太平記 現代語訳 10-15 高時ら北条家一門、自害

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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長崎高重(ながさきたかしげ)は、東勝寺(とうしょうじ)の中を走りまわって叫んだ、

長崎高重 さぁさぁ皆様、早いとこ、自害なさいませぇ! まずはこの高重が、一番手を承(うけたまわ)り、お手本をご覧に入れましょう。

高重は、胴部分だけになってしまっていた鎧を脱ぎ捨て、北条高時(ほうじょうたかとき)の前に置かれている盃を手に取り、弟の長崎新右衛門(しんえもん)に、

長崎高重 さ、注(つ)いでくれ。

長崎新右衛門(ながさきしんえもん) ・・・。(うなずき、酒を注ぐ)

高重は、酒を三杯飲んだ後、その盃を、摂津道準(せつどうじゅん)の前に置いていわく、

長崎高重 わが心を込めて、その盃、お送りいたします。酒の肴(さかな)には、これをどうぞ、エイッ!

高重は、左の小脇に刀を突き立て、右の横腹まで切り目長くかき破り、腹の中から腸をたぐり出した後、道準の前に倒れ伏した。

摂津道準 (盃を取って)いやぁ、こんなスゴイ肴とあっちゃぁ、どんな下戸(げこ)といえどもこの盃、飲まずにはおれないよなぁ・・・はははは・・・。

摂津道準は、酒を半分ほど残し、盃を、諏訪直性(すわじきしょう)の前に回した。その後、道準も同じく腹を切って死んでいった。

諏訪直性は、盃を心静かに三度傾け、北条高時の前に置いて、

諏訪直性 最近のお若い方々は、随分、芸達者(げいだっしゃ)な死に方をされますなぁ。ワシら年寄りには、とてもマネできません・・・ははは・・・。(腰から刀を抜く)じゃみなさん、ここから後は、(刀を皆に示しながら)これを送り肴にしてください。

直性は、腹を十文字にかき切り、その刀を抜いて、北条高時(ほうじょうたかとき)の前に置いた。

北条高時 ・・・。

長崎円喜(ながさきえんき)は、高時の事が気がかりで、未だに腹を切れずにいた。今年15歳になった長崎新右衛門は、祖父・円喜の前にかしこまっていわく、

長崎新右衛門 「父祖の名を高からしむる事は、子孫の孝行の道」といいますからね、仏様も神様もきっと、こんな事をしても、お許し下さるでしょう、エイッ、エイッ!

年老いた祖父の肘(ひじ)の関節に、新左衛門は二回刀を突き立てた。そして、その刀でもって自らの腹をかき切り、祖父の体を抱いて引き伏せ、その上に重なって倒れ伏した。

この若者の潔い最期に励まされて、北条高時もついに切腹、安達時顕(あだちときあき)が、それに続いた。

それを見て、その場に座を連ねた北条家一門と他家の人々も続々、雪のごとき肌を露わにして、腹を切るもあり、自ら首をかき落とすもあり、思い思いに最期を遂げるその様は、まことに立派なものであった。

その他の人々、すなわち、金澤貞顕(かなざわさだあき)、佐介宗直(さすけむねなお)、甘名宇宗顕(あまなうむねあき)、その子・甘名宇時顕(ときあき)、小町朝実(こまちともざね)、常葉範貞(ときはのりさだ)、名越時元(なごやときもと)、伊具宗有(いぐむねあり)、城師顕(じょうのものあき)、秋田師時(あきたもろとき)、城有時(じょうのありとき)、南部茂時(なんぶしげとき)、陸奥家時(むついえとき)、相模高基(さがみたかもと)、武蔵時名(むさしときな)、陸奥時英(むつときふさ)、櫻田貞国(さくらださだくに)、江馬公篤(えまきんあつ)、阿曽治時(あそはるとき)、刈田篤時(かったあつとき)、遠江顕勝(とおとうみあきかつ)、備前政雄(びぜんまさお)、坂上貞朝(さかのうえさだとも)、陸奥高朝(むつたかとも)、城高量(じょうのたかかず)、城顕高(あきたか)、城高茂(たかしげ)、秋田延明(あきたえんみょう)、明石忍阿(あかしにんあ)、長崎思元(ながさきしげん)、隅田次郎左右衛門(すみだじろうえもん)、摂津高親(せっつたかちか)、摂津親貞(ちかさだ)、名越(なごや)一族34人、塩田(しおだ)、赤橋(あかはし)、常葉(ときは)、佐介(さすけ)の各家の人々46人、総じて一門の人々283人、我先にと腹を切り、館に火をかけ、猛炎さかんに燃え上がり、黒煙は天を掠(かす)める。

庭上(ていじょう)、門前(もんぜん)に並(な)み居る武士たちも、これを見て、あるいは自ら腹をかき切って炎の中へ飛び入るもあり、あるいは父子兄弟互いに刺し違えて重なり伏すもあり。血は流れて大地に溢(あふ)れ、漫々として大河の如く、屍(しかばね)は行路(こうろ)に横たわり、累々(るいるい)たる野原の如し。

その後、死骸はすべて焼けてしまい、識別不可能の状態となったが、後日、名字を調べてみた結果、この一所にて死んだ者は総勢870余名と、判明した。

その他にも、一門に連なる者や恩顧の人々、僧俗男女の別を問わず、北条家の最期を伝え聞き、その後を追って冥土(めいど)に恩を報ずる人、世上に悲しみを促(もよお)す人、遠国(おんごく)はいざ知らず、鎌倉内だけで数えてみても、合計6,000余人。

あぁ、今日という日はいったい何の因縁(いんねん)あってか、このような日になったのであろうか・・・。

元弘(げんこう)3年(1333)5月22日、平家9代の繁栄は一時に滅亡、源氏(注1)の人々の頭上に多年にわたって垂れ込めていた鬱屈(うっつく)の暗雲は一朝にして砕け散り、彼らの頭上には、見渡す限りの広大な蒼穹(そうきゅう)が開けたのであった。

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(訳者注1)新田氏、足利氏は清和源氏の流れに連なり、北条氏は桓武平氏の流れに連なる。ゆえに太平記作者は、両者の闘争を「源平の闘争」と表現しているのである。
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追記

鎌倉幕府滅亡への一大転機となった「稲村崎渡渉」(10-6 参照) については、10-6の追記にも記したように、

[中世の村を歩く 石井進 朝日新聞社(朝日選書 648)]

において、石井進氏は、太平記に記されている[元弘3年5月21日(旧暦)]ではなく、5月18日のできごとであったと考えるべきである、と述べられている。

ではなぜ、太平記作者は、このように3日も日付をずらしたのか?

石井氏は以下のように、その理由を推理されている。(以下、上記文献 150ページ よりの引用)

 「ところで、『太平記』が、五月十八日の鎌倉攻めを三日間も後の二十一日夜半に持ってきたのは何故か。初期の義貞軍の苦戦を強調するとともに、一度稲村ヶ崎を突破・侵攻するや、たちまち一日のうちに幕府は滅亡したという劇的展開に仕立て上げて、物語としての効果をあげようとしたためだろう。」

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