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『六区』 第六章

次の区(世界)は長くなるので
途中で切る形になります。
毎週日曜にUPしてましたが、今回間に合わず。
ラストへ向けて、書き直すか否か考え中。
書き直す場合、次回は更に遅れる可能性。
まあ、マイペースで頑張ります。
今週もゆっくりお楽しみ下さると光栄です。


水郷(SHUI HEUNG)

予想と反して液体がねっとりと佑の体を捉えた。ただの水ではないような重みを感じた。水面に浮いて泳ぎたいのに、どんどん沈んでいく。どの位の深さがあるのだろう。容赦なく深いところへ下ろされていく。息を止めているのが難しくなる。気づくと鼻から水が浸入し、鼻が痛いと思う間もなく、苦しくて勝手に口が開く。更に大量の水が体に入ってくる。肺が冷たく重く痺れて、感覚がなくなった。

 恐怖なのか無なのか悟りの境地なのか分らなかった。暗いはずの水中が真っ白に輝いていた。静かだった。

 目を開けると、空が見えた。明るく眩しくずっと開けていられないので、また閉じる。そして、また開ける。眩し過ぎる。そう思うと、急に咳込んだ。

『気がついた?』
傍に座っている白い服を着た巻き毛の女性がこちらを見ている。
「ここは…天国?」
 佑が言うと、女性は笑った。
『そうね、近いものがあるかもしれない。でもあなたは生きていますよ』
 気づくと木製のベッドに寝かされていた。起き上がると、目の前の景色に驚いた。水上家屋のような建物が幾つも水面に浮いている。自分も竹で組んだ船のようなものに乗っていた。
「ここはどこですか?」
『ここは“水郷(すいひょん)”です。あなたはここの海士(あま)に助けられたのです』

 “水郷”にやっと来る事が出来たのか。

佑は周りを見渡した。ラシータの姿がない。
「あの、僕の他に人はいませんでしたか?」
『ええ、あなただけのようです』

 ラシータは飛び込まなかったのだろうか。ラシータの想いが確かに届いて、“火道”の修行を終える事が出来た気がしたのに。

 佑はベッドから下りて立ち上がろうとするとふらついた。すぐに女性が支えた。
『まだ休んでいる方がいいですよ。ここに来たばかりの人は皆消耗しています』
「それは何故?」
『それなりの覚悟で生死を彷徨う経験をした人だけが、ここに辿り着く事が出来ます。他の地区とは一線を画しています』
「誰もが簡単には来られないんですね」
 女性は静かに微笑んだ。そこへ別の船が近づいてきて、こちらへ前髪の長い男が飛び移ってきた。
『翠怡(ちょいいー)、戻ったぞ』
 そう言いながら男は近づいてきて、佑を見た。
『あんた、気づいたんだな?』
「あ、はい」
 直感的にこの男が自分を助けたのだと佑は分かった。
『無茶するなよ。一番深い所にいて、運が悪かったら、危なかったぞ』
「すみません。ご迷惑かけたみたいで」
女性が男の方を見て言った。
『この人、海士で私の兄です』
『俺は明威(みんわい)って言うんだ。あんたの名前は?』
「佑です。あなたが助けてくれたんですね。ありがとうございます」
『気にするな。ここへやってくる奴の半分はあんたみたいに湖の中で見つかる』
 女性が紙を持ってきて、張という字の後へ二人の名前を書いて説明した。
『張(ちょん)は名字で、私が翠怡(ちょいいー)で、兄が明威(みんわい)です。あなたの文字も教えて下さい』
 佑はすぐ横に宇田佑と書いて、佑の字に丸をつけた。
「これが名前です。宇田は名字です」
『じゃあ、佑さんと呼びますね』
 翠怡がそう言うと、明威は頭を振った。
『いや、もうそのまどろっこしい話し方は止めにしようぜ。佑も翠怡も』

