太平記 現代語訳 34-6 第2次・ 龍門山戦

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「紀伊国(きいこく:和歌山県)・龍門山(りゅうもんざん:和歌山県・紀の川市)の戦闘において、畠山(はたけやま)軍、戦死者多数、和佐山(わさやま:和歌山県・和歌山市)の我が方の陣も、もはや維持困難!」との報に、津々山(つづやま:大阪府・富田林市)に陣取っている軍勢も、尼崎(あまがさき:兵庫県・尼崎市)にいる足利義詮(あしかがよしあきら)も愕然(がくぜん)、色を失ってしまった。

しかし、仁木義長(にっきよしなが)だけは、我が意を得たりとばかりに、一人ほくそえんでいる。

仁木義長 なにぃ、畠山軍大敗ってかぁ・・・ムッフフフフ・・・おれの思惑通りに、なってきたじゃねえかよぉ、ムフフフフ・・・。

仁木義長 あぁ、もうこうなったら、津々山の陣、天王寺(てんのうじ:大阪市・天王寺区)の陣、住吉(すみよし:大阪市・住吉区)の陣、どこもかもみぃんな、敵に追い散らされてしまいやがれぃ! みぃんな丸裸になって逃走しちまいやがれぃ! じぃっくり見物して、楽しませてもらうとしようぜぇ・・・ムハハハ、ムハハハ、ウワハハハハ・・・。

仁木義長は、いったい、足利軍の味方なのか敵方なのか? 全くもって理解しがたい、その心理状態である。

足利義詮 いかん、このままじゃ、いかんよぉ・・・紀伊の龍門山にいる敵に対抗して敷いた、こちらサイドの向かい陣が追い落とされてしまったんじゃぁ、もう津々山だって、とても、もちこたれるもんじゃぁない・・・いかん、このままじゃ、いかん!

足利軍リーダーA 敵がここまで迫って来ないうちに、新手を送って、畠山義深(はたけやまよしふか)殿を応援させては、どうでしょう?

足利義詮 そうだなぁ・・・それしかないだろうなぁ。

というわけで、4月11日、畠山義熈(よしひろ)、今川了俊(いまがわりょうしゅん)、細川家氏(ほそかわいえうじ)、土岐直氏(ときなおうじ)、小原義信(おはらよしのぶ)、佐々木定詮(ささきさだのり)、芳賀公頼(はがきみより)、土岐の桔梗一揆(ときのききょういっき)武士団、佐々木の黄一揆(ささきのきいっき)武士団ら、総勢7,000余騎を、再び紀伊へ送った。

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自らは天王寺に留まり、息子の公頼を紀伊へ送り出す事になった芳賀禅可(はがぜんか)は、公頼を見送りながら2、3里ほど同行した。

芳賀禅可 じゃ、そろそろこのへんで・・・。

芳賀公頼 はい・・・父上、どうかお元気で・・・。

芳賀禅可 うん・・・。

芳賀公頼 ・・・。

芳賀禅可 ・・・。

芳賀公頼 ・・・。

芳賀禅可 あのなぁ、公頼・・・(涙)。

芳賀公頼 はい。

芳賀禅可 ・・・関東に、名のある武士は大勢いるけんど・・・武士として何ら恥じる所のない、人に後ろ指一本たりとも指される事がない・・・そんな家は、わが芳賀一族以外には、ひとっ(一)つもねぇんだから・・・分かってるよなぁ!(涙)

芳賀公頼 はい、分かってます!

芳賀禅可 こないだの戦、こっちはあれほどの大軍だったのに、もののみごとに負けちまって、敵に力つけちまった・・・だから、今度の戦、こっちがますます不利になるって事だけは、よくよく、心得といた方がいいぞぉ!(涙)

芳賀公頼 はい。

芳賀禅可 もしも・・・もしもだ、今度も戦がうまくいかずに、おまえが逃げて帰ってきたら・・・そうなりゃ、また、こないだの繰り返し・・・畠山のあのブザマな壊走の繰り返しになっちまわぁ・・・敵は、ますます勢いづきやがる。

芳賀公頼 ・・・。

芳賀禅可 そうなったら、またヤツめ、手ぇ叩いて笑いやがるんだろうなぁ・・・仁木めぇ!

