太平記 現代語訳 35-2 仁木義長、没落

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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このように、打倒・仁木義長(にっきよしなが)の計画が進められているさ中、

 「和田(わだ)、楠(くすのき)らが、金剛山(こんごうさん:大阪府-奈良県 境)と国見山(くにみやま::大阪府・南河内郡・千早赤阪村)を出て、再び、摂津(せっつ)、河内(かわち)方面へ進出、渡辺橋(わたなべばし:位置不明)を切り落し、誉田城(こんだじょう:大阪府・羽曳野市)を攻めようとしている、急ぎ、討伐軍をさしむけられたし!」
 
との急報が、和泉(いずみ)、河内方面から京都へもたらされた。

足利義詮(あしかがよしあきら) (内心)なぁんてこったぁ! 数ヶ月がかりの軍事作戦、ついこないだ、大成功の中に終結を見たというのに・・・あっという間に、オジャンになってしまったじゃない・・・こないだまでのあの苦労、あれはいったい、なんだったのぉ・・・。(狼狽)

足利義詮 (内心)ウーン・・・討伐軍、いったい誰に行かせようかなぁ・・・「行け」と命令しても、誰も行こうとしないかもねぇ・・・うーん、困ったなぁ・・・みんな、いったい、どういう態度に出てくるんだろうか・・・。

足利義詮 (内心)・・・ウーン・・・。

ところがところが、あに図らんや、義詮の命令も出ないうちに、あっという間に、大軍団が自然発生、あれよあれよという間に、京都を出陣して我先にと、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)へ向かった。

それを率いるメンバーは、畠山国清(はたけやまくにきよ)、細川清氏(ほそかわきようじ)、土岐頼康(ときやすより)、佐々木氏頼(ささきうじより)、今川範氏(いまがわのりうじ)、その弟・今川了俊(りょうしゅん)、武田直信(たけだなおのぶ:注1)河越弾正少弼(かわごえだんじょうしょうひつ:注1)、赤松光範(あかまつみつのり)、芳賀禅可(はがぜんか:注1)以下、先日、畠山邸で同盟を結んだ有力者ら30余人、その軍勢は総計7,000余騎。

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(訳者注1)これらの人々は、畠山国清率いる関東からの遠征軍に加わって京都へやってきたのである。34.2を参照。
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一連の経緯を考察してみるに、彼らの意図は、吉野朝(よしのちょう)勢力の蜂起を鎮圧するのとは、全く別の所にあったと、言わざるえをない。ようは、仁木義長(にっきよしなが)を亡ぼさんが為に、軍団を編成して出陣した、というわけである。

和田正武(わだまさたけ)と楠正儀(くすのきまさのり)は、そこまでは読む事ができなかった。

京都からやってきたこの大軍を相手にしては、渡辺橋を支える事ができず、誉田城を攻め続ける事もできない、という判断の結果、彼らは再び、金剛山の奥へひきこもってしまった。

京都からやっていった人々は、もとより、吉野朝勢力退治が真の目的ではないがゆえに、退いていく楠軍を攻め続ける事も無く、勝ちに乗って次の手を繰り出す事もない、全員、天王寺に集結し、頭をつきあわせてうなづきあいながら、仁木義長討罰の作戦を練り始めた。

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「たった二人の密談でさえも、天は知る、大地は知る、我は知る」という言葉がある。ましてや、これほど大勢のメンバーたちが集まってササヤキあっているのだから、到底、隠しようがない。彼らの密談の内容は、すぐに京都へ伝わっていった。

仁木義長 (激怒)なんだとぉ! おれを討つぅ?! いったいなんで、なんで、このオレが討たれなきゃぁ、なんねぇの! おれが、どんな悪い事をしたってぇの!

仁木義長 いやいや、これはきっと、道誉や清氏のサシガネさ。おれをダシにして、将軍様に対して謀反を起こそうってんだ、きっとそうだ、そうに決まってらぁ!

