太平記 現代語訳 17-4 四条隆資軍、八幡より京都に攻め寄せる

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「京都攻めは13日午前10時」との通達が天皇軍各方面に回っていたので、坂本から出動した天皇軍は、逢坂山(おうさかやま:滋賀県・大津市)から今道越(いまみちごえ)一帯に待機して、約束の刻限を待った。

その時、足利側が謀って火をかけたのであろうか、北白川(きたしらかわ:京都市・左京区)一帯に火の手が上がり、煙が空に充満しはじめた。

八幡(やわた:京都府・八幡市)方面から攻め寄せていた天皇軍サイド・四条隆資軍はこれを見て、

四条軍リーダーA おぉっ、比叡山方面の友軍は、もう京都に突入して、火を放ちよったようやぞ。

四条軍リーダーB わしらもここでグズグズしてたらあかんわ、なぁもせんうちに、今日の戦、終わってしまうやんか。そないな事になってしもぉては、面目まるつぶれやがな。

約束の時刻を待たずに、彼らは、わずか3,000余騎で、鳥羽の作道(つくりみち:伏見区)経由で、東寺(とうじ)の南大門前へ寄せた。

東寺にこもっていた足利サイドは、その兵力の大半を比叡山方面から攻め寄せてくる天皇軍に当て、糺森(ただすのもり:左京区)、北白川方面へ送り出してしまっていた。東寺には、公家や足利尊氏(あしかがたかうじ)のお側つきの老人、少年しか残っていない。このような態勢で、四条軍を迎撃することなど、できようはずがない。

四条軍の足軽たちが、鳥羽一帯の畦道づたいに、四塚(よつつか:南区)、羅城門(らじょうもん:南区)付近まで進出してきて、矢を散々に射てくる。作道で四条軍を迎撃した高師直(こうのもろなお)の軍500余騎は、たまらず退却。四条軍サイドは、いよいよかさにかかって、盾を突きだし、頭上にかざし、一気に東寺へ攻めよせていった。

東寺の南西角の出塀(でべい)の上に設営された櫓(やぐら)が、あっという間に攻め破られ、焼け落ちていく。東寺の内部は騒然となり、あたり一面、大声が飛び交う。しかし、そのような中にも足利尊氏一人、まったく動揺する様もなく、仏前で静かに読経を続ける。

尊氏の側には、幕府司法省(注1)所属の信濃詮康(しなのあきやす)と土岐存孝(ときそんこう)がいた。存孝は、周囲をキッと見まわしながら、

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(訳者注1)原文では「問注所(もんじゅうしょ)」。
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土岐存孝 あぁ、こういう時にこそ、うちのセガレがここにいてくれたらのぉ。頼直を、北の方へ送り出すんじゃなかったわ・・・ここに留めとりゃぁよかったわ。あいつさえ、ここにいてくれりゃ、あんな敵くらいイッペンで追い払えるがね。

すると、話題の主が、そこにスット現れていわく、

土岐頼直 今、おれの事、何か言うとったかね? おれなら、ここにおるがね。

土岐存孝 (嬉しそうに)ありゃまぁ・・・びっくらこいてしもぉたでにゃぁか。北の方ではまだ戦、始まっとらんのかぁ?

土岐頼直 いや、おれには、そのへんの事、分からん。三条河原まで行った時にな、おれ、東寺の方を振り返ってみただよ。そしたら、寺の西南の方に煙が立っとるのが見えたもんでなぁ、こりゃいかんわいってなわけで、あわてて引っかえしてきたんだわ。こっちの戦況は、どないなっとる?

高師直 つい今しがた、作道のあたりで敵にやられちまってよ、退却してきたんだわさ。ここに残ってる兵力は少ねぇから、新手を繰り出して迎撃する事もできねぇ。そうこうしてるうちに、西南角の出塀を打ち破られちまってな、櫓も焼け落ちてしまった!

土岐頼直 ムムム・・・。

高師直 今まさに、将軍様の身に、重大な危険が迫ってんだよぉ! おまえな、たった一騎でもいいから外に出てって、敵を追っ払いやがれ!

土岐頼直 よぉし、分かったぁ!

即座に立ち上がり、外へ出向こうとする頼直に対し、

足利尊氏 ちょっと待て、頼直!

土岐頼直 ははっ!

足利尊氏 これを。

土岐頼直 エーッ・・・ありがとうございます!

尊氏は、常に腰に差していた菊花文様入りの太刀を、頼直に与えた。

このようなすばらしい贈り物を、将軍・尊氏から下付されて、心が勇まぬはずがない。土岐頼直は、洗革の鎧を着て、銀をビョウにかぶせた白星兜をかぶり、今賜ったばかりの黄金装飾の太刀を腰に差し、さらにその上に、3尺8寸の漆塗り鞘の太刀を差した。山鳥の引き尾の羽をつけた矢36本を森のごとくにエビラに背負い、3人張りの弓に弦をかけ、さっそうと出陣した。脛当(すねあて)は、わざと装着していない。深田を進む時に、馬から降りて歩行するためである。

東寺の北の小門から出て、羅城門の方へ回り、馬を物陰に放った後に、3町ほどかなたにひしめいている敵軍めがけて、頼直は、さしつめ引っつめ矢を射始めた。1本の矢で2人3人をいっぺんに倒し、ムダ矢は皆無。

南大門の前に押し寄せていた四条軍メンバー1000余人はおそれをなして、一斉にさぁっと退いた。

頼直は、これにますます元気づき、俊足の馬を駆って、ドロの深い鳥羽の田園の中を、あたかも平地を行くかのように突進。6騎を切って落とし、11騎に負傷を追わせ、曲がった太刀を押して直し、ミエを切るかのように東寺の方をキッと振り返る。そのりりしい姿は、まさにかの大力、和泉小次郎(いずみのこじろう)、朝比奈三郎(あさひなさぶろう)に、いささかもひけをとるものではない。

土岐頼直たった一人にあしらわれて、シドロモドロになっている四条軍の混乱を見て、高師直は、1,000余騎を率いて、再び作道を南方に進み、高師泰(こうのもろやす)は、700余騎を率いて竹田(たけだ:伏見区)方面から南下、四条軍を分断しにかかった。

いったん逃げ足づいてしまった大軍は、もはや止めようがない。討たれる者をも顧みず、負傷した者を助けもせず、四条軍メンバーらは、我先にと逃げ散り、八幡へ帰っていってしまった。

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