太平記 現代語訳 4-2 8歳の親王、歌を詠む

太平記 現代語訳 インデックス 2 へ
-----
この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
-----

後醍醐先帝の第9親王(恒良親王:注1)は、未だ幼い身であらせられるから、ということで、京都の藤原宣明(ふじわらのぶあきら)邸に預けられていた。

親王は、今年8歳という年齢でありながら、早くも、多大な知性の冴えを、顕わしていた。

-----
(訳者注1)原文には「第九宮」としか書かれていないのだが、[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]、[新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館]共に、「恒良親王か」と注記しているので、このようにした。
-----

恒良親王 陛下は、人も通わん、隠岐(おき)とかいうとこに、流されはるんやろ?

藤原宣明 はい。

恒良親王 そやのに、ボク一人だけ、都の内にノホホンとしてて、どないすんねん!

藤原宣明 ・・・。

恒良親王 なあ宣明、頼むから、ボクも陛下といっしょに、そこに流罪になって行けるようになぁ、幕府に頼んでぇなぁ!

藤原宣明 ・・・。

恒良親王 隠岐の中で二人、近所においとくのはあかん、言うねんやったらな、離れた場所やったかて、えぇんやから・・・そこからボク、陛下を見守らせていただくんや・・・。(涙を流しうちしおれて)

藤原宣明 ・・・。

恒良親王 陛下が今、おしこめられてはる、白川(しらかわ:京都市左京区)いうたら、都心からも近いとこや、いうやんか。宣明、なんでボクを、そこへ連れてってくれへんねん?

藤原宣明 (涙を押さえながら)陛下が今おわしますとこがなぁ、ここの近所やったら、そら、いくらでもお供して、お連れ申しあげますでぇ。そやけどなぁ、白河(しらかわ)いうたら、京都から数百里の彼方にありますんやで。かの、能因法師(のういんほうし)も、歌に詠んどりますやろ、

 春霞の たつころ都を 発ったけど 秋風吹いたる 白河の関

 (原文)都をば 霞と共に 出でしかど 秋風ぞ吹く 白川の関

それほど遠いとこにな、人も通さん白河の関所の向こうにな、陛下はおわしますのやで。

恒良親王 ・・・(涙)。

親王は、しばらく涙を押さえ、黙っていたが、

恒良親王 宣明は、ボクを陛下のとこへ連れてくのがいややから、そないなウソ、ついてんねんな。

藤原宣明 !!!

恒良親王 おまえが言うてる、「しらかわ(白河)」いうのんは、京都を流れてるあの、「しらかわ(白川)」とはちゃうやろぉ! おまえは、奥州(おうしゅう)の有名な関所のある、あの「白河」の事、言うてんねんやんか!

藤原宣明 ・・・。

恒良親王 最近、津守国夏(つもりのくになつ)がな、おまえが言うたその歌の本歌取りした歌、作っとるぞ。

 東国の 関まで行かいでも (京都の)白川も 日がたったらば 秋風も吹く

 (原文)東路(あずまじ)の 関迄(まで)ゆかぬ 白川も 日数(ひかず経(へ)ぬれば 秋風ぞ吹く

藤原宣明 !!!

恒良親王 飛鳥井雅経(あすかいまさつね:注2)も、こんなん詠んどるやないか、「最勝寺(さいしょうじ:注3)の蹴鞠コートの桜が枯れたから、植え替える」いう時に。

 見慣れた木 これが最後の 春になると なんで知ら(白)んかったん 桜の下陰(したかげ)

 (原文)馴々(なれなれ)て 見しは名残(なごり)の 春ぞとも など白川の 花の下陰

藤原宣明 !!!

-----
(訳者注2)この人は、蹴鞠の名人であったという。

(訳者注3)当時、[最勝寺]をはじめ「X勝寺」という名前の寺院が6つ、現在の京都市左京区岡崎公園一帯(白川流域に位置する)にあった。これらをまとめて「六勝寺(りくしょうじ)」と呼んでいた。
-----

恒良親王 名前は同じやねんけど、場所が全然ちがう、「白川」と「白河」、証拠の歌2首、以上! よぉし、もぉえぇわい、もう、おまえには、頼まん!

このように、宣明に恨み言を浴びせた後は、親王の口からは、「父が恋しい」というような言葉は一切出なくなった。

親王は、飛鳥井邸の中門の側にたたずみ、もの思いにふける。

恒良親王 (内心)あーぁ、心が一向に晴れへんなぁ・・・。

その時、遠い寺で鳴っている晩鐘の音が、かすかに聞こえてきた。そこで親王は一首、

 つくづくと 思い暮らして 入逢(いりあい)の 鐘を聞くにも 君ぞ恋しき

 (原文のまま)(注4)

-----
(訳者注4)「入逢の鐘」とは晩鐘、夕方に寺でつかれる鐘のことである。
-----

心中の揺れ動く思いが、言葉となって現れ出た、その歌の大人びた内容に、人々は痛切な悲哀を感じた。京都中の僧俗男女はこぞって、この歌を、懐紙や扇に書きつけて詠む。

街の声A つくづくと おもいくらして いりあいの かねをきくにも きみぞこいしき・・・あぁ、えぇ歌やなぁ、ウチ、たまらんどすえぇ。

街の声B その歌の作者、たった8歳の親王はんや言うや、おへんか!

街の声C ほんにまぁ、大したもんやなぁ!

-----
太平記 現代語訳 インデックス 2 へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?