 気づくと三人は膝を突き合わせて話しこんでいた。
『なるほど。佑はその水樹って子を探しているんだ。残念ながら俺らは知らないな』
 佑はがっかりしたが、心の奥では簡単にはいかないだろうなと思ってもいたので、小さく息を吐いただけだった。
『もうひとりのラシータって人も“火道”まではいたのね。そしたら、そのうちここへ来るかもしれないわね』
「明威と翠怡は元々ここの人?」
二人は顔を合わせて、笑った。
『ここにいる人達は皆、他の地区から来た人ばかりよ。勿論“火道”を通ってね。私は巫女で、兄は私を心配してついてきてくれたの。出身は“土鳳山”よ』
「僕も“土鳳山”を通ってきた。あそこは住むのが大変だね。ケガばっかりしそう」
 翠怡は何度も頷いた。
『小さい頃から訓練が必なの。常に頭がフル稼働状態』
「鳳村の力という人の家にお世話になったんだ」
明威が目を見開いた。
『力! 友達だよ。元気にしていた?』
「うん。言われてみれば、明威と似た雰囲気の人だった」
『奴の方が豪快だけどな』
 明威は膝をぽんと叩いた。仕草からして陽気そうな男だ。

「ここに“月圓”から来た人はいる?」
 突然の質問に二人は一瞬戸惑ったように見えた。翠怡が答える。
『全員の出身地を把握してる訳ではないから分からないわ。佑、あなたは“月圓”から来たの?』
「うん、まあ」
 佑は正直に言うとややこしくなると思い、そう答えた。
『久しぶりに新しく来た人を見たからつい興奮しちゃって、色々聞いてごめんなさいね。もう休んで。私たち行くから。体が回復したら、ここでの仕事を手伝って貰いたいの。人手不足だから』
「宜しくお願いします」
 佑が頭を下げると、二人も同じように頭を下げた。

 目を開けると、木造りの天井が見えた。いつの間にか眠っていたようだ。上下にミシミシと揺れている。時折水の音が聞こえる。ゆっくりと起き上がって、外に出ると、最初に目にした、いくつもの水上家屋と船が浮かんでいるのが見えた。やはりここは陸がないのだ。
 しばらくすると翠怡が船に乗ってやってきた。こちらへ船を繋ぎ、慣れた動きで飛び移ってきた。
『よく眠れた? ここは常に明るいから中々眠りにくいでしょ』
「疲れていたのか眠れたよ。ここは常に日が射しているんだね」
『ここは夜がないの。時間の流れもないのよ。あるのは人やものの動きだけ』
「理解しにくいな」
『ここの区域だけ凝縮されているの』
「全く分からない」
『私も来たばっかりの頃は混乱していたわ。そのうち、分かるわよ。今からちょっと手伝ってもらいたい事があるからついてきてほしいんだけど、いいかしら』
 佑は頷いた。翠怡が手招きして、乗ってきた船に乗るように指示され、佑はおそるおそる乗り移った。小さな船で移動がしやすそうだ。翠怡が簡易な操縦盤のような四角い台に両手を乗せると、船は静かに旋回して動き始めた。

「どこに行くの?」
『学校よ』
「僕は何をしたらいいのかな」
『佑、得意な事は何?』
「勉強は得意じゃないんだけど」
『子供達に何か教える事は出来る?』
「泳ぎも得意じゃないし、うーん、ここだとサッカーとかも出来ないね」
『ここの子供達、泳ぎは得意よ。運動場はないけど、卓球とか体操とか』
「本格的なものじゃなくていいなら」
『もちろん、何だっていいの。佑の知っている事を子供達に学ばせたいだけだから』

 学校らしき建物が見えてきた。やはり水の上に浮かんでいる。不思議な光景だった。近づくと、翠怡が手を振った。学校は赤い屋根で目に付きやすかった。校舎から初老の男が出てきて、手を振った。
『あれが、校長よ』
「そうなんだ。ところで、ここでは時間が存在しないなら、生徒の皆はどうやって集まるの?」
『とりあえず、目が覚めたら向かうようになっているのよ。全員が揃う事はないけれど、勉強はね、コンピューターを使って配信して、各自の家でやって、運動とか図画工作とか音楽とかそういった授業はここでなるべく多人数でやるの。登校前にメールで出席の意思を出して貰ってね』
 船を学校に横付けすると、その校長が縄でしっかりと船を固定した。翠怡と佑が船から降りて、学校側へ移った。
『おはようございます。林校長、新しく来た人を紹介します』
「宇田佑といいます」
『おはよう。ああ、君か。私は林記文(らむけいまん)だ。宜しく頼みますぞ』
林校長はポケットから名刺を出して、佑に渡した。
「こちらこそお願いします」
 佑は頭を下げた。
『まず、学校の雰囲気に慣れてほしい。今日は見学だけでいいから』
 林校長がドアを開けると、入ってすぐの部屋が教室になっていて三人程既に席に着いている子供がいて、こちらを窺っている。十歳位の子だろうか。黒板もあるし、机や椅子も三十人位分はあった。