芳賀公頼 ・・・。

芳賀禅可 そんな事になったんじゃぁ、おれ、もうとても耐えられねぇや・・・おまえの恥はそく、俺の恥さな。

芳賀公頼 ・・・。

芳賀禅可 今回の戦でもし、敵を追い落とせなかったら・・・もし、追い落とせなかったら・・・おい、頼むからな、生きたまま、おれに顔を合わせるのだけは、やめてくれよなぁ・・・。(涙)

芳賀公頼 はい!(涙)

芳賀禅可 (懐から七条袈裟(しちじょうげさ)を取り出して、公頼に渡す)これはな・・・(涙)、円覚寺(えんがくじ:神奈川県・鎌倉市)の長老から頂いたお袈裟だ・・・これを母衣(ほろ)に懸けて戦え・・・そうすりゃ、後世に受ける悪報から、逃れられるだろうから・・・。(涙)

芳賀公頼 (袈裟を受け取る)はい!(涙)

父は、最後の教えを子に授け、子は、父の言葉に決して違わない事を約した。そして、二人は南北へ分かれた。

今生(こんじょう)の対面は、もしかしたらこれを限りになるかもと、涙の中に何度も何度も、互いに名残惜しげに振り返る。

あぁ、親子の愛情というものは、まことに深いものである。いかなる鳥獣といえども、子を思う心は浅からず、ましてや人間においてをや、ましてや、一子においてをや。

しかしながら、芳賀父子は、共に弓矢の道に生きる人、最愛の子に向かって、「討死にしてこい!」と諭さねばならぬ芳賀禅可の心中、まことに哀れなものである。

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「足利側が、再び大軍を送りこんできた」との報を受け、吉野朝側は、四条隆俊(しじょうたかとし)を中心に作戦会議を開いた。

「龍門山にとどまって戦うべきか、それとも、平地に軍を進めて敵とぶつかるべきか」と、議論している中に、

吉野朝リーダーB えらいこってすわ! 湯川庄司(ゆかわのしょうじ)のヤツ、敵に寝返りよりましたで!

四条隆俊 なに!

吉野朝リーダーB 湯川め、熊野街道(くまのかいどう)経由で、こっちへ向こぉとるようです。

四条隆俊 いかん、背後を突かれる形に、なってしまうやないか!

吉野朝リーダーC 海路、熊野灘(くまのなだ)から紀伊水道(きいすいどう)へと進み、田辺(たなべ:和歌山県・田辺市)付近で上陸したという情報もあるが・・・。

四条隆俊 うーん・・・こんなんでは、この陣、持ちこたえれるやろか・・・うーん・・・。

越智(おち)家・トップD (内心)・・・あかんわぁ、こら・・・。

越智は、城の大手方面・第一木戸(きど)の守備を担当していたのであったが、降伏を決意、芳賀公頼のもとに投降してしまった。

ただでさえ勇猛果敢をもってならす清党(せいとう)武士団、芳賀公頼はそのリーダーである。父には義を勧められ、今また、越智の投降によって力を付けられ、もうこうなっては、いささかの停滞(ていたい)もするはずがない、龍門山の麓へ打ち寄せるやいなや、盾をもつかず、矢を一本も射ず、清党軍は、連なって一斉に攻め上っていく。

彼らの猛攻の前に、これぞツワモノとの呼び声高い、さしもの恩地(おんぢ)、贄川(にえかわ)、貴志(きし)、湯浅(ゆあさ)、田辺別当(たなべのべっとう)、山本判官(やまもとはんがん)も、龍門山を1時間も守りきる事ができず、全員、そこから追い落とされて、阿瀬川(あぜがわ)城(和歌山県・有田郡・有田川町)へ、たてこもらざるをえなかった。

かくして、芳賀公頼は、第2次・ 龍門山戦においてみごと、先日の足利側敗戦の恥を濯いだのであった。

芳賀公頼 戦はこれまで! 一手柄立てた上は、いざ帰還!

津々山の陣へ帰ってきた息子の姿に、父・禅可は、ただただ喜悦(きえつ)するばかり。

芳賀禅可 わが息子が、敵を蹴散らして大殊勲! その上、生きて帰ってくるなんて・・・公私両面、バンバンザイだぁ!

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吉野朝・閣僚E 四条隆俊卿、龍門山の戦に負けて、阿瀬川へ落ちたとのことですわ!