仁木義長 急ぎ、将軍様に報告しとかなくっちゃな。

義長は、甥の仁木頼夏(よりなつ:注2)だけを伴い、足利義詮邸へ急行した。

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(訳者注2)仁木頼章の子。
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仁木義長 あのね、将軍様! 佐々木道誉と細川清氏が、私を討とうと、天王寺から二手に分かれて、京都へ向かっておりますよ。

足利義詮 えぇっ!

仁木義長 ヤツらの真の目的は、別の所にあります。ようはね、政権を転覆してしまおうってんですよ。決して、ご油断なさいませんように。

足利義詮 えぇっ!そんなぁ! 信じられん・・・ウソ(嘘)だろ、デマ(Demagogie:ドイツ語)だろ?!

仁木義長 イ・イ・エ! これは確かな情報です! デマなんかじゃぁ、決してありませぇん!

足利義詮 ・・・千に一つ・・・いや、万に一つ、そのような事があるとすれば・・・それは、おまえを狙っての事じゃない、この私を、滅ぼそうという事だろうなぁ。

仁木義長 ・・・。

足利義詮 大丈夫だぁ! 私とおまえと、一所になって戦えば・・・どこの誰が、そんな下克上(げこくじょう)の輩(やから)の味方なんかするもんかぁ!

仁木義長 ありがたいお言葉! よし、戦いましょう!

義長は、大いに喜んで館へ戻った。

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仁木義長 どうってこたぁ、ねえやな、こっちの手持ち兵力は十分さ。こないだの戦争の為に、領国から集めた連中、まだ、国元へ帰してねぇもんなぁ。

「天王寺を発した大軍が、二手に分かれ、京都へ攻め上りつつある」との情報にも、義長は全く動揺しなかった。

仁木義長 とは言ってもなぁ・・・こっちサイドの兵力、いったいどれくらいなんか、一応、把握だけはしとかなきゃ・・・よぉし、着到(ちゃくとう)リスト、すぐ作れぃ!

仁木家家臣 ハイハァイ!

さっそく、国別に兵力を把握してみたところ、自分の一族郎等が3,600余騎、他家の軍勢は4,000余騎。

仁木義長 (着到リストを見ながら)いやぁ、こりゃぁなかなか、ゴーセイ(豪勢)、ゴーセイ、7,000余騎もいるのかよぉ。これだけいりゃぁ、天王寺から10万騎攻めてきたって大丈夫だ。よぉし、各方面に分散して、敵の襲来を待つとするべぃ。

義長は、頼夏に2,000余騎を与えて四条大宮(しじょうおおみや:下京区)に配備し、自らの弟・頼勝(よりかつ)には1,000余騎を付けて東寺(とうじ:南区)付近に陣を張らせた。そして自らは、仁木軍中の精鋭を率いて自邸に陣取った。

自邸の周囲4~5町一帯の民家を全て焼き払って、馬の駆け場を広く取り、帷幕(いばく)の中に、どっかと腰を下ろしている。その威勢、その様子、いかなる大軍で攻めかかろうとも、2度や3度は、仁木軍によって駆け散らされてしまうであろう。

仁木義長 (内心)待てよぉ・・・もしもだよ・・・おれの事を悪く言ってるヤツラの言葉を、将軍が真にうけてだよぉ、細川や畠山と内通しちゃったりしたら・・・こりゃまずいな、外様(とざま)の連中らは、イッパツで、あちらに寝返ってしまうだろうなぁ。

仁木義長 (内心)この際、へんな事にならんように、将軍の周囲を、おれサイドの人間で、完全にかためちまうに限るって・・・近習(きんじゅう)のやつら全員、将軍から遠ざけちまおう。

仁木義長 (内心)と、なるとだな・・・おれは、あっちに詰めといた方がいいな・・・ここは、頼夏に守らせるとしよう。

義長は、頼夏を呼び戻し、それと入れ替わりに、200余騎を率いて館を出て、足利義詮邸に入った。そして、四方の門の警護をかため、足利家の身内、外様を問わず、一切の者に対して、義詮の身辺に近づく事を禁じた。

