悠久と有限、現在を体感する

9月13日〜14日の二日間、
京都府下京区にある龍岸寺にて開催された、
久高島の夜の顔を映した写真展にお伺いしました。

本稿では、
この二日間にした体験を、
ぎゅぎゅっと詰め込んでいます。

宮崎輝規氏による「表裏一体のせかい〜月夜の久高島〜」


2024年9月13日・14日(旧暦8月11日・12日)、

陰と陽をテーマに、久高島の写真展を開催致します。

久高島では、8月マティと言われる1年で一番陰極まる日が旧暦の8/11と、

翌日はテーラーガーミーと言って太陽神の霊力を借りて

男性の神役の人たちが島を祓い清めるという祭祀が旧暦の8/12に行われます。

今回が、まさにその時です。

島の夜は、様々な顔を見せてくれます。

海岸から見る光景は闇の漆黒….

月明かりは昼間のような明るさを。

光は島だけでなく、沖縄本島からの街明かりも。

一枚の写真の中で、島の様々な顔、闇夜と光、影と光・そして光と影で、

陰、陽を表現することによって写真を通して、8月マティの時に、 

島に身を運ばずして島と繋がることが出来ればと思い作品を仕上げました。

この時に、それぞれの自分のいのちと繋がるように、

それぞれが存在することを叶えてくれている祖先の存在にもしばし思いを寄せながら、

この世を離れた方々の幸せをお祈りする日にもなればとも思っています。

撮影されたのは、
写真家の宮崎輝規みやざきてるきさんという方で、
この催しは、
「写真に自分の命を掛けて行く」と決めた、
決意の写真展でもあるそうです。

「自分は何に命を掛けるのか」を掴んだ人には、
人間としての強さが出ると、
久高島での撮影の話をうかがって感じました。

久高島のご縁

久高島は、
琉球王朝時代の制度を残し、
土地に住む多くの方が自然をかしこみ、
神の領域との境界を守った生活をされていて、
本来人が体感し信仰してきた「神」を感じられる場所…
だと思っています。

私は、この久高島に
2023年の10月11日に一度だけ、行きました。
友人にお誘いいただき、同行させてもらったのですが、
予定されていた久高島巡りに合わせて旅程を組んだ結果、
思いがけず1944年に沖縄大空襲のあった10月10日に
那覇空港に到着したのでした。

ちなみに私にとって、
このときが初飛行機、初沖縄。

ついでに故郷を離れ
旅先から旅先へと移動するのも
はじめてで、

コンフォートゾーンを抜ける大冒険の
最終地点だったので、
思い入れの深い場所でもありました。

宮崎さんの写真を眺めていると、
またあの景色の中に行きたくなりました。

感じ方は、人それぞれに違うのでしょうが、

私にとっては、
写真一つ一つが御守りになりそうな、
心身に静寂を呼び戻してくれる写真展でした。

9月13日、旧暦8月マティに行う供養と祈り

1日目には、
ミニコンサートと法要、瞑想会が行われました。

西下晃太郎氏による演奏と、池口龍法氏の「黒谷和讃」

特に印象深かったのが、
クラシックギター奏者の西下晃太郎さんによる演奏の時間と、
龍岸寺の池口龍法住職による「黒谷和讃」お唱えの時間です。

姿から勝手にいろいろと想像しちゃってるのか、
いまの私の野生の勘が捨てたもんじゃないのか、

西下さんの演奏を聴いていると、
この方は一音一音に耳を澄ませて、
その微細さを大切に扱われているんだろうな
と感じて、
詳しいことはわからないながらも
居ずまいを正して聴かねばという気が起こってきます。

目を閉じて音を感じようとしていると
不思議と涙が込み上げてきて、

ふと隣で聞き入っている女性を見ると、
やはり涙を拭う仕草をされていたので、

これは私の「野生の勘だ」と思うことにします。

過去を生きた魂たちとのつながりを感じ、
自分の番を自覚する。

あの時間、
今年出会った「辻政信」さんの御霊や、
8月に思い出した、万朶隊や敷島隊の方々、
つい数ヶ月前に亡くなった、祖母のことが浮かんできて
今までにない、「交流ができた」という感覚にもなりました。

