古代エジプトからの信託[2024-vol.2]
これは忘れないようにただただ降りてきたものを書き留めた本当にただのメモなのですが、後から読み返した時の韻とかリズムに作家的に面白さを感じてそのまま公開して見ました。仕舞い込んでいたあの凄まじい妖力を持つカードを再び深夜に解き放ち、以前学んだ物理的な情報やスプレッドの方法などを一切合切忘れているにも関わらず、この5年で「こういった”神託の道具”というものはこう扱うものだ」という感じ、何か本能的に”わかる”という感じがあってこのカードを相当本能的に読み解けるようになっていたことがわかった。つまりあの不思議な箱と一緒に生きる5年でわたしには言葉にならないものの受け取り能力はだいぶ成長したらしい。特にこうなのかな? これって勝手な解釈ではない?? という不安が「手引書になくともこの感覚があってることだけは間違いない」という確信に変わっているところも成長である。土台世界は自身の心の写し鏡の水晶玉だから、もはや事実すら本当は意味がなくて本人が「そう思い込み」前に向かうきっかけになるだけでも神託には意味がある。
皆さんにも「なんとなくこれは習わずともできた」ようなことがあると思うのだが、わたしで言うと最初はちんぷんかんぷんであったので努力はかなりしたのだけど階段を上がるようにというよりはある日突然視界が拓けるように「わかる」ようになったものの例に英語とカメラの扱い(および簡単な映像編集)がある。
一眼レフを使いこなせたらそれはすごいのだが、そもそも肝心なのは画角であると、昔からどこか本能的にわかっていた。こういった感覚は「腑に落ちる」という言語でしか現せないように、他者に可視化して見せられるものではないから他人から見ればわたしは手引書に書かれてもいない引き方をして手引書に書かれてもいない解釈をする誤読の人かもしれないわけだ。
ただどの道、やってくる時それはやってくる。
エッティラの研究は2019年に「店」という人生の大転機によって頓挫したわけだけど、なぜか今は自身がそれをしたいと思っていたわけでもないのにその扉の向こうから誰かが「ちょっと来て」とわたしを呼ぶ。
それはこちらからすると非常に妙な気がすることでもあるが、わたしたちの見えない「お陰様」の世界の流れにもおそらく人間界と同じような人事があって、
それがこう「急転直下な辞令」のように思うことがあるのだけれど、
その基準がなんていうか、今までは「冷や水をかぶせられたように」唐突に感じていたけれど、もしかして自分が他意なく他者に魔法や魔術をかけた時だったかもしれないなと、先日の神託で理解した。
「他者に魔法をかける」なんていうと禍々しいのだけど実は通常の対人関係で案外多くの人がふとやってしまっている「そうなるように仕向ける」や「あの人がこうなればいいのに」という行為もその念は他者に向いていて、言葉を変えれば「真夏の夜の夢」のように魔法あるいは呪いの粉を、相手にふりかけていることなのかもしれない。つまり魔法を自分にかけると言うのは、
「あの人がわたしを好きになりますように」が
「あの人が好きになるわたしになりますように」に変わるだけで、
実は些細なことなんだけどエネルギーや魔術の方向性としては放たれる光がどちらに当たるかに関係する大事件なのだろうと思った。
来月にはユリコウ夫人のYoutubeに出演する。エティヤのことを話して欲しいと頼まれている。ユリコウ夫人の実名をまだ明かせないがこれは大きな展開で、
2019年からざっと止まってゆるゆる復活を少しずつしていたこのnoteにとってもようやく喪が明ような嬉しい知らせであるが、しかしその前にちゃんと「調子こいて魔法使い気取ると監獄に入って一文無しになるぞ」と強めに釘を刺してくれた古代エジプトの神託は、亡くなった強気の祖母を思い出すほどの愛の叱咤でございます。笑。
今年はいよいよ、このnoteももう少し活発に動かせるんではないかという気がしています。それではラララ♩(久しぶりに言ってみる)
またすぐにお会いしましょう。
嬉しいです ( ´ ▽ ` )ノ