それからは、仁木義長は、自らの思うがまま、万事に渡って全権をふるいはじめた。

天王寺を発して京都に向かいつつある人々はたちまち、「朝敵」の汚名を被る事となり、朝敵追罰の天皇命令書と将軍命令書が発行された。さらに、「仁木義長を、足利幕府・執事(しつじ)職に任命す」ということになり、義長は天下の権力を一身に掌握することとなった。

夜明け前、皿の中の灯油尽き果て、灯火まさに消えんとする時、その光は明々と輝きを増す・・・。(注3)

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(訳者注3)原文では、「只(ただ)五更(ごこう)に油(あぶら)乾(かわい)て、灯(ともしび)正(まさ)に欲銷(きえんとほっする)時(とき)増光(ひかりをますに)不異(ことならず)」。
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天王寺を発した軍勢7,000余騎は、7月16日、山崎(やまざき:京都府・乙訓郡・大山崎町)に到達、そこで二手に分かれた。

第1軍は、細川清氏を大将に3,000余騎、物集女(もずめ:京都府・向日市)、寺戸(てらど:向日市)を経て、西七条(にししちじょう:京都市・下京区)方面から攻め寄せる。

第2軍は、畠山国清、土岐頼康、佐々木氏頼を大将に5,000余騎、久我縄手(くがなわて:京都市・伏見区)を経て、東寺方面から攻め寄せる。

京都中心部に住む人A 今年になってようやっと、南方勢力が占領してたあたりの戦乱、収まったのになぁ。

京都中心部に住む人B 敵勢力は、もはや首都圏からは一掃された、ついに、京都にも平和がやってきたんやなぁと、みなで喜び合(お)うてたのにぃ。

京都中心部に住む人C またまた、戦(いくさ)かいなぁ・・・どないなってんねんなぁ、もう!

京都中心部に住む人D わてらいったい、どないしたらえぇねん!

妻子を避難させる事に難渋(なんじゅう)、財宝を隠し運ぶ事におおわらわ、京都中、どこの道もごったがえして、通行不可能である。

そのどさくさにまぎれて、物資を消耗してしまった軍勢メンバーや、猛悪なるその下部(しもべ)らが、町々に繰り出しては有無を言わさず、家々から物資を奪い取り、人々から剥ぎ取っていく。恐怖と悲嘆におめき叫ぶ声は京都中に満ち溢れ、その他の物音は一切聞こえないほどである。京都中、上を下へひっくりかえしたような、パニック状態。

ここに至って、なおも、足利義詮は、仁木義長に取り込められたままである。

ところがなんと、佐々木道誉(ささきどうよ)が、密かに小門から入り、義詮のいる所まで忍び入ってきた。

佐々木道誉 (ヒソヒソ声で)まったくもってねぇ・・・いったいぜんたい、どうなっちゃてんですかぁ? どこもかしこも、仁木家のモンがかためてやがる。

足利義詮 (ヒソヒソ声で)あぁ、あんたかぁ・・・。

佐々木道誉 (ヒソヒソ声で)将軍様、いったいなんで、あんな男と一緒におられるんですか、仁木義長みたいなヤツと。

足利義詮 ・・・。

佐々木道誉 (ヒソヒソ声で)日本全国の有力メンバーが、一人残らず同心して、打倒・仁木義長を叫んでる・・・なのに、そんな男と運命を共にしようだなんて・・・そんな事しちゃ、ダメですよ、ダメ!

足利義詮 ・・・。

佐々木道誉 (ヒソヒソ声で)あの男はね、あぁいった振舞い故に、もう、神にも仏にも見放されちゃってる、人望も完全に失っちゃってる、そう、お思いになりませんでした?

足利義詮 ・・・。

佐々木道誉 (ヒソヒソ声で)とはいってもねぇ・・・「どっちもどっち」って感、無きにしも、あらずかなぁ・・・将軍様のお許しも何も得ないまま、その寵臣(ちょうしん)を、否応無く討ってしまえってんで、いきなり京都へ攻め寄せてくる、それも、どうかと思いますよねぇ・・・そんな事されちゃぁ、誰だって、恐怖、覚えちゃいますもんねぇ。

足利義詮 ・・・(うなづく)。

佐々木道誉 (ヒソヒソ声で)じゃぁね、こうしましょうや、とにかく、ここをこっそり脱出なさいませな。

足利義詮 (ヒソヒソ声で)いったい、どうやってぇ?

