太平記 現代語訳 26-3 楠正行の最期

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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やがて、楠(くすのき)軍と高師直(こうのもろなお)との間隔は、1町ほどになった。

楠軍メンバーA (内心)あこや、あこにおるんや、おれらの目指す敵はな!

楠軍メンバーB (内心)二度も自分の白骨を繋いで韓構(かんこう)と戦うたという魯陽(ろよう)も凄いけどな、今のおれら、完全にその上イッテルわい!

楠軍メンバーC (内心)グイグイ闘志、わきあがってくるやんけ!

楠軍メンバーD (内心)やるで、やるでぇ、やったるでぇ!

楠軍メンバーE (内心)たとえ千里の距離があろうとも、ただの一足で飛んだるわい、高師直に飛びかかってったるわい!

楠軍全員、心ははやりにはやる。しかし、彼らとても生身の人間、今朝の午前10時から戦い始めて、時は既に午後6時、30余度もの衝突に、息は絶えだえ気力も消耗、重軽傷を負わぬ者は一人も無し。しかも、騎馬の相手に徒歩で立ち向かって行くのである、どうにも、高師直を追いつめようがない。

楠軍メンバーA (内心)いや、まだチャンスは残っとる。見てみぃ、あれほどの大軍を四方八方へ追い散らしてもて、

楠軍メンバーB (内心)今や、敵将・高師直のまわりにいるんは、たったの7、80騎だけやんけ!

楠軍メンバーC (内心)あんなレンチュウ、なにほどのもんじゃぃ! 蹴散らしてもたれ!

楠軍メンバーD (内心)イケイケェ!

楠軍メンバーE (内心)イッタルレー!

和田(わだ)、楠、野田(のだ)、関地良円(せきぢりょうえん)、河邊石菊丸(かわべいしきくまる)らは、我先我先にと前進していく。高軍側はメチャクチャにやっつけられ、次第に敗色濃厚になってきた。

その時、高軍の最前線に一人の武士が現われた。九州の武士・須々木四郎(すずきしろう)である。

須々木四郎は、強弓の使い手で速射の名人。三人張りの弓に13束2伏の矢をつがえ、100歩先に立てた柳の葉めがけて射れば百発百中という人である。

四郎は、他人が解き捨てたエビラや、竹尻篭(たけしこ)、やなぐいを、抱きかかえて集めてきて自分の横に置いた、そして、次々と矢を抜いては楠軍に対し、狙いすまして連射した。

四郎の弓から放たれた矢は、まさに豪雨のごとく、楠軍を襲う。

矢 ビュン、ビュン、ビュン、ビュン、ビュン・・・。

楠軍メンバーたちは、朝から鎧を着けっぱなし、体温で暖められた鎧には、多くの隙間が生じてしまっていた。須々木四郎が放つ矢はことごとく、その間隙を貫通し、彼らの身体深く突き刺さっていく。

楠正時 ウゥッ・・・。

楠正時(くすのきまさとき)が、眉間(みけん)と喉(のど)を射られた。彼にはもはや、その矢を抜く気力さえも残っていなかった。

楠正行 アァッ・・・。

楠正行(まさつら)も、左右の膝の3か所、右の頬、左の目尻を、深く射られた。霜に伏した冬野の草木のように、矢は彼の身体に折れかかっている。ついに、正行も動けなくなってしまった。

他の30余人の身体にも、矢が3本4本と突き刺さっている。

楠正行 ・・・みんな・・・よぉやってくれた・・・もはやこれまでや・・・。

楠軍メンバー一同 タイショウ、タイショウ!

楠正行 ・・・みんなぁ・・・分かってるわなぁ・・・敵の手にかかるなよぉ・・・。

楠軍メンバー一同 タイショウ、タイショウ、タイショウ!(涙)

楠正行 正時・・・。

楠正時 お兄ちゃん・・・。

楠正行 行くぞ!

楠正時 うん!

楠兄弟は、刺し違えて北枕に伏した。他の者たち32人も、思い思いに腹をかき切り、重なり伏していった。

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いったいどうやって紛れこんだのであろうか、和田賢秀(わだけんしゅう)は、高軍の中深く入りこんだ。

和田賢秀 (内心)えぇい、なんとしてでも、高師直と刺し違えて死んだるわい。

賢秀は、じわじわと高師直に接近していった。しかし、運命はついに彼には微笑んではくれなかった。

高軍中に、湯浅本宮太郎左衛門(ゆあさほんぐうたろうざえもん)という人がいた。彼は、河内(かわち)に土着の武士であったが、最近になって高側に投降した。それゆえ、賢秀の顔をよく知っている。

湯浅本宮太郎左衛門 (内心)あっ、あれは、和田やないか! よぉし、イてもたれ!

太郎左衛門は、賢秀の背後に回り込み、その両膝に切り付けた。

湯浅本宮太郎左衛門 エェイッ

和田賢秀 ウゥッ!

