太平記 現代語訳 34-1 足利義詮、第2代将軍に就任

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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尊氏(たかうじ)の死後、足利(あしかが)政権はまさに、深淵に張った薄氷上にあるがごとくの状態、日本の権力構造が、今にも覆ってしまうのではなかろうかとさえ、思えたのであったが、

吉野朝(よしのちょう)サイドの人A あれはほんまに、痛かったわなぁ・・・ほれ、あの新田義興(にったよしおき)。

吉野朝サイドの人B ほんになぁ。間違いなく、武士階級のトップに登りつめれるだけの、器を持った人物やったのになぁ・・・ほんまに、惜しいわい。

吉野朝サイドの人C 武蔵国(むさしこく)で、だまし討ちに、逢(お)うてしもぉたんやったなぁ。(注1)

吉野朝サイドの人D そうやがな。

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(訳者注1)33-10 参照。
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吉野朝サイドの人A 九州の方も、イマイチやねぇ。

吉野朝サイドの人B そうやなぁ・・・菊池武光(きくちたけみつ)、昨年までは、九州全域を制圧してブイブイいわしとったんやけど、どうも最近、パッとせぇへん。

吉野朝サイドの人C 小弐(しょうに)と大友(おおとも)が、叛旗を翻(ひるがえ)して、わが方の敵対勢力となりよってからは、もう、さっぱりワヤやがな・・・菊池の武威、最近、ガタ落ちらしいでぇ。

吉野朝サイドの人D まん丸の月見して、えぇ気分になっとったら、急に、暁の雲がムクムク湧いてきよってやな、お月さん完全に隠れてもた・・・今の気分を喩(たと)えてみるならば、そないなカンジや。

吉野朝サイドの人E さんざんっぱら、期待したあげくに、またまた、さびしい世の中に、なってしもうたわいな。

吉野朝サイドの人A あーあ、ほんまに、世の中っちゅうもんは、思うようには、ならんもんやなぁ・・・。

吉野朝サイドの人B ほんまにもう、いやんなってくるわぁ。

吉野朝サイドの人々 あーあ・・・。

一方、足利幕府サイドは、

足利幕府サイドの人F いやいやぁ、あれやこれやと、そりゃぁもう、いろいろとあったけどぉ、ようやく、フォワードの風が吹きはじめたようでぇ。

足利幕府サイドの人G そうさなぁ。

足利幕府サイドの人H 他所(よそ)から櫻の木を持ってきて、我が家の庭に移植してさぁ、苦労して苦労して根づかせた末に・・・ようやく開いた花を、今、見て楽しんでるってとこかい?

足利幕府サイドの人I おぉ、なかなか、うまい事、言うじゃぁん。

足利幕府サイドの人J いやいや、まだまだ安心できねぇ、危険はいっぱいだよぉ。

足利幕府サイドの人F でもさぁ、その、いっぱいある危険の向うには、希望を持てる事だって、いっぱいあるじゃんかよぉ。

足利幕府サイドの人G そうだよ、そうだよ、人間、先行きに希望が持てたら、待つ事なんか、ちっとも苦にならねぇってもんよ。

足利幕府サイドの人々 そのうちきっと、イイ事あんぞぉー・・・。

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京都朝年号・延文(えんぶん)3年(1358)12月18日、足利義詮(あしかがよしあきら)、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任、当年29歳。

朝廷よりの将軍任命の宣旨(せんじ)を幕府オフィスに持ち来るは、左中弁(さちゅうべん)・日野時光(ひのときみつ)、それを受け取るは、佐々木秀詮(ささきひでのり)。

天下に広く武功をうちたてたのであるからして、義詮の将軍位就任は当然の事とは言えようが、それにしても、父子相続して二代たちまち、征夷大将軍に就任とは、まことにめでたい事である。

昨今(さっこん)、幕府においては、「自分以上に将軍家に忠功ある者は、この世にいないのでは」と、肩肘(かたひじ)振るって鼻高々の者が多い中に、

佐々木秀詮 (内心)イェーイ、やったぜぇ! このチョウチョもハラハラの晴れ舞台に、なんとまぁ、宣旨の受領役を担当だなんて・・・イヤァーもう、シッチャカメッチャカ、気分い(良)いーッ!

