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la la la 28.巨大なひとつの生き物の上を歩く②(By 羽黒山”現世”の旅)シュライン#3

こんにちは。改めて、現世の旅”羽黒山”の続き。
お茶屋さんではお餅とお抹茶で体を癒し、そこで次の日に向けての情報をもらいました。そこでわかったのは、次の日に行くつもりの月山(がっさん)湯殿山(ゆどのさん)、月山はまだ雪があるし、ふつうの運動靴で登るのは難しい、ハードな登山だよ、ということと、湯殿山には、平日は全くバスが出ていない。行くこともできなければ、帰りどうやって駅まで戻る!?
というお話でした。わたしは基本的に”強い意思”を持ってここに来ていますので、特にそれを聞いても「ががん!」とはならなかった、それはまあなんとか、宿でゆっくり考えようと思っていて、それより雰囲気が「千秋」に似たお茶屋のおかみさんが「あんたタチ、まさかその格好で月山登るつもりじゃないよね!?」と(山やで!雪あるで!滑ったら谷やで!)と伝えながらも「湯殿山行きたいんだよねぇ」と一生懸命高速バスなどを調べてくれる様を見ながら「在るべき人のかたちをしている人だなあ」
と感動していました。

「在るべき人のかたち」って、簡単にいうと”自然体”ってことなのですが、
都会ではいろいろなことが”自然”ではないので、人は自然体でいることが難しい、自然体でいると傷つくことも多いので、色んな形で鎧を着ている人が多いと思います。

例えば「飲食店」一つで考えても、お金を払ってる、お金をもらってる、
商売なんだから、とか、いろんなことをひっくるめた上に”善意”が乗っているので、お店で優しくかゆいとこに手の届くサービスをしてもらっても、
「いい人だね」というよりは「あの人うまいね」と言ったり、こちらも転がされてしまわないように気をつけたり、というのが、まま都会では多いと思うのです。なんていうのかなあ、そういう濁り、汚れ、疲れ(憑かれ)というのを、2446段の石段を上がりながら少しづつ落としていく感じが本当にありました。そして中腹のお茶屋で、まさに払う払われている関係なく人として接し、真心から出されるお抹茶に癒しを頂き、ふつうに”ありがとう”と思い、その感じを確かめるような具合です。

瞬間のエネルギー交換だけがそこにあって、対価のない世界。というか対価ありきで逆説的に物事が進む、のではない、世界。
この”対価ありきで逆説的に物事が進む”を頭に入れて、逆説的に進んでいる物事を捉えるように生きることは人本来のスタイルではないので、ものすごくエネルギーを消耗します。けれども街と社会の中で生きるわたしたちは、ほぼそのことにエネルギーを奪われているようにも思います。
そういう逆算から解き放たれる2446段。

東京で横断歩道渡るときに向こうからくる人に「こんにちは」とか言ったらびっくりして引かれるけど、この石段では、当たり前にすれ違うときに皆が「こんにちは」と言ったり「まだ先長いですか?」「長いですよ〜!」と話したりしながらすれ違う。
そんな時、人はまず ”ここでは” という形で鎧をはずして何か温かいものを交換している。そんな時に風が吹いたり虫が鳴いたりして、ふと「人間というのは本来これくらいシンプルなものではないか」と思うのだと思うのです。思う、という感じではなくても、
「ふぁ〜あ」といういい気分のため息が出るような感じ。

2446段、時間にしてゆっくり行くと1時間〜1時間半くらいの時間をかけ、肉体は疲れて行くけれど、魂は洗われてゆく。
風に木々の葉がそよぐと、その木の葉たちがわたしたちの肉体の外側のエーテル体の曇りや澱みを祓い拭っていってくれるようなそんな感じ。やはり何かを受けとるためにはまず「祓い清める」ことが大切なのだとつくづく思います。だからこそまずは羽黒山なのでしょうね。荘厳な自然でありながらこう、地に足が着いた、浮世離れしていない「ドッシリ」としたムードがあります。山に向かってドッシリしていますね、と言うのもとてもおこがましい話ですが、生き物でいうと亀のような、そう亀のような、そんな感じ。
わたしたちは巨大な一つの生き物、巨大な一つの命の上を歩いている。

この山が荘厳で神聖でありながらとても強く「この世感」がある、現世であることが、橋渡し、または入り口としてとても大切なんだろうなあと思います。テレビ番組「旅猿」ではやはり羽黒山を放送していました。
そうだろな、と思います。月山や湯殿山の肝心な部分て、テレビの波動とフィットしない、だからエンターテイメント的な取れ高が撮れない。
当然ですよね、スピリットは”インターナル(internalー内なる部分ー)”にあって、内なる部分は秘めたる部分でもあり、公開(放送)という状態にフィットしない。なので、やっぱりシンプルでストレートにでも伝わる、羽黒山なのだろうと思います。
いろんな意味でこの羽黒山の担っている役目は大きい。

先ほどエーテル体と書きましたが、エーテルは人の体の外側に在る「霊的質料」と言われるもので、医学の世界でも使われている言葉です。一般的にはいわゆる「オーラ」とか呼ばれたりもするものですが、わたしは単純に『じゅん菜(さい)』的なものをイメージしていて、
人がああいうジュレっぽいものに、くるまれているイメージがあります。
(こんな感じ⇩)


そのエーテル体の部分が基本的にはいろいろな「世界」「社会」と接している部分なので、そこを通していろんなものが体内、脳内、心、魂に入ってくるとした場合、例えが悪いかもしれないけど、iPhoneカバーのようなもので、一番外にあるがゆえに、汚れたり曇ったり、ダメージを受けたりしやすいと思うのです。なのにエーテル体は目に見えない。手が汚れたら気づいて洗いますが、エーテルがくすんでも、見えない。見えないまま、体や心がどんどん憑かれ(疲れて)ていく。

わたしたちは、羽黒山という巨大な生き物の上を行きながら、
このエーテルの洗濯(浄化)をまず、しているのだろうなと思いました。
じゅん菜でいえば、ぷるぷるとした潤いある透明な状態に。
そうして人が人本来のきれいな姿となって、湯殿山や月山での「受け取り」や「手放し」の準備をするのではないか、それがこの羽黒山を「現世の旅」と呼ぶゆえんなのではないかと思いました。

写真だけでもとてもパワーがあると思うのでいっぱい載せます。
眺めているとすこしは遠隔でエーテルのくすみに効くと思います。どうぞ!

そうこうしているうちに山頂の鳥居が見えてきました。
(このあたりはもう体力の限界・・・・)
そして体力の限界を感じたわたしが鳥居を前にひょい、と横をみると、
なんだかとても惹かれる場所があったので、その場所を載せて今日はおしまいにします。現世現世と言い続けた羽黒山ですが、わたしはこの場所だけはどこか時空のポケットのような感じがして、
ひとりしばらく、佇んで、世界の声に耳を澄ましてみました。
けれど声は聞こえなかった。そこにはただただ、世界があるだけ。
木々の間から西日が差し込んで、地面が金色の絨毯のように光っていた。
うまく撮れていないのだけど、
それはとても美しく、とても、尊かった。

金色の西日、風、木々、虫の羽音、草の匂い、
そして、静寂。

それでは、らるらるらん♪
この旅は[la la la 29]へと続きます♪

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<ラム子より不器用さんたちへ>
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