佐々木道誉 (ヒソヒソ声で)今から、あたしゃ、仁木に対面して、作戦会議って事にしますからね、その間に、スキ見て、しっかりした近習の者一人だけ連れてね、女房姿に変装してね、北の小門から、こっそり脱出してください。馬は、もう、用意してありますからね。

足利義詮 ・・・(うなづく)。

佐々木道誉 (ヒソヒソ声で)とにかく、どこでもいいですからね、できるっかぎり、ここから遠く離れてください。

足利義詮 ・・・(うなづく)。

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足利義詮 ウーン・・・なんだか気分悪い・・・カゼひいちゃったみたい・・・。

仁木義長 ありゃりゃ、そりゃぁ、いけませんな。

足利義詮 ちょっと横になるよ・・・。(帳台の中に入り、衣を頭からかぶって横になる)

仁木義長 どうぞ、お大事に。(座を立ち、遠侍の間(とおざむらいのま)に移動)

やがて、佐々木道誉が、100騎ほどを引き連れてやってきた。

佐々木道誉 さぁてと、作戦会議、やるかね。

仁木義長 オケーイ!(OK)

義長と道誉の作戦会議は長時間に及び、そうこうするうち、夜もとっぷり更けてきた。もう、誰も見咎めする者はいない。

足利義詮 (ヒソヒソ声で)よーし、行くか・・・。

義詮は、紅梅柄の小袖(こそで)を着て、柳裏(やなぎうら)の絹を頭から被って、女房姿に変装した。そして、海老名信濃守(えびなしなののかみ)、吹屋清式部丞(ふきやせいのしきぶのじょう)、小島二郎(こじまじろう)3人だけを引き連れ、北の小門から、密かに館を脱出した。

道誉の言葉通り、築地の陰に、手綱をかけた馬が用意されていた。

小島二郎は、馬にすっと寄り、義詮を抱きかかえて馬に乗せた。

中間2人に馬を引かせ、装束を入れた袋を持たせ、4、5町程の間、静かに馬を歩ませた。

このようにして京都中心部から脱出した後は、馬に鞭を入れ、鐙(あぶみ)を蹴って、猛ダッシュ。

花園(はなぞの:右京区)、鳴滝(なるたき:右京区)、双岡(ならびがおか:右京区)、広沢池(ひろさわいけ:右京区)を通過、1時間ほどで、西山(にしやま:右京区)の谷堂(たにどう)へ逃げ込んだ。

このような事になっていようとは、夢にも知らない仁木義長、まさに、運も尽き果てたというべきか。

佐々木道誉 (内心)もう大丈夫だろうな、今頃、義詮様は、どこか遠くへ落ち着かれた事だろうて。じゃぁ、わしも、家へ帰らせてもらう事にしましょうかねぇ。

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その後、仁木義長は、義詮の御座所に出向いていわく、

仁木義長 将軍様、夜も明けました。そろそろ、敵も攻め寄せてくるでしょう。御旗をお出しにならないと・・・軍勢への御対面、お願いします。

仁木義長 ・・・今朝は、いつになく遅くまで、寝ておられますなぁ・・・お体のぐあい、どうですか?

義長の言葉を伝えるために、女房一人二人が、寝床の側に行ったが、

女房E あれ?

そこには、夜着が小袖に重ねて置かれているだけ、その下にいるべき人の姿は、影も形もない。

女房F おかしいねぇ、将軍様、いったい、どこ行かはったんやろか?

女房E どっか、そこらへんに、い(居)はるんちゃうぅ?

女房F (方々探し回りまがら)どこにも、居はらへんよぉ。

女房E (方々探し回りまがら)そんなぁ!

女房F (方々探し回りまがら)いったい,どないなってんねやろ、将軍様、どこにも居はらへん!

