見出し画像

感性を育てる

ひとは触れた物事に対し、何かしらの感情を抱く。

しかし、それは自分自身にさえ簡単に姿を教えてくれない。いま自分はモヤモヤとしたナニかを抱えているけれど、この感情はなんだろうか…と悩んだ経験は誰にしもあるはずだ。そのモヤモヤを見つけ、言語化して定義するプロセスを「感性」だと僕は捉える。

昨今「この複雑な世の中を生きるためには感性を育てなさい」という論が盛り上がりを見せ、その具体的な方法論は頻繁に説かれるものの、それら方法が何故有効なのか、そもそも「感性」とは何かを検討した論はあまり見かけない。

感性は前述の通り、「見つける」と「言語化する」の2段階を有している。僕自身は感性を育てるためにこれらそれぞれの訓練が必要だと考えているが、その方法とそれの持つ意味合いについて整理したい。

感情を「見つける」

感情は発露されて初めて、その存在を自覚する事ができる。分かりやすいのは胸の高鳴り、疼き、無意識に流れた涙などだろうか。しかし、その発露に対する感度はひとによって千差万別であるため、発露への自覚がない状態であっても感情は存在しうる。

例えばまだ幼い子が一人でテレビを見て、その映像に対して胸を高鳴らせた時、その意味に気がつくことが出来るだろうか?彼の中にはいつもと違う感覚があれど、それを自覚し、見つめるに至るのは難しいのではないだろうか。また、漫画でよく見る表現にロボットが初めて涙を流した際に「この液体は…?」と呟く。というものがあるが、その場面では往々にして隣にいる友人が「それが涙だ」だとか「それが人間の感情ってやつだよ」だとか教えてくれている。しかし、もしこのロボットが他人の涙をを見たことがなく、かつ一人でテレビ映像に対して涙を流していたとしたら「油漏れか?」と呟き、その感情を見つけることなく通り過ぎてしまうであろうことは想像に難くない。

このような例を考えていくと、ひとが自身の感情発露を自覚するためには、他者と類似体験の共有が必要であることが分かる。ひとは自分一人では感情を自覚する第一歩を踏み出すことができないのだ。また、これは必ずしもひとである必要はなく、本や漫画などを通してでもいい。

感性の第一段階である「感情を見つける」を増強するためには、他者と触れあい、本や漫画を読み、映画を見て、ある程度の普遍性を持つひとの感情発露法則を仕入れていく必要がある。また、自分の心身の変調に耳を澄ませて、そうして見つけたものをひとと共有していくのもいいだろう。こうして感情を見つける感度は向上し、その発見閾値は下がっていく。

○ 文章を書いている途中で気がついた余談。
もし、その感度が大衆より遥かに鋭かったり、または方向性が異なっていた場合、共有できる先が限られるため長い期間自覚に至らず、変調だけが蓄積していくと考えられるが、それは相当にきつい体験だなと思う。

感情を「言語化する」

続いて、感性のプロセス第2段階である感情の言語化に話を移そう。

自分は「感情の言語化」=その存在を見つけた1次元的な感情の「点」を3次元的に拡張することだと考えている。例えば、ある情景を見てウキウキした時に見つけた感情に、「弾けるような楽しさ」という言葉で定義を与えたとしよう。その言葉より、見つけた感情は現象から自身の中に打ち込まれた「有or無」の1次元から、自分の心象マップ中に2次元的な定義がもたらされる。続いて、そのとき隣にいた友人に感想を伺うと「染み込むような楽しさ」と返って来たとしよう。この二人は同じ情景を共有したにも関わらず、各々の心象では異なる定義が与えられている。その後、この差を探るべく、この両者の感情について対話と議論がなされた時、その比較により感情は2次元的な心象マップから浮かび上がり3次元的、立体的な豊かさが生まれる。自分はこのプロセスを「言語化により感情を3次元的に拡張する」と考えている。
一方、その時の感情に「ヤバい」という言語を与え、定義した時を仮定してみよう。また、隣の友達は「エモい〜」と言っている。そのあと居酒屋に入り、この「ヤバい」と「エモい」をすり合わせた時、上述の様に3次元的な豊かさは生まれるだろうか?
きっとこれらの言葉による心象マップ中の定義は、雲のように曖昧なものだろう。そして、それらの定義は曖昧故に容易に重なりうる。であるとき、その状態で2つを比較したとき「あ~、分かる〜」といった会話がなされるのではないだろうか。
前提としてヒト同士の感情、認識が完全に一致することはありえないが、定義が曖昧だからこそ、このような現象が生じる。決してこのようなコミュニケーションが悪だというつもりはない(自分も大半の会話はこんな感じだ)、しかしこの会話から生まれる感情の拡張はないだろう。
このようにヒトは感情に対して各々の言葉による定義を凝らし、それを持ち寄って対話することで、自分の感情を拡張していく。また、それは決して人との対話によらず、本や旅先で自分の認知外の言葉や景色に触れることでも生じる。(出口治明先生の勧める『旅・人・本』とはこういうことだろう)

逆に自身の感情に定義に凝らさず、人と対話をせず、本を読まず、旅もせずといった生活を送った時、急激にその人の感性が収縮していくであろうことは容易に想像しうる。昨今「ただの消費者になるな」とよく言われるのも、この点に対する啓蒙だと考えられる。

「感性を育てる」とは何か

これまでの整理をもって、改めて「感性を育てなさい」と言われること、その方策はどういう意味を持つかを考えてみよう。
感性は自身の中の感情を見つけ、言葉により定義するプロセスであり、また感情を見つけるためには他者との体験の共有が、感情を拡張するには鋭く定義された他者の感情との比較が必要となる。これらのことから感性を育てるためには、新たな視点や風景に触れ、他者と体験を共有し、対話することが重要だと考えられる。なおかつ、その相手は自分と持つ背景が大きく異なり、互いに言葉を凝らして話ができる関係性であることが望ましい。
逆に、自分と同じような境遇で、似たような言葉を使い、すでに共有された文脈のみで会話を行う相手とは、感性を育てるという観点においての発展性は乏しいと考えられる。また、毎日同じような生活、考えたことを言っても相手からNPCのようなあたり障りない言葉が帰ってくるような環境では、感性は後退する一方であろう。

ーー

ここまで最近考え込んでいたことをつらつらと書いてみたが、喫緊の自分は感性の急激な収縮を感じており、鬱々としている。このままでは平々凡々で、多くの人と同一な感性に収斂にしていくのではないかと恐れている。人としての優劣ではなく、自分の人生に面白さを感じられなくなるのがとても怖い。
昨今の世相も大いに関係あるが、手遅れになる前にどうにかこの状況を脱したい。

うお〜…人と酒が飲みたい…




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?