倒れた賢秀の側に、太郎左衛門は接近し、その首を取ろうとした。賢秀は、朱を注いだような大きな目をかっと見開き、太郎左衛門をギリギリと睨(にら)んだ。

首を切られる最中も、切られた後も、その眼は、太郎左衛門を憎々しげに睨み続けていた。

剛勇の人に睨みつけられた事が、太郎左衛門の心中に一大衝撃を与えたのであろうか、彼はその日から、病に伏す身となり、心身悩乱状態に陥ってしまった。

湯浅本宮太郎左衛門 アアア・・・睨むな・・・そないに睨んでくれるな・・・アアア・・・。

上を仰げば、賢秀の怒る顔が、空の中から彼を睨みつけている。うつむけばうつむいたで、賢秀のあのかっと見開いて睨む眼が、地面の上から彼を見据える。賢秀の怨霊は、太郎左衛門の五体を責め続けた。戦い終わって7日後、湯浅本宮太郎左衛門は、悶えながら死んでいった。

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楠軍メンバー・大塚掃部助(おおつかかもんのすけ)は、負傷して一度は戦場を離れた。後方に、楠正行たちが残っている事を知らずに、主がいなくなってしまった馬に乗って、はるか彼方まで落ち延びた。しかし、「和田と楠が討たれた」と聞き、たった一人で戦場へとって返し、大軍の中へ駆け入って切り死にしていった。

和田新兵衛正朝(わだしんべえまさとも)は、吉野へ行って戦の顛末(てんまつ)を朝廷に報告しようと思ったのであろうか、戦線を離脱した。

たった一人で、鎧を着て徒歩のまま、太刀を右の脇に引き付け、高軍メンバーの首を一つ左手に下げ、東条(とうじょう:大阪府・富田林市)方面へ落ち延びた。そこへ、安保忠実(あふただざね)が追いすがってきた。

安保忠実 おいおい、そこのぉ! 和田や楠の人々はみんな自害したというのに、それを見捨てて逃げていくヒキョウモノ! 逃げるな、返せ! 一対一で勝負しようじゃねぇか!

正朝は、振り返ってニヤリと笑い、

和田正朝 なんやとぉ! おのれと勝負せぇてか、よぉし、したろやんけ!

正朝は、血のついた4尺6寸の螺鈿細工の太刀をうち振るい、忠実に走り懸かっていった。

忠実は、自分一人ではとてもかなわないと思ったのであろうか、馬を駆け開いて後退した。それを見て、再び正朝は、きびすを返して走りだした。

忠実が留まると正朝は走る、正朝が走り出すと忠実は再びそれを追う。追いかけるとまた止る・・・このようにして1里ほど行ったが、互いに討たず討たれずして、日はすでに暮れようとしていた。

そこへ、青木次郎(あおきじろう)、長崎彦九郎(ながさきひこくろう)が、馳せ来った。二人ともエビラに矢を残していたので、正朝を追いかけながら、次々と矢を射る。草ずりの余、引き合いの下に7本も矢を射立てられて、ついに正朝は倒れ、その首を忠実が取った。

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合戦は終わった。和田と楠の兄弟4人、一族23人、それに従う武士143人は、命を君臣2代の義に留め、その名を古今夢双の功(いさしお)に残した。

世間の声F もうこれは過去の事になってしもたけど、奥州国司(おうしゅうこくし)の北畠顕家(きたばたけあきいえ)はんが、阿倍野(あべの:大阪市阿倍野区)で討死にしてしまわはったやろ、それから、新田義貞(にったよしさだ)はんも、越前(えちぜん:福井県東部)で戦死してしまわはったわなぁ。それから後、吉野朝側、どうも、ぱっとせんかったですわなぁ。

世間の声G ほんに、そうどすなぁ。都から遠いとこらへんには、吉野朝方の城郭も、少しはありましたけど。

世間の声H あのっさぁ・・・いくら城郭があるったってっさぁ、局所的ピンポイント防衛してるだけじゃっさぁ、世間の注目もなぁんも、集まりゃしないんだよねぇ。

世間の声I いや、ほんま。そないな中で、吉野朝側が唯一、面目を保てれた事はというたら、この楠一族の奮戦、ただ、それだけやったような気がしますなぁ。

世間の声J 同感じゃ。楠正行は、京都に近い重要戦略地点で、ビンビン威を振るいよったけんねぇ。

世間の声K なんせ、足利幕府の大軍を二度も破ったんだもんなぁ、そりゃぁスゴイもんだよ。

世間の声L 吉野朝廷の天皇陛下、楠軍の活躍に、ごっつぅ喜んではったらしいですなぁ。まさに、水を得た魚のようやった、いいますやん?

世間の声M それにひきかえ、足利幕府の方は、山から出てきた虎に出会ったみたいに、ビビリにビビっちゃって。

世間の声G そやけどなぁ、和田と楠一族全員、あっという間に滅びておしまいやした。

世間の声H 吉野朝の天皇陛下の御聖運も、これでついに傾いてしまいましたなぁ。

世間の声J 同感じゃ。足利家の武徳、これでますます、揺るぎないものになってきよったのぉ。

世間の声K 足利幕府は永遠です・・・ってかい?

世間の声一同 そういうことなんでしょうなぁ、おそらく。

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(訳者注1)楠正行たちが足利幕府に対抗しえた期間は、下記に見るように、極めて短かかった。

1347年9月 藤井寺での、細川顕氏らとの戦。

1347年11月 瓜生野、阿部野、渡辺橋での、細川顕氏、山名時氏らとの戦。

1348年1月 四条畷での高師直らとの戦。

[観応の擾乱 亀田俊和 著 中公新書2443 中央公論新社] の 37Pには、以下のようにある。

 「当時の四条畷周辺は、古代の河内湖の名残で低湿地が多く、大軍では迅速な動きは不可能であったらしい。飯盛山方面から側面を突かれることを防ぎ、戦闘力が高い精鋭の軍勢で一気に襲えば、正行軍にも十分な勝機があった模様である。」

 「正行の作戦は的中し、師直本陣は大混乱に陥った。このとき、上山六郎左衛門が師直の身代わりとなって戦死し、師直の窮地を救った著名な挿話もある。しかし大局的には多勢に無勢、わずか一日の戦闘で正行は敗北し、弟正時と刺し違えて自決した。」

[河内湖]に関しては、[河内湖 縄文海進]、[大阪平野 河内湾]等でネット検索して、関連する情報を得ることができた。
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