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2024年3月6日 『潜行三千里』を調べる③

前回、潜行ルートをなぞってみると宣言しておきながら、
今回はちょっと脱線して
辻さんが当時考えていたことを読み解いてみようと思います。
なるべく、彼の言葉を拾いながら。

2019年に改めて刊行された【完全版】の『潜行三千里』には、
「我等は何故敗けたか」という文書が収録されています。

これは、辻さんが潜伏中にGHQの監視を上手くかわしながら
親日派の中国人に頼んで、密かに日本の留守宅へ届けてもらった
6冊のノートのうちにあった一稿だそうです。

『潜行三千里』の「父の記、子のたより」にある一文に、
このことについての言及があります。

いつ帰国できるかの見当もつかず、
いつどこで死ぬかも判らない罪の身ではあるが、
子を思う心には変わりはない。
父の歩んだ四十数年の足跡を書き残し、
子供たちに父の失敗を踏ませてはならぬと考えて、
幼時の思い出から、立志、初陣、苦戦、善戦、悪闘の五巻
を書き終わったのは二十二年一月の末であった。
七十余日、四十万字を超える自叙伝であり、懺悔録であり、
家訓でもある。
王少将と同行すべき親しい趙参謀に託し、密封の上、留守宅に送った。

『潜行三千里』233p  五 遷都後の南京

辻さんから遺族の方に、
「自分の死後に開封するように」と口添えされていたため
72年間、秘蔵されていた貴重なもの
と、2019年版の『潜行三千里』には紹介されていました。

一人称が「父」になっていて、
ご子息への手紙のようなかたちで書かれていました。

一天万乗の大君を、この御苦境に立たせ奉ったものは父だ。
父のご奉公が足らずに、
父の誠心が天を動かす能わずして、
ああいかにしてこの重罪をあがなうべきか。
全身恐懼に慄え、嗚咽を禁ずることはできなかった。

「我等は何故敗けたか」

早速思いを馳せてしまいますが
個人がどれだけ辛苦を呑んでも、
結果が望ましいものにならないことはいくらでも起こり得ます。
一人の力でどうにかなるものではないのに、
すべての責任を引き受けようとするのは
それを美徳とする文化が日本にあるからでしょうか。

敵陣(新政府軍)に乗り込み、
赤誠によって江戸城無血開城に至る会談の約束を取り付けた
山岡鉄舟という方の逸話を思い出しました。

そういえば、辻さんも
陸軍の中では、仲間たちの士気を上げるのに
一役も二役も買っていたと聞きます。
「全陸軍をある程度引き摺った」ほどに。

こういうのって、
利己的な打算を建前で糊塗しながらできるものじゃないと思います。
感覚的にバレるからです。
下心が透けて見えた瞬間に、人心は離れます。

「無私の奉公」と呼べることを、
辻さんのやり方でまっすぐ実践していたからこそ
人がついて来たんじゃないか。
今までもそうやって人生を切り拓いてきたからこそ、
「大事な場面で力及ばなかった」という発想になったのでは…
と想像してしまいます。
……私見ながら。

敗戦への思い

すべては終わった。
完全な再出発だ。
八十年の伝統を誇る皇軍は遂にこの日を以てその姿を隠した。
大元帥陛下の御宸襟ごしんきんのみ煩わし、
遂にご期待に副い奉るを得ずして、瓦解した…。
御詔勅を拝してから、軍の取るべき態度についてはもはや議論は起こらなかった。
ただこの罪を如何にして御詫びすべきか、
個人としての採るべき道は人によって異なった。

「我等は何故敗けたか」

父は断然、生を選んだ。闘い抜こうと。
もちろん、父の罪は、この古疵だらけの身体を捨てて贖い得るものではない。
生まれたことが神の命であるとすれば
死もまた神に御委おまかせしよう、
生きようとて生きられるものではないが、
神からご命令があるまで、
生命を御召し上げになるまで
最後の一呼吸まで、
再建日本の努力を続けよう。
御詫びの御奉公を如何なる危難を潜ってもやろう。