『この椅子にでも座って見ているといい』
 林校長が生徒用の椅子を一つ拝借して、佑に差し出した。子供用なので小さいが座れない程ではない。そこに軽く腰掛けて前を向いた。翠怡が声を掛けた。
『佑、後で迎えに来るわね』
 それだけ言うと、翠怡は行ってしまった。
『宇田佑くん、来たばっかりで悪いんだが、ここの者は皆、仕事を持っているんだ。ここにいる間は頑張ってくれたまえ』
「はい、ありがとうございます」
 しばらくすると、女性が入ってきて、校長と挨拶をして、佑にも挨拶に来た。
『初めまして。ここの教師をやっております、エスといいます。宜しくお願いします』
「宇田佑です。こちらこそ、ご指導願います」
エスという女性はまだ若そうだった。佑と同い年かもしくは年下かもしれない。髪は長く、奇麗に編んで、頭の上で円形に固定されていた。色白だった。
ややあって五人の子供達が挨拶をしながら教室に入ってきた。

エスはそのまま教壇に立つと、生徒達に話しかけた。
『皆さん、おはようございます。新しい先生の仲間が増えました。後ろにいる宇田佑さんです』
 急に紹介されたので、慌てて佑は立ち上がった。
「おはようございます。皆、宜しくね」
 生徒達は口々に挨拶を返したのでよく聞き取れなかったが、元気さは伝わった。思わず笑みがこぼれる。
 エスの授業は音楽だった。生徒達に箱から好きな楽器を取るように言って、皆カスタネットやタンバリン、マラカスなどを手に席に着いた。エスは別室からキーボードを持ってきて、それを弾きながら、歌い出す。プロの歌手かと思う程、綺麗な透明感ある歌声で思わず聴き入ってしまう。生徒達は自由にその歌に合わせて楽器を鳴らしていた。佑も無意識に手拍子していた。
『はい、皆さん、素晴らしい出来ですね。今歌った曲のメロディの部分を五線譜に表すので、皆ノートを開いて写して下さい』
 エスは黒板に五本の線を引き、ト音記号を書き入れ、音符を素早く入れていった。佑は瞬きするのも忘れてその様子を見守った。

 授業が終わって、佑はエスの所へ行き、拍手した。
「すごい良かったです。感動しました。僕なんか何がやれるんだろうってちょっと自己嫌悪になる程でした」
『ありがとうございます。嬉しいです、そんな風に言っていただけるなんて。佑さんも得意な事を子供達に教えていただければ、何だっていいんです』
 エスは大きく目を見開いて笑った。
「あの、この“水郷”には色んな地区から来られているんですよね。エス先生はどちらから?」
 エスは笑いを引っ込めて静かに言った。
『金湖城です』
「そうですか。僕は“月圓”から来ました」
 そう言うと、エスはまじまじと佑を見た。
『遠い所から来られたのですね』
「ええ、まあ」
 佑は、本当はもっと遠くからだけど、と内心思った。その後、エスによる授業は図画工作、理科の実験など続き、佑は感心しながら見学した。子供達は真剣な眼差しだ。一通り授業が終わると、生徒達は挨拶をして帰って行った。

「エス先生は何でも出来るんですね」
『人手が足りないんです。他に、林校長と翠怡とでローテーションで授業をしています』
「僕はサポート程度しか出来ないですが、宜しくお願いします」