クラシックギターの音色で繋がった、
1945年周辺に生きた先人たちに思いを馳せ、
彼らに続く、「一員」として祈ることが出来たと感じたあと、

池口住職の唱える「黒谷和讃」を聴き、

はたと、
「私は今、まさにこの肉体を用意されていて、
 この世で生きた実践をしていく立場にいるんだ」
と気づきました。

帰命頂礼黒谷の 円光大師の教えには

人間わずか五十年 花に譬えば朝顔の

露よりもろき身をもちて なぜに後生を願わぬぞ 

たとえうき世を永らえて 楽しむ心にまかすとも

老いも若きも妻も子も 後れ先立つ世のならい

花も紅葉もひとさかり 思えば吾らもひとさかり

十や十五のつぼみ花 十九つず二十はたちの花盛り

世帯ざかりの人々も たちまち頓死をするもあり

今宵枕をかたむけて 朝に笑いし幼子も

暮れには煙となるもあり 哀れはかなき吾等かな

娑婆は日に日に遠ざかり 死するは歳々ちかずきて

今日は他人の葬礼し 明日は吾身も計られず

これをおもえばみなひとは 親子兄弟夫婦とも

先立つ人の追善し 念仏唱えて信ずべし

あら有難や阿弥陀仏 南無阿弥陀仏阿弥陀仏。

悠久のつながりによって
「祈る」ということを教えられたあと、
いま現在の自分と、その有限性を自覚して、
これから進んでいくことを励まされた…
というのが、この一連で私が受け取った体験です。

9月14日、嗅覚で「いまここ」の自分をひらく

2日目には、
有限の時を外物に惑わされないために
「まさしく必要だ」と思える
ワークショップが開かれました。

講師は、バーバラさんという方です。
「嗅覚オタク」を自称する、彼女が
繰り出す豊かな表現によって
「嗅覚」の偉大さを認識することができました。

「嗅覚の使者イタコ」みたいな方だと思いました。

彼女がこのとき紹介してくださったのは
嗅覚によって仲間を見分けるモモンガに倣った「モモンガワーク」と、
自分の本当の望みを知る「黒魔女メソッド」。

私にとって、この講座の記憶は
ラベンダーの香りと共にあります。

最初にあったモモンガワークでは、

二種類の香りを含ませたシールのようなものが
参加者それぞれの額に貼り付けられるのですが
自分の匂いはわからないので
周りの人と協力して
自分の額にある香りと
同じ香りを額にくっつけている仲間を見つけていく
ことになります。

私の額には
ラベンダーの香油がついたシールが貼られていました。

貼られたとき、名前はわからないながらも
その香りの特徴は不思議とわかって、

偶然、初めて額を嗅ぎ合った方もまた
自分の額の香りを自覚してらしたので

「私たち同じ匂いですよね!」という
今までに経験したことのない意気投合をしました。

その後も「同じっぽい」「同じに違いない」という
意気投合が起こって、
モモンガ仲間と集まって
バーバラさんの答え合わせを聞く頃には、
初対面のぎこちなさはすっかりほどけていたように思います。
まるで「親戚」のようでした。

後半の
自分の本当の願いを知る「黒魔女メソッド」は、

自分が叶えたい望みを決めてから、
それを叶えるために選んだ香りに
答えやヒントがある…というもので

何種類もある香油の中から
「決めた願いを叶えられそうな香り」を
嗅覚で選んでいきました。

私はこのとき、
すでにどういう生き方をしたいかについて、
もうかれこれ三年は模索していて
ここ三ヶ月をかけて大詰めに向かおう
としているところでした。

そのため、
自分がしたい生き方をするための第一歩を
かなり具体化させていて、

「自分が立てていた心願は
もうあるから、ひとまず置いておいて
今行き詰まっている難関を突破しよう」
という願いの立て方をしていました。

ひと通り嗅いだあと、
「やっぱり…」というかんじで
「ラベンダー」の香りを選び、

バーバラさんのいざないで、
その効能を調べると、こうありました。

心への効能

ラベンダーは心の中核を支える働きがあります。
感情の全体のバランスをとってくれ、心を落ち着かせてくれます。
また、溜まってしまった感情を解き放つ作用もあります。
押し殺して行き場のなくなった感情を解消してくれます。
特に、人の目を気にして自分の気持ちを表現できずにいる人を助けてくれます。

これを読んだとき、
ただ頭で決めた即物的な予定目標ではなく、
ずっと模索探究していた心願にもう一度立ち返れ
と言われているように感じました。


ひとり一人が命そのままに喜ぶ弥勒の世は、
一人の身体、一つの場ですでに完成している。


この二日間、
あの場所にはさまざまな方が集まっていました。

どういう経緯で来ることになったのか、
知っている人も知らない人もいて、
さらに、知っている面も知らない面もあって
それでも生きてきた物語は、一人ひとりが持っている。

全く違う生き方でここまできた方たちが、
その違いを気にすることなく、匿すことなく
ただ和やかに交流している様子を見ると、

弥勒菩薩の下生を待つまでもなく、
すでにこの場が弥勒の世なんじゃないか
と気づきました。


連綿とつづく歴史の一部である、今。

あの場所で一つの「弥勒の世」を
つくっていた方達の活動が、
「確かにあったことを、残しておきたい」と
私が感じているので、ここに記します。

2024年9月16日 拝

知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。