過去からの告発

 あれから九年の時間が経った、もう誰も俺の事を覚えている人間なんていないだろう。
 ようやくこんな生活からもおさらば出来るだろうか。俺はそう思うと酒でも飲んでしまいたい気持ちになってしまう。しかし、今ここで酒でも飲んでうっかり過去の事を口を滑らせてしまっては元も子もない。
「後もう少しだ。そうすればもっとましな生活をする事もできるだろう……」
 とにかく、今はもっとも慎重に行かなくてはいけない、後半年浮足立つ事も無く、今まで通り堅実に生きていこう、それに半年後には美代と結婚し、俺は美代の姓である『田辺』になる。そうすればもうこんな生活からは……
 美代はこんな俺に寄り添って、支えてくれた、その美代に報いる為にも、俺はとにかく後少しの間大人しく過ごそう。俺は隣で眠る美代の顔を見ながらそう心に誓った。

 俺の今の仕事は下らない仕事だ、もうすぐ四〇歳を迎えようとしているが、居酒屋のアルバイトで、年下の店長にはいつも説教をされながら仕事をしている。
 しかし、こんなバイトも後少しでやめて、もっと違う仕事をするつもりだ。
 あの事件以降こんな仕事しか俺は出来なかったが、後少しすれば前にしていた仕事に戻ろう。そうすればもっと金にもなって美代に楽をさせてやることもできるだろう、そうすれば美代との結婚もスムーズに進むはずだ。
 四〇前でこんな居酒屋のバイトをやっているような奴に娘を取られるのはそりゃ、どんな親だって心配だし反対もするだろう。俺が同じ立場だったもちろん反対する。でも、俺はこんな仕事で人生を終わらせるような男じゃない、その事は俺自身が一番よく知っている。
 おっと、今こんな生活を送っているのは、俺がそういう風に自信過剰に生きていたからという事もあるんだろう。もっと堅実に生きていかなくては、もう九年前の失敗を繰り返さない為にも。
 それにもうあの時みたいな幸運は無いだろうしな。いや、あの時の事はもう忘れよう。もう俺はあの時の俺ではなく、あの時俺は死んだ、そして今は生まれ変わった人生なのだから。
 
 いつもの通り夜中に居酒屋の仕事が終わり、家に帰る。
 家では遅い時間にも関わらず美代は必ず起きて待っていてくれる。
「お帰りなさい。お疲れ様」
「ああ、ただいま」
「ご飯食べた? お腹すいてない?」
「ああ、大丈夫まかない食べて来たから」
 俺がそう言うと美代は少し微笑む。俺はこの美代の笑顔にいつも癒されている。しかし美代にも辛い過去があった。それがどんなものなのか未だに俺には話してはくれないが、その美代の辛さを俺は少しでも癒してやりたいと思う。おれがいつも美代の笑顔に癒されているように。
「美代、明日も仕事だろ? いつも先に寝ててくれてもいいんだぞ」
 少し首を振って美代は答える。
「どうしてもまだ一人じゃ寝れなくて……」
 美代はまた昔にあった辛い事を想いだしてしまうのだろう、そしてまだその事が過去の思い出にする事も出来ずに、未だに美代の心の中に鮮明に残っているのだろう。
「だから起きて待ってるって言う訳でもないんだけどね。だって、私が仕事から帰ってくる時にはもう幹雄さん、仕事に行って会えないんだもの。一緒に住んでてもそんなすれ違ってばかりの生活なんて嫌だしね」
 美代の言葉に俺はどうしても美代を抱きしめたい衝動に駆られ、美代を強く抱きしめる。
「すまない。俺がこんな仕事しかできていなくて……」
「ううん、いいの。そんなこと気にしてないから」
「ありがとう……」
 俺はただ一言、美代にそう返す事しかできなかった。
「さあ、幹雄さん。もう寝よ」
 俺はこくりと頷き、抱きしめた美代を離す。
 時計を見るともう二時を廻っている。俺と美代はそのまま布団にもぐりこみ、お互いの体温を測るかのように体をくっ付けて眠りに落ちていく。
