(ぼうもんまさただ)と殿法印良忠(とののほういんりょうちゅう)の兵3000余騎は、この少人数の軍に追い払われ、鴨河原(かもがわら)の中を3町ほど退いた。しかし宗徒たちは、自らの兵力の少なさ故に、「あまり深追いしてはまずい」と思ったのであろう、再び、六波羅庁の中へ引き揚げ、中にこもってしまった。

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六波羅庁の中にたてこもっている軍勢は、数は少ないとは言いながらも、その数は5万余騎、この時、心を一つにして全員一斉にうって出ていたならば、倒幕軍側は、その包囲網を到底もちこたえることができなかったであろう。

しかし、やはりここは、「北条氏滅亡」と運命が定まっていたのであろうか、日頃は武勇で名高い剛の者も、勇気を喪失してしまい、無双の強弓を引く精鋭も、弓を引かずにただただ呆然(ぼうぜん)と立ちつくすばかり。全員そこかしこへと寄り集まり、逃げ仕度を整える他は余念無し、もはや、見せかけの勇気のカケラすらも見えない状態になってしまっている。

武名を惜しみ家名を重んじる武士たちでさえ、このような有様である。ましてや、光厳天皇(こうごんてんのう)、後伏見上皇(ごふしみじょうこう)、花園上皇(はなぞのじょうこう)をはじめ、女院(にょいん)、皇后(こうごう)、摂政関白(せっしょうかんぱく)の夫人方、公卿、殿上人、童子、女童(めのわらわ)、女房たちに至るまで、戦など未だ一度も目にしたことも無い人々ばかり、トキの声や矢が飛び交う音を聞くたびに、おそれおののくばかりである。

庁内にこもる人K えらいこっちゃ、どないしょう、どないしょう!

庁内にこもる人L うわぁ、こわいがな!

庁内にこもる人M うち、どないしたらええのん!

庁内にこもる人N どないしょう、どないしょう!

その様を見ているうちに、六波羅両長官もますます元気を無くしてしまい、今や呆然自失状態である。

北条仲時(ほうじょうなかとき) 無理もないよな、戦の現場なんか、まだ一度も見た事の無い人ばっかしなんだもん。

北条時益(ほうじょうときます) なんともはや、痛ましい。

陣営内のこのような浮き足立った状態を見続ける中に、「このままでは敗北必至」と判断したのであろうか、よもや幕府を裏切るとは思えなかったような人々までも、夜になるやいなや、木戸を開き、逆茂木を乗り越え、我先にと逃亡しはじめた。

かくして、義を重んじ我が命を軽んじて六波羅庁陣内に踏みとどまった者は、その数わずか1,000騎にも足らず、という状態になってしまった。

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