「我等は何故敗けたか」

楠公なんこうは千早城の陥落に際し、死を装って後図を策された。

自利のためでさえなければ、
この生を選ぶことは天地にずるものでない。

しかしながら、腹かき切って御詫びした幾多の英霊には
心からの敬意を捧げるべきだ。

淡々として難局に処して、動じなかった浜田ひとし中将は
九月十七日英軍に武器を渡す前夜、
大国首脳部に従来の厚誼を謝した遺書を残して静かに自刃された。

「我等は何故敗けたか」

ここで名前が出た楠公(楠木正成)と、浜田中将には
それぞれ強い思い入れをお持ちだったようです。

辻さんのお墓は、ご本人の希望もあって
楠公に縁のある四條畷の戦場が一望できる場所にあります。

四條畷の戦場とは南北朝時代、室町幕府の高師直らの軍と、
南朝方の楠木正成の息子、正行まさつらが戦い、
正行が討ち死にした合戦のことだ。
辻は正成より正行を好んだが、その理由を毅さんは
「はじめから負け戦と分かっていてもやる。
 やらざるを得んからやるんだと。
 その正行が一番父は好きだったんですね」
と語っていた。

前田啓介『辻政信の真実』

また、戦後腹を切ることを選ばれた浜田中将のことは、
『潜行三千里』のなかで、たびたび言及されていました。
彼の人柄への敬意と、その不遇への惻隠が綴られています。
とても気にかけられていたのが見受けられます。

二週間前、サイゴンの総司令部に呼ばれたとき、
幕僚の話の間に現れた片鱗によると、
タイ国軍警の抜打ち的武装解除を考えているらしい。
(中略)
傷ついた身体に暗い心を抱いてバンコク北郊のドムアン飛行場に着陸した。
……とりあえず浜田参謀長の官舎で着任の挨拶をした。
東京からの到来物の塩せんべいに、冷えたビールをいただいた。

ぶらず、飾らず、信を人の腹中におくこの参謀長は、
タイ国側からも絶対の信頼を受けていたのである。…

『潜行三千里』9p 一、人と人

浜田少将が中将に進級しながらも、
方面軍に拡大されるとともに参謀副長に格下げされた。
高い人格でタイ側からも大きな信頼をかけられ、
軍の将兵から慕われていたのに、過去の経歴が足りないとでも
思われたのであろう。人の真価を見ずに、
大言壮言するものを戦場の勇者なるかのように買いかぶり、
寡黙任責の士を軽視したことは過去の人事において少なくなかった。
バンコクで最後の一兵まで戦うつもりで準備を進め、
軍司令部を複郭陣地とし籠城を決意したとき、
敢然としてバンコクと運命をともにして戦おうとしたのは、
平素見ばえしない浜田中将であった。

『潜行三千里』24p 一、人と人

華字紙に浜田中将の死が伝えられた。
英軍が進駐してから一切の渉外事項を身を以てきれいに裁き、
いよいよ明日武装解除を受けるという前夜、
副官や当番兵と最後の会食を終わり、
その寝静まるのを待って見事に割腹自刃されたのである。
遺書の一部が発表された。ことに心打たれたものは、
タイ国側首脳部に深い感謝の言葉を述べておられたことである。
この将軍は一見平凡な寡黙温和の人である。
しかしどんな事態に直面しても冷静を失わない人であり、
どんな失敗に対しても責任を回避しない人であった。
物腰柔らかい静かな態度で包まれているが、
内には燃えるような魂が深く蔵されていた。
最悪の場合、バンコクに籠城すべく陣地を準備したとき
複郭となった軍司令部に立て籠もることに
真先に同意されたのも、この将軍である。
平素大言壮語する東洋型豪傑が終戦の幕を迎えて、
ただ面子にこだわり、自ら吐いた大言の後始末に困っている中に、
浜田中将は終始淡々として平常通りの態度を変えなかった。
全タイの要人が心から将軍を信頼していたのは当然であろう。
在りし日の陸軍にも、このような器は多くはない。

『潜行三千里』61〜62p 二、死関を突破す

楠木正成の息子である正行や
浜田平中将など
辻さんが好んだ英雄たちは
それぞれの場面で“潔い死”を選んでいったけれど、
彼はそれでも自分のやるべきことをやるために
「死に優る難関を予期しつつ」も、「後図を策する」道を選んだ。
それは「自利のため」ではなく、なんら「天に愧ずるものではない」。

これが、辻さんがご子息に明かした胸の内…
ということだと思います。

「我等は何故敗けたか」では、
この後、
日本の敗因を八つにまとめたかたちで挙げられています。

また後日、八つの敗因や
当時の世界情勢への辻さんの考えを
噛み砕いて理解して行こうと思います。

つづく

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