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学校は、何をするところか?

こんにちは
今日も読書してからのアウトプットです。

前回の
「勉強するのは何のため?」
が久々に沢山のスキを頂きました。
いつもありがとうございます。

しかし、あんまり読まれることを想定していないので、読みにくいと思います。めちゃくちゃ笑
それでも付き合ってくれれば幸いです。

よかったらスキやシェアしていただけると喜びます。

では本題に。
今回も、熊本大学教授の苫野先生が関係した本。「学校は、何をするところか?」
前回の記事同様、超要約と、適当に感想を書いていきます。〈〉で感想書こうかな

第1章 学校は何をするところか

『民主主義において必要なのは、「市民教育」』
ここでいう市民とは、社会の担い手としての市民であり、自由なそしてお互いを認め合える市民を育てるということが、公教育の1番の土台である。
〈前回の勉強するのは何のため?である、「自由の相互承認のことですね!〉

ちゃんと勉強して、その選抜で生き残れるような学力を身につけることがゴールという教育しかせれてない中では、明るい崩壊が起こってしまう(田舎で中学まで固定メンツだった子たちが、高校入って集団に馴染めなくなる、そうした子の退学率は2割ほど高い)
1人の子供の人生を見通して、どんな人間を育てるか、その子たちがどんな社会を継承していくべきかという視点が大事。
〈机の上の勉強だけではなく、他と違う生徒たちを受け入れたり、排除しないというような心意気がなければ、将来同じようなことが起きてしまう。他を受け入れることを恐れない。ってことなのかな〉

自由の相互承認にために、
「学びの個別化・共同化・プロジェクト化の融合」
を行うことで実質化されるのではないか。
〈現在では、先生が生徒に知識をプレゼントするという形態が主流であり、探求したり考える力が育まれているのか。〉
興味関心、学びの進度、自分に合った学び方も、教材もいつどこで誰と学び合うのがいいのかも、それぞれの子供が違う中で
統一化の授業ばかりであるのは、果たしていいのだろうか。

そもそも!!!
教員養成の現場(大学)でも、教員を志す学生たちの学びでさえ、「主体的・対話的で深い学び」担っていないことが多い。講義自体も、教授の一斉授業が中心で、言われたことを言われた通りに学ぶだけのものが多い。
だから、学生たちはいつまでも受け身の学びしか知らない。
〈同じこと考えてた。自分ができないことを指導することは難しい。そもそも、主体的・対話的で深い学びとはなんなのか。それすら考える余地すらなく、大学の講義でそれこそ主体的に考えることなく教員になっていく。そう言った先生は、試行錯誤しながらも、授業に取り組むが、どう考えても、教員養成の段階でそこを深く学び考え、実践するのが1番効率がいい。〉

「褒め言葉のシャワー」
・小さな小さな積み重ねの中でお互いに小さな丸を付け合い、お互いの多面的なところを認め合い、「違うんだけど」といいつつも、それがお互いを自由にさせていく。こと
子供たちが人間関係の濃い薄いを乗り越えコミュニケーションができる。折り合いをつけることができる機会や仕掛けを教師は作るべき。
〈苦手な人とは、無理して仲良くなる必要はない。相手の存在は認めるけど、仲良くならなくてもいいかな。的な〉
そうすると、子供同士の関係は良くなり、生活や活動が楽しくなったら学力も上がるのではないかと考える。
その相関関係があるかもしれない。
また、たくさんほめられて、良い意味で厳しく叱られた子供の学力は高い傾向にある。というデータがある。
〈まあ言葉の定義微妙やけん、何を基準にって考えたらわけわからんけど、とりま褒めて、ダメなことはダメっていうのは大事っていうのはわかる〉

先生は子供たちを
「信頼して、任せて、支える」という経験を蓄積させる。
子供たちが話し合いをしている時、
自分たちが口出ししてまとめたりすることを我慢して、子供が結論に到達するのを見守るということ。その方が、成長するかもしれない。放任ではなく、時にはリードしたり、「共に学んだり、補助者としての教師」

〈自分も塾で、考えてる時に、ついヒントあげちゃったりするんやけど、
こっちから一方的にプレゼントするってよりは、何がわからんかとか、ここで詰まってるってのをきいて、
「一緒に考える」
「とりあえず最後までやってみて、ダメだったら一緒にやってみる」
って言うのがいいのかな。
何がわからないのかを子供達に自覚させる
それに自分はヒントを作ったり
一緒に考えてみたい〉
早速実践していこ。

