夜鷹のとある一日

──朝。私は小鳥の囀りで目を覚ます。別に優雅な目覚めというわけでもない。目の前に好いてもいない中年が寝ているのだから、なかなか清々しくはならないだろう。

「春眠不覚暁、処処聞啼鳥……」と口ずさんだ辺りで口角を歪める。とっくに花を散らした身で“知る多少”もないものだ。そんなことより幸せそうに寝こけているこのおっさんを帰らせなければいけない。

「ぬし、朝でありんすよ。早う帰りんせんと、わっちまで奥方に怒られんす」
優しい声音を作りながら、弛んだ腹を揺らすようにさする。風の吹き抜ける草原のように、波ができるのが少しだけ愉快だ。

「う"ーん、母ちゃんあと五分…」
「……」

寝言をほざく中年を冷ややかに見下ろし、腹をさすっていた手で耳をギュッと抓ってやる。何が母ちゃんだ、昨日の晩そこの辻で買ったくせに。

「あだだだだ!起きる、起きます!」
「物分かりが良うて嬉しゅうありんすよ」

「目が覚めたら早うお帰りなんし。ぬしにも奥方がありんしょう?」
投げやりに帰宅を促しながら、鏡台の椿油を手に取る。ついでにはだけたままの胸元に伸びてきたおっさんの手を叩き落としておかなければならない。

「ぬし、そこから先はまたお代を頂きんすよ」
微笑みながら襦袢の襟を掻き合わせる。おっさんは涙目で打たれた所に息を吹きかけているが、自業自得なので知ったことではない。

「うう、そんなデカいのが目の前にあったら誰だって手を伸ばすに決まってるだろ。いいじゃねえか減るもんじゃねえし」
「嫌とは言っちゃござんせんよ。ただ此方も商売でありんす。お代になるものをタダで出す訳にはいきんせん」

「サ、そろそろ遣り手婆が乗り込んで来んす。面倒ごとはいやでありんしょう?」
「わかったわかった。わざわざ婆の顔見ることもねえやな」
「わっちも見たくはありんせん」
くすりと相好を崩しておっさんに服を着せる。撫でてる時は面白かったがこうなると鬱陶しいなこの腹は。

「ぬし、次はいつおいでになりんすかえ」
「あー?あー……。あんまり大っぴらにすると母ちゃんが《人食い鬼》になっちまうからなぁ」
「あらあら」
「まぁなんだ、ほとぼりが冷めた頃にまた来るさ。お前は楽しめたからなぁ」
「嬉しゅうござんす。野暮がいなけりゃまたあの辻に立っていんすよ」

階段を降りていくおっさんを見送って、ぴしゃりと襖を閉じる。ただでさえボサつく髪を一層掻き回しながら私は煙管を手に取った。

「ああ嫌だ嫌だ。あんな男にも妻がいて、私はなんでもないってんだから」

そしてそのことを憎く思う自分が一番嫌だ、と考えを回してしまう。いつもこうだ。夜の帳に包まれると人肌恋しくなって、辻に立って客を引く。朝日に照らされると綺麗にならなくちゃいけないような気がして自己嫌悪に陥る。自分が傷つくだけの永久機関。廓に来たことそのものが浅はかだったのだろうか。人並みの幸せを追い求めればよかったのだろうか。

「……なんて、どだい無理な話よね。あの時の私に言ったところで聞きゃしないわ」
気分だけでも清々しくなろう、と煙管を手に窓辺に向かう。いつの間にかこれも手放せなくなっていた。

「あら?」
手すりに一羽の鳥が止まっている。ただし紙製の。

「アヤメの式神、か。またぞろ厄介話な気がするわ……」
ギルド《Schwarzer Garten》の同僚、黒のアヤメこと黒白柳。彼女の式神である折り紙の鳥はその機密保持能力からギルド内での主力通信機器である。念話と比較すれば即応性で劣るが、音が出ないという大きな利点がある。そんな手紙鳥が来たということは、それ相応の事態ということだ。

私の波長に反応して手紙に解けた鳥だったものに目を通す。


おはよう。昨晩はお楽しみだったみたいね?
お察しの通り新しい仕事よ。
とある大地人の少年がね、妹を貴族に奪われたんだって。
目標はロジャース伯爵家。
パーティに潜入にして奪還するのを手伝ってほしいとの依頼よ。
今動けるメンバーはタチアオイ、日日草、プリムラだからうまいこと合流して頂戴。
そうね。夜が明ける前に、鳥が啼く前に花を刈れってとこかしら。
じゃ、よろしくお願いね。

追伸
西の方でキナくさい動きがあるわ。出張の可能性を頭の片隅に置いておいて。お得意の色仕掛けが役立つかもしれないわ。


「……うっさい、まな板のくせに」
読み終わった手紙を火鉢に焚べる。ちょっと前まで羽ばたいていた手紙が物言わぬ灰となっていく。

「いちいち見透かしたようなことを言う。これだから頭のキレる奴は気に食わない」
ため息をこぼしながら鏡台をしまう。なるべく早く動いた方が良さそうだから、今日中に出発しなくては。

今回のメンバーはバトルジャンキーにナチュラルサイコキラー幼女、あと闇医者みたいな見た目の医者。

「一人でもまともそうなのが居てよかったと思うべきかしら。日日草は悪い子じゃないんだけど」
帯を結ぶのが面倒だから装備変更ボタンを押してしまえ。一瞬のラグの後に着慣れた小袖の肌触りが身を包む。

「……よく考えたらアーキ揃ってないじゃない。また林檎に借りが増えるわー」
ため息がまた一つ零れた。幸せ云々はもう気にしていない。人殺しの娼婦にまともな幸せが訪れるというなら、私は既に身請けなりなんなりされているはずだ。

「そもそも、■■を死なせてしまったのに幸せになろうなんて、虫がよすぎるわよね。ねぇ緋扇……」
半分に分かたれた簪をそっと撫で、私は遣り手婆に話をつけるべく階段を降りて行った。


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