 そんな毎日が俺と美代の間で随分と続いている。時には喧嘩をしたりすることも有ったりするが、俺は今までの人生の中でこれほど幸せだった時はなかった無いだろうか? その幸せの時間を俺は手放す事は出来ない。いつしか俺はもう昔の俺とは違う俺になってしまっていたのだろう。
 そう、あの九年前よりも以前の俺には……
 美代も昔の事を俺には語ってくれない、もちろん俺もそれを聞く事も無かったし、美代も俺の過去の事を聞くことは無かった。それで今までお互いうまくいっていたし、これからも恐らくそうだろうと俺は思っていた。あの手紙が届くまでは……
 ある日俺が仕事から戻ってくると、美代はいつもの通りいつもの通り食卓の前に座り、俺の事を待っていてくれた。
「ただいま」
 俺がそう声を掛けるが、美代はその声も聞こえていないかのようだった。
 いつもと違う美代の様子に、俺は何か喧嘩の種になる様な事でもあったかとふと思いをめぐらせるが、何もそんな事は思い浮かばない。
「美代? どうかしたか?」
 俺は美代の向かい側に座る。
 美代は俺の事をじっと見つめ、そっと手紙を食卓の上に滑らせるように差出す。
「なんだこの手紙?」
 美代は黙ったままで手紙の方を見つめている。
 俺は差しだされた手紙を手に取りそこに書かれた宛名を見る。
 そこには俺の名前が書かれている。そして裏側を見るとそこにも俺の名前……いったいなんだこの手紙は? 俺の中でだんだんと嫌な気持ちが膨らんでくる。
 俺は引き攣った笑顔を美代に見せながら手紙の中を確認する。
「今日、私が仕事から帰ってきたら通信会社の人がきて、この手紙をあなたに渡してほしいと言って置いて行ったの。十年前にあなたが書いた手紙よ」
 俺は手紙の中を見て今までの事総てを告発された気持ちになってしまった。いや、それ以上にこの手紙の中に書かれている人物の中に『美代』を想う気持ちがここまで書かれているなんてことを予想もしなかった。
「美代……これは……」
「あなたは誰なの?」
 いつものあの俺を癒してくれる笑顔は、もはや美代の顔にはなかった。
「オレは……俺だよ」
 俺は力なく何とかその言葉を口にする事しかできなかった。
「ねえ、この手紙の書いた人誰だか知ってる?」
 力なく俺は頭を横に振る。
「私は知ってる。その人は橘幹雄。私の婚約者だった人。でもその人は九年前に私の下から姿を消した……私を置いてね」
 美代は俺に初めて自分の過去を話している。俺は美代の過去を聞いて愕然とする。まさか、あの時入れ替わった男が美代の婚約者の橘幹雄だったなんて……
「はは、ははははは……まさかね。まさか十年前からこんな手紙が届くなんてね……」
 美代の俺を追及するような眼は変わらず、俺の心の中を抉るようだ。
「あなたが『幹雄』さんを殺したの?」
 暫く俺は何も答える事が出来ず、部屋の中には重苦しい空気が漂う。
「ねえ、どうなの? あなたが『幹雄』さんを殺して、成り代わっているの?」
 美代の言葉に、俺はゆっくりと頭を振り、ようやく自分の過去を話す事を覚悟決めた。
「これだけは最初に言っておく。俺は『橘幹雄』を殺してはいない」
「じゃあ、『幹雄』さんは何処にいるの?」
「今はもうどこにもいない。『橘幹雄』はもうこの世にはね……」
「やっぱり……」
 美代は声を押し殺し嗚咽を漏らし、涙を堪え何とか声を振り絞る。
「『幹雄』さんは……あなたが、あなたが殺したんじゃなければ……どうして死んだの?」
「今からあの九年前の事をありのままに話す。聞いてくれるね?」
 力なく美代は頷く。
「俺の本当の名前は『田戸泰治』九年前まで俺はある会社の経営していた。かなり儲けていてね。それなりに金もあったんだが、徐々に経営も苦しくなってきた。実際、社員に給料も払えなくなりそうになるくらいで、銀行からの融資はもちろん、いろんなところから金を借りまくっていてね。もう会社の経営は火の車だったよ」
 美代は俯いたままだったが、黙って俺の話を聞き続けているようだ。
