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仏滅の迎え灯[2023-vol.1]

「大切なものだけ しっかりぎゅっと握っていなさい、
あとはひとりでに落ちてゆくから」

声が聞こえるとき、それはあたかも自身の空想に感じる。
声が聞こえたように空想し、自身でその欲しい言葉を生み出したのだろうかと。

でも、たぶん、そうではないのだと思う。

多分、呼ばれて来た。その言葉を聞くために。
神社にもそれがあるように寺にもそれがあるのだろう。

元旦の増上寺、からの1月の巳の日の不忍池辯天堂からの[Be with]、そして6月の修禅寺からの7月17日の迎え盆。わかっている。今、神ではなく仏が、2023年の我々を支え、我々も沈みゆくものにメンションする時なのだ。
同時に「沈みゆくもの」と「役割が終わったもの」を識別しなくてはならずそれが難しい。断捨離をする時も「死ぬるもの」と「死んでしまっているもの」の区別が難しい。「棄ておかれた」けれどまだ目は死んでいないモノと、もうここにいるのも限界だから「どうか弔ってくれ」というモノは似ているけど完全に違って、抜け殻と魂に分けて考える行為が必要なわけだけど(つまり殻が死にかけていても魂が生きていれば蘇生する)それを識別する審美眼が自身にあるのだろうかと思うと、冷蔵庫の中の野菜一つとってもどう対応して良いか悩んでしまう。
沈みゆくものに焦点しなくてはいけないが同時に「死んでしまっているもの」をそのままにしておくととても危険、それが2023年今年なのだ。
なぜか。脱け殻を間違って保管するとそこに自分かもしくは「魔」が、
入ることになるから。

しかしそれらの日々の識別、そしてその識別を促すものすごい速さの「今」
昨日新しかったものが今日はもう死んでしまっている。
識別するのが恐ろしい。

(あまりにもすごいスピードでいろんなものが淘汰されていて、その淘汰の中に失いたくないものまで混ざっていきそうで怖いのですが)

そんなことを思いながら池に浮かぶ篝火を眺めていた時に声はふい、と入ってきたら、やっぱり誰かが教えてくれたのだろう。もちろんタイムラインを超えたいつかの時間軸から、わたし自身が教えたのかもしれない。

仏滅に盆を迎える不忍池と辯天堂。

2018年からこのマガジンを書いているけど、
去年に1人、今年に1人と友人を亡くし、なんだか圧倒的にいろんなことが「わかって」きたのだけど、その分、その"気づき"をどう書いて良いのかわからず、
アドバイスみたいに書くのもちょっと違う感じがすごくしてきたので、
自分が感じた「感覚の共有」「モールスの開示」という感じが適切なのだろうと感じていたのだが、なかなかタイミングが来なかった。

(とりあえず4月に降りてきたものはさっきプロフに書きました)

わたしに降りてきたメッセージはわたしのためのもので、あなたには不適切かもしれない。けれどもたまたまいまこのページを開いてこの言葉に出くわしたあなたには、きっと必然の偶然なのかもしれない、今日わたしが、数日そうしたくてたまらなかった不忍池の蓮を、よくやく観に行った夜の7時が儀式の時間で、お経に混ざってこの声を聞いた偶然と同じように。

迎火は言った。

「大切なものだけをしっかりぎゅっと握っていなさい、
あとはひとりでに落ちてゆくから」

今日は新月。大切なものだけをぎゅっと手離さず漆黒に身を委ね、
今から赤子のように眠る。どんなことが起きても世界と繋がっていれば、
臍の緒がわたしを切り捨てることはないし、
臍の緒を通してそれは、自分に自分を教えてくれる。


嬉しいです ( ´ ▽ ` )ノ