女房E (オロオロ)どないしょ、どないしょ!

女房F (オロオロしながら、仁木義長のもとへ走り寄り)仁木様、えらいこってすがな、将軍様、どこにも,居はらしまへん!

仁木義長 なんだとぉ! 将軍様がおられん?!

女房F (オロオロ)はい・・・どこ探しても、居はらしまへん。

仁木義長 エェー! エェー!

義長が大騒ぎしているのを聞いて、仁木頼夏も、そこに駆けつけてきた。

仁木頼夏 (ドタドタ・・・)伯父上、いったいどうしたんですか? なにがあったんですか?

仁木義長 (怒)この館の中の、どこかにおられるはずだ! 女房か近習の誰かが、きっと居場所を知ってる! おぉい、四方の門を閉めろ、一人も外に出すな!

一瞬の間に、事の次第を悟った頼夏の心中には、ムラムラと怒りの念がこみあげてきた。

頼夏は、二枚合わせの扉を開き、戦闘用下足のままズカズカと、義詮の寝所に乱入、屏風や障子を、手当たり次第に踏み破っていく。

仁木頼夏 えぇい・・・ったくもう! 日本一のいくじなしを、頼みにしたおれたちゃぁ、ほんとにバカだったぜぇ!

仁木義長 ・・・。

仁木頼夏 おれたちが戦に勝ったら、すぐに出てくんだろうよぉ、手ぇすりあわせてなぁ、おれたちの前に、出てくんだろうよぉ!

頼夏は、義詮の悪口をさんざん吐き散らした後、自邸へ帰っていった。

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仁木サイドの、方々からやってきた人々、外様の者たちは、足利義詮が仁木サイドについているからこそ、義長を見捨て難く、彼の下についていたのである。

ところが、肝心のその義詮が、「仁木義長を討たせんがため、館を脱出した」と、いうではないか。

彼らは、あっという間に、雪崩(なだれ)を打ったように脱走しはじめた。

我も我もと、100騎、200騎、連れ立って、アンチ仁木サイドへ、続々と投降していく。今朝時点では7,000余騎と記録されていた仁木陣営、今はたった、300余騎だけになってしまった。

仁木義長 ワッハッハッハッ・・・いいのさ、いいのさ、頼りにならん連中なんか、いくらいたって、足手まといになるだけだもんなぁ! 逃げ出してくれて、よかったぁ!

このように、しばらくの間は強がりを言っていた義長であったが、自らの身に替わり、命に替ってくれるもの、と信じきっていた昔からの恩顧(おんこ)の郎等たちまでもが、みな脱走してしまったと聞いて、ガックリきてしまった。

仁木義長 ・・・。

言葉も出ずに意気消沈、ただ呆然と座すのみである。

そうこうしているうちに、夜になってしまった。

夜が更けるにつれて、物集女、寺戸あたりに、松明の火が灯りだした。その数は、2万、いや、3万・・・。

アンチ仁木サイドの軍勢の接近を見て、「このままでは、とても勝負にならぬ」と判断したのであろう、仁木義長は、仁木頼勝を長坂(ながさか:北区)経由で丹後(たんご:京都府北部)方面へ脱出させ、仁木頼夏を唐櫃越(からうとごえ:右京区)ルート経由で丹波(たんば:京都府中部)方面へ脱出させた。

自身は、京都を脱出して近江(おうみ:滋賀県)方面を目指すかのように装いつつ、粟田口(あわたぐち:東山区)から方向を南へ転じ、木津川(きづがわ:京都府南部)ぞいに進み、伊賀(いが:三重県西部)を経て、伊勢(いせ:三重県中部)へ落ちのびた。

「勢い尽きた仁木義長、京都から逃亡」との知らせを聞き、足利義詮はすぐに京都へ帰った。

「今度の戦は、おそらく、激戦になるであろう」と思っていた、アンチ仁木陣営のメンバーたちは、案に相違して、一戦も無しに勝利を手中に収める事ができたので、皆、喜び勇んで、京都へ入っていった。

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