おいら三池の炭鉱マン-1

                          佐々木一雄

人生を振り返り、「誇りに思えることは?」と問われたら、「三池の炭鉱マンであった。」と答えます。気持ちは、今でも三池の炭鉱マンです。三池炭鉱(三井石炭鉱業株式会社三池鉱業所)は、1873年に官営化、1889年に三井に払い下げられ團琢磨を事務長とする三池炭礦社が設立しました。團琢磨が心血を注いだ三池炭鉱は 、1997年に閉山しました。静かに、つつがなく閉山しました。三池炭鉱で働いたこと、その閉山に、少しなりとも関わったことは、私の誇りです。

閉山した三池炭鉱三川鉱泉水前にて

高校時代は、1960年代、ベビーブームの生徒がすごく多いのに大学の数はさほど増えなかったため、大学受験が激化して受験戦争と言われた時代でした。四当五落の時代でした。建築家志望でしたが、成績が芳しくなく、灰色の青春でした。南米でも行って、金でも掘るかと思い、1969年に秋田大学鉱山学部採鉱学科を受験し、合格。採鉱学科は40名の学生で、4年間学業を共にしました。東京でも受験が行われたこともあり、大半が県外の学生です。学業に専念していたのは唯一1名、本当に勉強をしない学生たちの集まりでした。新入生歓迎の観桜会、内側の輪に新入生、外側の輪に上級生、紙コップに日本酒を注ぎ一気飲み。潰れた学生は、すぐ側の市民病院の玄関に投げ捨てる。病院側も、毎年恒例なのでほったらかし。といった学科風でした。その採鉱学科の学生が中心となって設立していたのが海外鉱業研究会、将来、海外での鉱山開発を目指し、学生時代に海外の鉱山で実習するのを目的としたクラブでした。

地質学科で、当時三井鉱山株式会社(以下三井鉱山)菊池秀夫常務取締役のカヤンガ・モウラ炭田発見・開発の話を聞き、感銘を受けました。モウラ炭鉱は1961年に操業開始した世界最大級の原料炭の炭鉱です。1960年から三池争議が始まったこともあり、三井鉱山は参加しませんでした。受講時、三井鉱山の地質部隊がカナダのクインテット炭鉱の開発に参加していました。1972年に同炭鉱で実習予定でしたが、まだ三井鉱山株式会社が正式にプロジェクトに参加していなかったため(1973年に参加)、直前でキャンセルとなりました。だったら、入社するかと思った次第。1973年に三井鉱山に入社しました。国内炭鉱の知識は殆ど無く、三池炭鉱も閉山していると思い込んでいました。海外要員と思っていたら、三池炭鉱の配属でした。

現場で係員として働くには国家資格が必要です。1年間、現場経験を有することが条件です。1974年の夏に国家試験、甲種上級保安技術職員の合格通知が来た11月に現場配属となりました。

その後、1990年10月に海外への国内炭鉱技術の移転を行うことを目的とした財団法人 石炭開発技術協力センター JATEC(現 一般財団法人カーボンフロンティア機構 JCOAL)の設立に伴い同財団に出向。2004年1月にコンサルタントとして独立、2007年に友人と株式会社PEARカーボンオフセット・イニシアティブを設立し、現在に至っています。石炭に関わる思い出、そして思いをこれから綴らせていただきます。

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