「そして、俺はあの九年前のあの日、もう死のうって決めたんだ。結婚もしていなかったし、親も早くに亡くした。だから、俺には何も守る物なんて一つもなかった」
俺は美代の方を少し見て、また話す。
「最後に酒でも飲もう、そして酔っぱらって気持ちよくなって、どこかのビルからでも飛び降りようって、そう考えてた。そしてたまたま入ったバーにいたんだ『橘幹雄』がね」
 『橘幹雄』の名前に美代は少し反応した様に、少し体をびくりとさせる。
「奴は楽しそうに話していたよ、二か月後には結婚するんだってね。俺は羨ましかったよ、俺の隣の男は幸せの絶頂を迎えつつあって、俺はその反対に寂しく人生の終焉を迎えようとしている。なんて不公平な人生なんだろうってね。実際思ったよ。この幸せそうな面をしている男を殺してやろうかってね」
 美代は俺の方を向き、その両目に氷のような冷たい感情を乗せて俺の方を見ている。
「さっきも言っただろ? 俺は『橘幹雄』を殺してなんかいないってね」
 美代はそれでも俺の事を冷たい目でにらみ続ける。
「話を続けよう。それから俺は『橘幹雄』の話を黙って聞き続けた。そして、奴はもう終電だって言って急いで帰って行ったんだ。よっぽど美代と結婚できるのが嬉しかったんだろうね。かなり酔っぱらってたよ。足元もおぼつかない位ね。で、その時に奴は俺の鞄を間違えて持って行ったんだ。俺にしてみればもうどうでも良かった。もう俺は明日には生きていないんだからね。そして奴が出て行ったあとしばらく飲んで、俺もようやく死ぬためにそのバーを出た。
 俺の話を黙って聞き続ける美代。相変わらず美代の眼は、冷たく俺の事をにらみ続けている。
「そしたら妙に駅の方が騒がしかった、もう俺にはどうでもいい事だったんだが、どうしても気になってしまってね。何が有ったのか見に行ったんだ。そしたら人身事故だって、若い男が回送電車にはねられて、身元も解らない位ぐちゃぐちゃな状態だって。でも俺には解ったんだ。そいつの来ていた服と、その鞄を見てね。俺は一瞬で酔いが醒めた。そいつはさっきまでバーで幸せそうに語っていた『橘幹雄』だった。警察がきて手荷物を調べた時に中に入っている免許書がちょっとだけ見えたんだが、間違いなくそれは俺の免許書だった」
「なんで……なんでその時に名乗り出なかったの?そしたら私は……今までこんな気持ちを抱えて生きてこなくてもよかったかも知れないのに。ねえ、なんで?」
 美代は俺の事を責めるが、言葉がこれ以上出てこないのか、また黙ってしまう。
「最初はそうも思った。でも、考えてみたらこれはチャンスだって思ったんだ。俺は死んだことになり、そして俺は『橘幹雄』としての人生を歩み始めれる。幸せそうだった奴には申し訳ないけど、俺はまだ生きていける。そう思ったらもうその事しか考えられなくなった。これで俺の人生はやり直しができる! また違う人生を生きていける! そう思うとそんな事を言う事なんで出来やしなかった。思惑通り次に日のニュースでは『田戸泰治』が死んだことになってたよ」
 俺がそこまで話すと美代は泣き崩れてしまう。俺はその姿を見ている事が出来ずにそっと立ち上がり、部屋を出る。
「美代、今までありがとう……」
 俺は最後にそう言うと部屋の扉を開け、外に出る。そして、あの九年前にできなかった事を今実行する為にどこか手ごろなビルを探す。
「これで終わりか……やっぱり俺の人生大したことなかったな……」
 ビルの屋上に上り、そこから見える景色を見渡す。街の明かりに照らされた街を見ると余計に寂しく感じた。
 そして屋上の外周に掛けられたフェンスをよじ登ろうとした時に妙に下が騒がしい事に気が付いた。
 赤く光る回転灯、それに野次馬。
「まさか……嘘だろ? こんな事……」

『次にニュースです。昨夜午前四時頃、ビルの屋上から飛び降り自殺が有りました。かなり死体の損傷が激しく身元は所持していた免許書から『橘幹雄』さんと判明しました……』