 丁度いいタイミングで翠怡が船に乗って、迎えに来た。
『どうだった?』
「とても有意義な時間を過ごせたよ、翠怡、ありがとう」
『それは良かった。佑に手伝って貰えると、とても助かるわ』
 佑が寝泊まりさせて貰っている水上家屋まで戻ってきた。本当にずっと明るいままなので、ここに来てからどの位経ったのか分からなくなった。

「エス先生は色んな分野を教える事が出来るんだね」
『そうなの。私も憧れているのよ』
「翠怡は、何を教えているの?」
『私は水泳と家庭科かな』
「水泳! ここでは必須科目だね」
『そうね。校長は勉強科目の配信が主な担当。結局学問を教えているのは林校長だけになるわね』
「明日は誰の担当になるの?」
『明日の授業は配信のみね。校長になるわ』
 翠怡はポケットからカードを出して確認した。
「その様子は僕も見る事は可能かな」
『もちろん。私の家にコンピューターがあるから見に来るといいわ』
「ところで、ここは時間の概念がないんだよね。それで、お腹空いたりしないのかな? ここに来てから何も食べていないから」
『そうなの。実はここでは食事を摂る必要もないのよ。もちろん、慣れるまでは何か口に入れて落ち着く事をしてもいいのだけど、何の意味もないのよ』
 佑はどこに行っても変な地区ばかりと思ってはいたが、ここは見た目は違っても火道と似たようなストイックな世界だと思った。
「まさか、ここは本当に死後の世界じゃないだろうね?」
 翠怡は笑いを堪える為に口元を手で覆った。
『ここに来た当初もそんな事言っていたわね。確かにここに来るのは簡単じゃないからそう思うかもしれないけれど、違うのよ。まあ、簡単に言えば悟った人しか来られない所だから。多くは巫女や神事に仕える人達ね』
「でも食べないと肉体を維持は出来ないんじゃないの?」
『思い込みね。そう思うからそうなのよ。食事は摂らなくても大丈夫。現にあなただって平気でしょ?』
 確かに空腹感はなかった。少々口寂しい感覚はあるが。
『じゃあ、ゆっくり休んでね。また目を覚ましたら、迎えに来るから』
 翠怡は帰って行った。まだまだ聞きたい事は沢山あった。子供達はどこから来たのか。或いはここで生まれたのか。子供達が大人になったらどこへ行くのか、など。

 知らない間にまた眠っていた。気がつくとベッドの上だった。

 ここにいつまで居られるのだろう。水樹はここにいるはずなのに。すぐ見つかるだろうか。

 佑は外を見た。ここに屋根はあるが、壁はなく、柱がいくつかあるだけだった。だから外を見ると、遠くまで見渡せた。眩しい程の光に満ちている。澄んだ水の上に船やら水上家屋が幾つも続いている。いつまで眺めていても飽きない。
 しばらくすると、一隻の船が近づいてきた。翠怡の船ではなかった。しかし、その船から手を振る人がいた。目を凝らすと、どうやら明威だった。
『おーい! 佑、起きているかー』
 遠くから叫んでいた。船がようやく近づいてきた。明威は、船に乗るように指示した。
「どうしたの?」
『今からちょっと離れた場所で仕事をする。お前も来るだろう?』
「いや、僕これから翠怡の家に行かないといけない……」
 と言いながらハッとした。そうだ、ここには時間の概念がないのだった。
『とりあえず、俺について来な』
 明威は佑の声が聞こえていないかのように、船に乗ってくるのを待った。佑は船に飛び乗った。途端に船が走り出す。動きに一瞬体がついていかず、ひっくり返りそうになったが、何とか耐えた。
「どこに行くの?」
『こことはまた違うエリアさ。捜しているんだよな、誰だっけ』
「水樹」
『そう、確かそんな名前。ここは広いからやっぱりくまなく捜さないとな』
 明威は目配せした。
「ありがとう。でも、仕事の邪魔にならない?」
『ならないよ。俺は湖の中の担当だからね』

 明威は船を更に早く走らせた。水上家屋はずっと続いている。確かにここは広大だった。いつまでも目を細めて先を見つめた。
 どの位走っただろうか。感覚的には一時間は船に乗っている。時折頬を撫でる風は爽やかだ。ここは暑過ぎる事もなく寒過ぎる事もない。

