母について

母について書くにあたり、思いが溢れすぎて思ったよりも感情的な文になっています。後で消したくなるのかもしれません。ただ、今日という日に母について綴ってみようと思います。

母親に対して色んな考えを持つ人がいると思うのですが、私にとっての母はある時点から「小さな可愛い女のコ」でした。あ、恋愛感情あるとかそういう意味ではなくて、人間として。

もちろん、そう考えられるようになるまでは、なんでわかってくれないんだろうとか、この人俗に言う毒親かなとか思った時もありました。でも母と私は全く別の人間で母はたまたま私を妊娠して出産し「母親」になっただけの女性なのだと思えるようになったら、考えは全く変わったのです。
もし、いきなり自分の想像の範囲を越える人間と同居するハメに陥ってしかもそれが切り離せない相手だとしたら。
私が親を選べないように親も私を選べないのだから、自分の好みでない姿や性格や声や香りの場合だってあるし。
親だから何でも全て愛せは、あまりにも強引だし血が繋がった別の人間だと思わないと色々おかしなことになるから、そこを切り離せるようになると色んな事がスムーズに考えられるようになったかと思います。

少なくても全治数ヶ月の怪我を負うのと同じだと言われる出産を越えたら、急に訳の判らない物体が家庭にあって24時間一瞬でも目を離したら死ぬ存在を生かすだけでも、凄い事だと思うんですよね。それをしてくれた人を大切と思いこそすれ、自分を理解しろとか何をしても受け入れろとかあまりのエゴだなと私は思います。

さて、私の母について、ですが彼女は私に期待をかけて私がその通りである事で、知らない土地の狂った親戚の中で自己肯定感を保っていたのだと思います。例えば、自らの子どもをあまり愛さず褒めずの祖母が珍しく嫁の子である私にかけた「この子は上品だ」という祖母にとっては最大級のほめ言葉。親戚の中で母は存在意義を持つために私に上品であるように常に求めてきました。
成績が優秀であるように、運動も出来るように、身体が弱くても人前ではそう見せないように、可愛らしくいるように、母の求める私像は最上でなくても良いけれど、人並みよりは上であることだったように思います。
親戚の集まりに行く時、私は毎回下着から新しいよそ行きに着替えてましたし、田舎に育った割には地方都市のデパートで売られるようなお洋服を沢山持っていました。集まりの中でも私は年上の男の子たちと仲良く、そちらでゲームしたり話す方が余程好きでしたが、そこにいることを良くは言われなかったしお行儀よく年下の従姉妹たちの面倒を見てる方が満足されました。
私は期待通りに優秀な子では無かったのですが、習い事も沢山しました。正直言うとピアノを15年近く習いましたが、今でも楽譜を読むのは苦痛で一曲も人前で弾ける曲を覚えていませんし、書道をしたけど字も特に上手くなく、泳ぐことも出来ず、英語もそんなに話せません。それでも、それを習い他の子より少しでも出来ることが望みのようでした。
沢山並べても仕方ないのですが、とにかく母の理想形でいる私は少なくとも母に愛されたようです。

逆にそこから外れた時の嫌悪感に溢れた扱いは、忘れることが出来ません。手を変え品を変え望みでない方向には行かないように、その執念は今考えても凄いものでした。
北海道弁を、何なら他の方言も話さないように。ジャージやジーンズを着ないように。着るとしても高級なものであるように。母の望む友人と付き合うように。可愛くいるように。文字にすると私を大切に思う故の過保護さに見えますが、望まないものを排除していく執拗さは怖いくらいでした。

判りやすく手を上げたり、食事を与えなかったりすることもなく大切に育ててくれたけれど、誕生日を忘れることも私より割れたお皿の方が大切だと言うこともあったし、アンバランスな愛情がそこにはあったように思います。

母を「小さい可愛い女のコ」と思えるようになったのは、最初に患った時。見つかった時、3年生存率が絶望的に低く、手術する為にまずは患部を小さくする必要もあって、そこでもう死を覚悟していたことを知っています。
お家にある、自分がいなくなった後に見つかったら嫌なものをその時母は全て処分しました。過去の日記や手帳やDVの記録や何もかも。
そして、別に暮らしていた私を側に呼び、実家のどんなお金がどこから出ているのか、父の保険やその他の母が管理していたこと全てを伝えてきました。

母は相当な泣き虫です。
映画を見ては泣き、歌で感動したと泣き、はじめてのおつかいで泣き、私は母を涙もろい人だと思っていました。
でもよく考えたら父からのDVでも、父の不倫が発覚した時も、母が大好きな祖父や叔父の葬儀で父が奇行をした時も、そして患った病気のことでも私の前では一度も泣きませんでした。
物凄く強い人だったなと思います。

小さな身体でどれだけの大変なことを1人で乗り越えたのだろうと大人になった私は考えました。結婚を期に遠く全く知らない土地で全く知らない環境と人々に囲まれて唯一味方であるはずの父にも頼れず、親族からのいじめや、父からのDVや、妊娠出産や、子育てや、自身の大きな病気など。逃げることも出来ず泣いても仕方ないと唇噛み締めてどれだけ乗り切ったのだろうかと。

「母親」もただの女性で小さな女のコ。勝手に色んな事が出来る人だと思っていたけれど、本当に見たままの小さな可愛らしい女のコなんだなと実感したら、心の底からこの人を愛しい守りたい存在だと思えました。父のDVから守った時とは全く違う、本当に心の奥底から湧き上がる愛しい感情でした。

それから最期の日まで、実際しないしそこに恋愛のような気持ちがあったこともないけれど、抱きしめたいなって思うくらい愛しい日も、この笑顔を見られて本当に幸せだなと思う日もあったし、大切なこの人を守るためなら何でもするとも思いました。

結局、母はとても運が良かったのかと思います。最初に見つかった時や再発した時やお薬が合わなかった時に医師から言われた期間を遥かに越えたし、その間病院のベッドに縛られる事も少なく旅行にも沢山行けたし、好きな物も沢山食べられたし、11年も頑張ってくれました。最後に入院した時も、医師からは週末を越えることは難しいと言われましたが、ちゃんと食べられて喋れる1ヶ月を過ごしてくれました。長さで言えばそんなに短命すぎる命ではなかったのかと。

昔からそうなのですが、私は生き写しのように母にそっくりで外見も仕草も声もよく似ています。母の方が少しだけ背が高く少しだけ足のサイズが大きいくらいで、体格もそっくりなので今も母の服を着ることが出来ますし、たまに鏡の中に母を見つけます。

しっかり者なのにどこか抜けていて、自分がとってもしんどい時も他の人の為にすぐに動けて、自分の辛い事を他人には少ししか語らず、フットワーク軽く、イザという時に冷静に対処できて、泣き虫なのに大切な時には泣けず、ニコニコ笑って大丈夫と謎の自信もあって、努力家で、沢山の人に慕われていて、優しく、親切で、湧き上がる気品があり、見極める目が豊かな人でした。母の書く字が世界で一番美しいと、私は自信を持って言えます。

私の大切な小さな可愛い女のコ。
本日、お誕生日を迎えます。

母が好きだった物は私には甘すぎるけど、何か二人でニコニコしながら食べられるものを食べて過ごしてみようかと思うのです。

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