吉野朝・閣僚F えっ、なんやて!(青ざめる)

吉野朝・閣僚G あぁ、あかん・・・(両手で顔を覆う)

後村上天皇 うーん・・・(顔をしかめる)

吉野朝側は、天皇も閣僚も完全にがっくり、意気消沈である。

このような中に、更に追い討ちをかけるような事が起った。住吉神社(すみよしじんじゃ:大阪市・住吉区)の神主・津守国久(つもりのくにひさ)が、密かに、次のような報告を吉野朝廷に上げてきたのである。

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今月12日正午頃、当社の神殿が、相当長時間に渡り、鳴動しました。その後、神殿の前庭に生えていた楠の木が、風も吹いてないのに急に真ん中から折れて、神殿に倒れ懸りました。枝がたくさん生えていたおかげで、倒木は空中にかろうじて支えられて、社殿は無事でした。
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この密奏を聞いた閣僚らは、

吉野朝閣僚E (ササヤキ声で)こらぁ、えらい事になりましたなぁ。

吉野朝閣僚F (ササヤキ声で)神殿が鳴動するやなんて・・・間違いなく、凶の兆し・・・疑う余地がありません。

吉野朝閣僚G (ササヤキ声で)それにまたなんと、楠の木が倒れるやなんて・・・楠正儀(くすのきまさのり)は、朝廷軍の棟梁(とうりょう)だっせ。

吉野朝閣僚H (ササヤキ声で)楠が倒れてしもたら、いったい誰が、陛下をお守りできるっちゅうねん。

吉野朝閣僚I (ササヤキ声で)何から何まで、不吉だらけやぁ。

忠雲僧正(ちゅううんそうじょう:注1)は、それを黙って聞いてはおれずに、

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(訳者注1)21-4 に登場。
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忠雲僧正 「良い事が起るよりも、何も起こらない方が、よっぽどまし」と、言いますわなぁ。

吉野朝閣僚一同 ・・・。

忠雲僧正 神殿が鳴動し、楠の木が倒れる・・・こないな事象が、起こってしもぉた、いやはや・・・。

忠雲僧正 たしかに、これは、吉なる事とは到底、言えませんでしょうな。そやけどね、こうも、考えれますやんか、神が凶を告げ給うのは、神が未だに我々を見捨てはおられない、という事の証拠。

吉野朝閣僚一同 ・・・。

忠雲僧正 昔の中国、後漢(こうかん)王朝の時代に、こないな事がありました・・・宮殿の庭に一本のエンジュの木が生えとりました・・・高さは20丈余り・・・ものすごい大木です。

忠雲僧正 ある日、風も吹いてへんのに、その大木が突然、根っこから抜けてしもて、逆立ちしてしまいよりました。

忠雲僧正 大臣らは、皆これを見て震え上がってしまいました。ところが、皇帝はこれを喜びました、「天は、わしの政治に満足してはおられんのや、それを告げ知らせるために、このような超常現象を示してくれはったんやなぁ」と、言うてね。

忠雲僧正 そこで皇帝は、一生懸命、善政に努めました。王室の支出を削減して国家予算の余裕を生みだし、それを、貧しい民を救うための福祉関係の予算に回すようにしました。その結果、この木は一夜の中にまた、元通りに戻ったんです。一葉も枯れる事無しにね。

忠雲僧正 外国だけではありませんよ、我が国にも、同様の例がありますわ。かの村上(むらかみ)帝の御代、応和(おうわ)年間の末、比叡山(ひえいざんの三宮林(さんきゅうりん)の数千本の松が、一夜にして枯れしぼみ、霜をもしのぐ緑色の葉が、いっぺんに黄色になってしまいました。延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)三千の衆徒は大いに驚き、十善寺(じゅうぜんじ:滋賀県・大津市)にお参りして、各自が受法した法に従って、読経を行いましてな・・・。

(以下、忠雲僧正が語った話)
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延暦寺衆徒一同 (内心)み仏様、これはいったい、何の前兆でございましょうか、どうか、お説き明かしくださいませ!