「道徳の教科化を考える」
道徳は哲学的な視点からそもそも公教育ですべきでない。
道徳、モラルは「任意の多様性を持つ」
つまり、それぞれのモラルを持っている。
〈ゴールはいくつかあるのに一つに統一しようとしている〉

そして、どれが優位か、正しいかなんて計れない。
そして、モラルは戦いを引き起こす。
〈現在のコロナ騒動でもそう、外出しなければお金を稼げず露頭に迷う。外出したらなんか言われると言うように、正義はないんだよね、。。〉

正義の人、道徳の人は一見正しい人に見えるのですが、道徳的になればなるほど「騎士」になってしまう。そして、異なる道徳を持つ人を攻撃する。
〈自由の侵害やね〉

西洋哲学では
「どんなモラルの持ち主も、互いに自由で平和に生きることができるルール社会作ろう」
これが市民社会。さらに、
どんなモラルや信仰の持ち主も、他者の自由を侵害しない限り認め合う。そして、みんなが納得できるルールを作り合う。
そのための根本は教育
〈→学校や教育、勉強が必要。〉

「私は◯◯がたいじ」
「ワイは△△が大事」
と視聴するだけでは先がない
〈共存していない〉
「考え議論する道徳」
に、「ルールを作り合う」が必要。

「ワイはこれを選ぶなあ」
という行動選択能力が必要。
選択する能力を高めることに道徳の方と目的がある。
〈ディスカッションしたうえで、自分ならどうするか?第三の意見出れば最高〉

〈流されるんでなくて、ワイにはワイの意見があるとゆーことやね。いじめもさ、あいつキモくね?から集団を作り始める。嫌うなら一人で嫌えボケ〉

↑ここは、少し整理が必要だったので読んでる時に整理しました。

多様性が生み出す豊かな学び
「個別化・共同化・プロジェクト化の融合」の中で、融合を忘れてはいけない。
個別化すると、孤立してしまう。
個別化には必ず共同化が融合している必要があり、必要に応じて人とつながり学ぶことができるということ。
〈個性伸ばすのは素晴らしいけど、個性が行き過ぎると、話しかけにくかったりするよね。
例えば、音楽大好きすぎて、ずっと音楽の話ばっかりしかしない人だと、音楽にあまり興味ない人からしたら絡みにくいよね〉
そうすれば、困ったら人の力を借りる
逆に人を助けることもできる
ということがわかる。

突っ込んだときに、即答できるような力
「即興力」が大事じゃね?

〈これはまじで思う。
なんか色々考えてますよ、野望ありますよ。」
って言ってる人も、
「それどゆこと?何するん?」
って聞いたら
「えっ、いや...」
って口籠ったりする。
自分の中でビジョンを明確化、
言葉と行動を一致させる、もしくはそれにトライすることが大事やと思う。
本当にそれがしたいなら、答えられるはずやけんね。動いてる自分が好きみたいなやつには無理な話やと思うけど〉

多様であることが当たり前の環境だと意見を普通に言える。
〈同じ人たちが集まってるところで、ちょっと違うこと言うの勇気あるよね。
例えば、みんな、英語のワークちゃんと持ってきてるのに、自分だけ忘れてるみたいな〉

逆に
多様性のないところで議論しても
「いいね、いいね、」
と共感ごっこになって何の意味もない

〈あーーー!たしかに、教育系イベント行くとそれが多いからあんまおもんないんよね笑
同じ人たち集めても気休めにしかならんってことか、もっといろんなとこ行って、論破されよーや!そして第三の意見作るか!〉

自由とその相互承認感度を育む上で重要なこと三つ。
1自己承認
2他者承認
3他者からの承認
自己承認がないと人を認められない。
〈自分って意外とできる!クラスに居場所ある!みたいに思うなら、あいつ嫌いやけどまあ普通にクラスの一員やし、無視とかするのいかんなあ。みたいな。
逆に自分に居場所がないと思うなら、は?あいつもうぜーし、ガン無視すっしかねえやん
みたいになりそう(適当)〉

そして
子供たちが互いに褒め合う機会を作り出す実践は必要。
〈上から下、下から上からの褒めはあるけど
対等な者同士の承認は少ないしね〉

先生が答え持ってて、子供がそれを取りに行く
のではなく、
自分たちで探求し、こたえをじぶんたちでみつけていく、作っていくことが必要
そのための、共同探求者、探求支援者が我々であると。
〈結局、答えが来るのを待つ生徒がいたり、受動的な姿勢が多い気がする。わからないから、わからん、無理じゃなくて、自分で調べたり、何がわからんかを先生に説明できるようになる。そうするだけで自分らは探究支援者としての手助けができる〉

ってな感じ!疲れた!もうおわる!
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