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自利利他〜自分を知ってこそできる利他〜【一】

今回はちょっと歴史のお話になります。

高野山におてつたびに伺った時、
弘法大師・空海さんを指す、
南無大師なむだいし 遍照金剛へんじょうこんごう
という文言を見かけ、そこから「遍照」つながりで
比叡山の伝教でんきょう大師・最澄さんが『山家学生式さんげがくしょうしき』に著した
一燈照隅いっとうしょうぐう 万燈遍照ばんとうへんじょう
という言葉を思い出しました。

お二人の関連性がなんとなく気になり、
本を読んだりネットで調べたり、人の話を聞いたりするうちに、
その交流と断絶のエピソードを知りました。

忘己利他もうこりたの心で人々に尽くした最澄と、
自利利他じりりたこそ本当の利他と考えた空海


最澄さんがつくった、僧侶を育てる学校の
学生手帳のようなものが「山家学生式」なのですが、
そこに学生の守るべき守則として、こう記されています。

国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。
道心ある者を名付けて国宝と為す。
故に古人言わく、
径寸十枚、是国宝にあらず、
一隅を照す、此れ則ち国宝なりと

立派なお坊さんが国の宝となる、
一隅を照す品格を備えたお坊さんが地方に下れば、
そのいく先々で周囲を照らす。
その徳に照らされて、感銘を受けた人がまた一燈を灯す。

そういう期待を込めて世に教え子を輩出した最澄さんの考え方は、

自らの立場を忘れて、
困難や苦しみを引き受け
善きことを他者に手渡していきたい

というものでした。

彼が19歳の時、ひとり比叡山に入ると決めた際に立てた願文
を読んだのですが、
私は彼の心境を惻隠そくいんして、シンパシーを抱きました。

はるか限りないこの世界は、ただ苦しみばかりで安らかなことは無く、
乱れ騒がしい生き物たちは、ただ思い悩むことばかりで安らぐことはない。

生きている間に善い行いをしなければ、
死を迎えた日には地獄の薪となって火に責められるであろう。
得ることが難しく、また得てしまえば
ほかのものに生まれ変わってしまい易いのが人の身である。
起こし難く、起こしても忘れ易いのが善の心である。

原因が無くて結果があるという道理はなく、
善い行いをすることなく苦しみを免れるという道理もない。

ほとけに伏して自分のこれまでの行いを尋ね考えてみるに、
戒律にかなう正しい行いもなく、
ひそかに衣服や食事などの生活の世話を受けながら、
真理を知らず愚かにしてまたあらゆる生き物に迷惑をかけている。

人の身に生まれながら、
いい加減に過ごして善い行いをしない者
を、
ほとけのおしえでは、
宝の山に入りながら何も得ずに帰る者であると責めている。
ここにおいて、
愚か者の極みであり、
狂っている者の極みであり、
徳のないつまらない僧侶であり、
最低である最澄
は、
仏弟子としてはほとけのおしえに違反し、
国民としては天皇の定めた法に背き、
子供としては親孝行を欠いている。
謹んで迷い狂える心に随いながらも、ここに五つの誓いを起こした。

わたしは、
世のあらゆる出来事を先入観や煩悩に惑わされず
ありのままに見聞きし考えることができる
相似の位という修行の段階に至るまでは、
比叡山を下りて世間に出るまい。

ほとけの教えを明らかに照らし出す心を得るまでは、
修行に関係ない芸事はするまい。

戒律を完全に守り身につけることができるまでは、
法要に出て施主からお布施をいただくことはするまい。

ほとけの智慧に満ちた心を身につけるまでは、
世間の諸々の仕事をするまい。

ただし、相似の位を得たならばこの限りでない。
わたしが現在の世で修めた善い行いの報いは、
独り占めすることなく遍くすべての生き物に施して、
ことごとく皆最高のほとけの智慧を得させたい

ほとけに伏して願うところは、
苦しみの世界から脱した喜びに一人浸ることなく、
安らぎに至る方法を一人だけ知ることなく、
この宇宙のあらゆる生き物が同じく苦しみの世界から脱し、
安らぎに至る方法を知らしめたい。

最澄『願文』現代語訳

人は自分に関係のあるものしか認識できないと、
苫米地さんがYouTube動画で仰っているのを
たまたま目にしました。

私が拾ったのは、
最澄さんの厭世的な世界観自己否定と、
そこから出発した自己変革の決意、
そして、他者のためになることで自分を認めようとするスタンスでした。

→忘己利他にはもう懲りた


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