一心に祈り込める彼らの前に、一人の巫女(みこ)が、にわかに憑依(ひょうい)現象を現し始めた。

巫女 ううう・・・ううう・・・うああああ・・・。

巫女 た・・・た・・・いま・・・たった今・・・我に・・・し・・し・・・七社権現(しちしゃごんげん)、乗り移られたまえりぃー! あああ・・・あああ・・・。

延暦寺衆徒一同 おおお・・・。

巫女 我は、この山内において、天台宗(てんだいしゅう)の教法を守り、そなたら比叡山三千の衆徒に対して、教え導きの縁(えにし)を繋ぎ、外部に対しては、国家の安全を致して、利益(りやく)を日本全国60余国に垂れるものなり。

巫女 しかりといえども、昨今のそなたら衆徒のふるまい、神慮(しんりょ)に叶うもの、ただの一つとして無し! 武器を携えては法衣(ほうい)を汚(けが)し、甲冑(かっちゅう)を帯しては社頭(しゃとう)を往来す。

巫女 あぁ、今より後、天台の教旨たる三諦則是(さんたいそくぜ)の春の花、いったい誰(た)が袂(たもと)に薫(にお)わまし、天台密教(てんだいみっきょう)・四曼不離(しまんふり)の秋の月、何(いず)れの扉をか照らすべきや。

巫女 かくなる上は、我、この山麓に鎮座(ちんざ)せるも空しき事なり、ただ速やかに、我が本籍地たるかの空間、寂光本土世界(じゃっこうほんどせかい)へ帰還あるのみ。

巫女 あぁ、我が耳に今も残るは、旧き良き時代の、延暦寺衆徒らの唱えし常行三昧(じょうぎょうざんまい)の念仏の声、なおも心に残るは、かの時代の法華経(ほけきょう)読経(どきょう)とその解釈議論の声・・・あぁ、かのすばらしき延暦寺は、いったい何処(いずこ)へ・・・あぁ、あぁ・・・。(涙、涙)

巫女 うああああ・・・うああああ(涙、涙、額から汗ダラダラ)あああ・・・あああ・・・うあっ!(バタッ・・・倒れ伏す、憑依から醒める)

これに驚愕した衆徒らは、聖真子権現(しょうしんじごんげん)社の前に行って、常行三昧の仏名を称え、根本中堂(こんぽんちゅうどう)の外陣(げじん)において、法華経解釈議論を執行した。

これによって、神もたちまち納得されたのであろう、霜枯れしてしまった木々の色は、もとの緑を回復し、衆徒らも、ホッと胸をなでおろしたのであった。

後日、住吉神社の神が、以下のような神託を下した。

 「日の本の地の、方々の反乱を静めんが為、我は過去、様々に威力を下ししものなり。天慶(てんぎょう)年間・藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱、あの時、我は大将軍となり、比叡山・山王(さんのう)は副将軍たり。承平(しょうへい)年間・平将門(たいらのまさかど)の乱の時には、山王は大将軍たり、我は副将軍となりて、逆徒を鎮めしものなり。山王は、天台宗によりて支えられておるが故に、彼、勢力において我より勝る・・・うんぬん・・・。」
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(忠雲僧正の話、以上で終わり)。

忠雲僧正 ま、こないなわけですからな、陛下におかれましては、徳行(とくぎょう)に専心され、国中の民の生活を安穏ならしめんと思(おぼ)し召す大願を起こされて、仏法の力によって神の擁護を頂けるように、持っていかはったら、よろしぃんちゃいますやろか? そないなフウにしていかはったら、朝敵もかえって味方となり、禍(わざわい)転じて福となること、間違いなしだっせ。

吉野朝閣僚一同 うーん、なるほど。

閣僚らは全員、忠雲僧正のこの言葉に深く得心、後村上天皇も、神仏への信心をさらに固められた。

直ちに、住吉神社の四柱の神と比叡山山王七社の神々を、皇居の中に勧請(かんじょう)、昼夜ぶっとおし、席が冷える暇も無き修法が、100日間連続で修された。

天皇は、毎朝水ごりをとり、尊い体を五体投地(ごたいとうち)して、一心に祈り込める。

吉野朝閣僚E (内心)除災興楽(じょさいよらく)と祈られるあの陛下のお姿・・・あぁ、ほんまに、鳥肌が立つほど感動やぁ。

吉野朝閣僚F (内心)天地もきっと、これに感応し、

吉野朝閣僚G (内心)神も仏も必ずや、擁護(ようご)の御手を垂れたまうことやろうて。

吉野朝閣僚H (内心)まぁ、なんと、たのもしぃことやないかいな!

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