佐々木秀詮の面目躍如、この上無しである。

いったいなぜ、彼がこのように、はぶりが良くなったのかといえば、それはなんといっても、祖父・佐々木道誉(ささきどうよ)の存在を抜きにしては、語れない。

去る元弘(げんこう)年間の始め、佐々木道誉は、あの、鎌倉幕府執権(かまくらばくふしっけん)・北条高時(ほうじょうたかとき)の悪逆無道(あくぎゃくむどう)の振舞いを見て、「北条家の武運も、ついに傾きはじめた」と判断したのであろうか、足利尊氏に対して、しきりに勧めた、

佐々木道誉 足利殿、北条氏を討って、天下を取りなさい!

その言葉通りに、鎌倉幕府の首都圏支配拠点である六波羅庁(ろくはらちょう)は、足利尊氏によって滅ぼされたのであった。(注2)

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(訳者注2)9-3 ~ 9-7 参照。
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それからなおも、日本国中、乱れに乱れて20余年間、有力な武士たちは、いったん吉野朝側に帰参したかと思えば、はたまた足利幕府側に下り、足利直義(ただよし)の陣営に属していたかと思えば、今度は足利直冬(ただふゆ)の味方をし・・・転変極めてめまぐるしく、一瞬たりとも、腰が定まったためしがなかった。(注3)

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(訳者注3)原文では、「然(しかれ)共(ども)四海(しかい)尚(なお)乱れて廿余年、其間(そのかん)に名を高くせし武士共、宮方に参らば又将軍方に降り、高倉禅門に属するかと見れば、右兵衛佐直冬に興力(よりき)し、身を一偏に決せず。」。

あちらこちらと帰趨(きすう)を転変する、腰の定まらない武士たちの態度を批判しようという趣旨であるならば、「高倉禅門(足利直義)に属するかと見れば、右兵衛佐直冬(足利直冬)に興力(よりき)し」の記述箇所は、少々弱いのではないか、足利直義と足利直冬は、同一陣営に属するから。故にここは、「足利直義の陣営に属していたかと思えば、今度は足利尊氏の味方をし」、あるいは、「足利直義の陣営に属していたかと思えば、今度は高師直の味方をし」というような記述の方が、よかったのではと思う。
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しかし、佐々木道誉は、終始一貫して、尊氏を支持し続けてきた。

その間に、彼の親族の大半が、戦死してしまっていた。

中でも、秀詮の父・秀綱(ひでつな)の最期は、特筆に値する。

去る京都朝年号・文和(ぶんわ)2年(1353)6月、山名時氏(やまなときうじ)の謀反(むほん)により、後光厳天皇(ごこうごんてんのう)は京都を出て、北陸地方への逃避行を余儀なくされた。(注4)

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(訳者注4)原文では、「主上帝都を去(さら)せ御座(おわしま)して、越路(こしじ)の雲に迷わせ給ふ。」。

この箇所は、太平記作者の記述ミスである。天皇は北陸方面ではなく、美濃へ移動した。32-4 参照。
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この時、新田(にった)氏所属の堀口貞祐(ほりぐちさだすけ)は、山名の謀反に乗じて、堅田浦(かたたうら:滋賀県・大津市)で、天皇一行を襲った。それに対して、佐々木秀綱は反撃にうって出て命を捨て、その間に、天皇は落ち延びて難を逃れた。(注5)

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(訳者注5)32-4 参照。
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そのような過去の忠功の蓄積があったが故に、「あの時に、天皇陛下が難を逃れられたのは、佐々木秀綱の奮戦あってこそ。この点において、彼の武功は、他に抜きんでている。故に、今回の将軍任命宣旨の受領役は、彼の息子・秀詮に」と、いう事になったのである。

この、「将軍任命・宣旨を、武士階級に所属する者が受領する」という形式は、おそらく、いにしえの建久(けんきゅう)年間、源頼朝(みなもとのよりとも)の将軍就任の時に、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう:神奈川県・鎌倉市)において、三浦義澄(みうらよしずみ)が宣旨を受領した、あの事跡にならって、企画されたものと思われる。

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