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シュライン#17. 穴八幡宮

こんにちは。シュライン全然更新できてない(涙)
9月末の伊勢神宮からのひと流れを必ず2月中までに一気に更新します。
そんな中で当然新しい流れもあるので、今日は2019年になってからというか先日満月の日に行った穴八幡宮。

穴八幡宮(あなはちまんぐう)は、東京都新宿区西早稲田二丁目の市街地に鎮座している神社。蟲封じのほか、商売繁盛や出世、開運に利益があるとされている。旧称は高田八幡宮。(By Wikipedia)

実はこの神社、金銀融通の「一陽来復守」を冬至から節分までに配布しており「お金繰りがよくなる」ということで大変な人気があります。

でもそもそも一陽来復というのは、冬至の記事にも書きましたが、冬至を越えて1日1日陽の長さが長くなるように少しづつ人生がよくなっていくという意味。わたしがこの言葉を初めて目にしたのは病院の待合室でした。

実はわたしこの神社を2015年に参拝した時に、とても嫌な思いをしました。
その時、父がある手術を控えていたので、この神宮が虫封じや、一陽来復の神社だと聞き「一陽来復」という言葉のお守りは「療養」にも意味があるだろうと思い参拝しました。金融通の神社とは聞いていたけれど、そんなにも金運のみとも思っていなかった。
当時わたしはラララ的なことを学び始めたばかりだったので、この神社が冬至から節分までしかそれを配っていないことも知らなくって、9月にお守りありますか?と行ってしまったわけなんです。

街中の神社というのは神楽坂の赤城神社もそうですけど、どうしてもごみごみしたり、人の雑念みたいなモノで溢れていたりギラギラしていたりして、八百万(やおろず)の神を感じるのは難しい。なのでそういった神宮が少し苦手です。その日も多少混み合っていて、神主さんはすごくすごく若い男の人でした。

「うちは金回りしかやってないですよ」

目も合わさずピシャリと言い放たれたその出来事が、なんだか父の手術も大変なモノになるという予兆にも思えて、すごく心がひしゃげて、泣きたいような気持ちになりました。同時に強い怒りも湧きました。
金回りしかやらない神社なんてあるんかい! てか一陽来復の言葉の本来の意味お前知っている!? 勉強不足じゃ!(怒)
けれど怒りはすべてをぐちゃぐちゃにしてしまうから。ダメ。口に出してキレたら、何もかもがダメ。自分に言いきかせる。
すぐそばにこの木があって、この木にとても支えられたように思います。わたしはこの木にご挨拶をして、その日帰路につきました。

あれから4年。何があってももう穴八幡宮には行かない!って決めていました。親友が「一陽来復もらってこようか」と訊いてくれた時も、大丈夫、と言いました。けれどその日たまたま、引っ越した自分の家の氏神様を調べていて、今の自分の家の氏神様は穴八幡宮であることを知りました。
ずっと赤城神社だと思っていたけどそうじゃなかったのです。

(えええええ〜〜〜〜〜)

最初そう思いました。気が重いな、いやだなあ、の意味です。

でも次の瞬間、跳ね上がる思いで”あること”を思い出したのです。

それは、わたし、お父さんの手術の祈願だけをして、あれから一度もお礼をしていなかった、というものでした。
怒りに駆られて恩知らずな、願いを投げっぱなしの人間で4年生きてきていたんだ。恥ずかしい。そう思い、すぐ支度をして家を出ました。
父の手術はことなきを得、今は健康を取り戻しています。

本堂に参拝し、不義理を詫びます。
そしてもちろん、わたしを救ってくれたあの巨木に。

たくさんの人間が、求めたり、授かったり、与えられることに必死で、
そしていろんなことを、喉元すぎたからと忘れていく、その様を悲しいよね、って思ってきた自分がいちばん悲しい人間でした。嫌な思いをした記憶だけを留めて、願ったことが叶ったら、もうこの場所を忘れ去って生きていました。すみません。

なんて人間て愚かなのかしら。
その日、本当にそう思いました。

夢だの野心だのラララだの語る前に、わたしがこういうことをきちっとできないとね。反省。

巨木にお礼をして帰る時、ふと、行きしなに通って気になっていた露店を覗いてみました。

神社とかに出ている屋台や露店って勢いありますよね。わたし、その勢いに押されて怖いって思ってしまうタイプなんです。でもここには、そういう「買いますかい、買わないんですかい、お買いにならないんですかい」
みたいな空気が一切なくって、おばさまが一人、ホワン、と奥に立っておられました。「これはなんですか」と聞くと、阿佐ヶ谷の熊野神社でご祈祷してもらったお塩が入っているとのこと。

あれ? よくみると全部すこしづつデザイン違う?

聞いてみるとこれ、全部手作り。おばさまのお姉さんがこの時期に合わせてまる1年、コツコツ手作りなさるのだそう。
この写真は「フクロウ」しかいませんが、モチーフは十数種類あって、
ダルマとかカエルとか、日本のラッキーモチーフから、船の碇やアライグマ、スプーンなど西洋のモチーフまで。
じっと眺めていると優しくおばさんが話しかけてくれる。

「(狸をみてると)それ何かわかる?」
「タヌキですよね、うーん」
「それはね他を抜く。他抜き。だからスポーツ選手とか勝負がある人とかね」「へええ」
「鯉は?」
「鯉は来い!ですよね、あと恋?」
「そうそう、だから若い女の子に売れたりする」
「蝶は何かわかる?」「えっ、なんだろう」
「さなぎから蝶になるでしょう、だから変化、変容」
「なるほど!」

こんなやり取りを重ねながら、選んでいきました。
ちなみに値段は、たったの300円。こんなに手がかかって丁寧に作っているのに、その値段の感じもとても真摯で、わたし思わず、
「これには魔法が結んでありますね。作った人の手が加わって魔法になってますね」と言いました。

でも本当にそうだと思う。モノに魂が宿るというのは、そういうことなのだと思うのです。

これはシュラインの伊勢神宮と繋がるのですが、下宮の多賀の宮で、カタツムリを見かけたことがとても印象的だったので、わたしはカタツムリにしました。

「カタツムリは再生、復活。わたし去年それにしてたよ」
おばさんが言いました。
「そうなんですね!」
「うん。去年、癌をやったからね。抗がん剤とかいろいろあったから、カタツムリにして、復活。ほらね復活したよ」

おばさんはカラカラ笑って言いました、うん、だからカタツムリ、おすすめ。

なんだろう、このおばさまとお会いしたことで、
穴八幡宮はとても特別な場所になりました。
「来年またここで会いましょうね」

そう言って別れました。

わたし、神と会うって、こういうことなんだろうな、って時々思うのです。
今日のおばさまとの出会いも、神様の一つのはからいのように思えて。
(こんなに不義理にしてきたのに。ありがとうございます)
そんな気持ち。

その日はスーパーウルフムーンでした。
東の空に突如ぽん、と浮かび上がる、はっさくみたいなお月様。

穴八幡宮。わたしの東京の氏神様。

人生はかくありき。
思い立ってもう一度真摯な気持ちで行ったことで、
嫌な記憶の場所が、かけがえのない場所に変わる。
でもそれは待っているだけじゃ変わらないもので。

やっぱり人生には、ピュアなアクションが、必要なのである。

純粋に丸裸でそこに立つというようなアクションが。

それではla la la ♪ la la la シュライン☆

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