『俺の仕事は湖の中でこちらに来た人を救出する。やりがいあるだろ?』
「皆、湖から来るのですか」
『そうとも限らないよ。物凄く悟った人間なんて、自分で船に乗ってやってくるしね』
「すごい!」
『ここで発見する人は、ほとんど自覚なしに来ている事が多い』
 明威は風で額に貼りつく長い前髪を掻きあげた。

 目的の地に到着すると、明威は近くの水上家屋に船を着けた。
『すみません、海士です。ここに船を繋げさせて下さい』
 明威が声をかけると、建物の中から声だけが返ってきた。
『どうぞ』
『ありがとうございます』
 明威はその場で服を脱いだ。下に既に海パンを穿いていた。
『佑、ここにいてくれ。俺はちょっと捜してくるから』

 明威は湖に飛び込んだ。すごい速さで見えなくなった。兄がこんなに泳げるんだから、翠怡も泳ぎは得意なのだろうな、と佑はふと思った。
 佑はしばらく波打つ水面を見つめていたが、ここの水上家屋の群が気になって、船を渡って、聞き込みをする事にした。
「すみません、お邪魔します」
『はーい』
 また声だけで返事がきた。
「ちょっとお尋ねします。この辺りで水樹っていう名前の人はいませんか?」
『さあねえ、いないと思うけど』
 言いながら出てきた小さな男の顔を見て佑は驚いた。
「え? もしかして、五郎さん?」
男は目を見張った。
『宇田佑か? こりゃ、驚いた。こんな所で会うとは! 無事男に戻ったようだな』
 木地で会った小人の男だった。
「どうして、ここにいるの?」
『おいらは、元々ここに憧れていたんだ。修行を積んで、やっと辿り着いた』
「そうなんだ。皆は元気?」
『おいらが出て行くまで変わらず元気だったよ。あれからどの位経ったんだろう。ここにいるとよく分らなくなる。随分前のような気もするし、ついこの間のような気もするし。宇田佑もここを目指してたのか?』
「ううん。流れでここを目指す事になったんだ」
『石はちゃんと持っているか?』
五郎に聞かれて、佑は頭を横に振る。
『盗られたのか!』
「分らないんだ。しばらくは天后廟に祀られていたみたいだけど、誰かが持って行ったみたいで」
『それは大変だな。あの石がないと、持ち主捜しも難しいんじゃないか』
「そうなんだよ。ところで、“月圓”から来たって人、ここにいる?」
『そりゃ、何人かいるんじゃないの』
「本当? 会わせてほしい!」
『いや、誰がって言うんじゃなくて、可能性として言っているんだ。ここは色んな所から人が集まるから。知り合いでもいるの?』
「ラシータの奥さんがここにいるのかなって」
『ラシータ? あの親父小僧の事か』
「知ってるの? 親父小僧って、何」
『見た目、おやじみたいなのに実際年齢が若かったからな。まあ、おいらも若かったけれど、老けていたから、似たようなものかもしれないけどね。結婚嫌がっていたのに、したんだな』
「“月圓”の人は逆みたいだからね。年齢を経る毎に見た目が若くなっていく。今なんて十代の少年の姿だよ」
『ここに来ているのか?』
 佑は溜息を吐いた。
「いいや。“火道”で離れてしまって、どうなったか分らないんだ」
『ここに来る可能性もあるって事だな。見つかったら、連絡するよ』
 佑は連絡先に学校の名前を教えた。
「水樹って名前の人はいない?」
 五郎は顎鬚を撫でた。
『ミズキ、聞いた事ないなぁ』
「そうか、いいんだ。五郎さんにまた会えて嬉しかったよ」
 佑は五郎と別れて、船に戻った。
 
 明威が湖から戻ってきた。がっかりしたように頭を振った。濡れた髪から水滴がその勢いで周囲に飛び散った。
『何となく見つかりそうな予感がしたんだけど、俺の勘も鈍ったようだな』
 言いながら頭をタオルで拭き、バスローブを引っ掛けて、操縦盤の前に立った。
「ありがとう、気にかけてくれて」
 明威は船を走らせて、家へ戻った。すると、同じように船に乗って、今まさに出掛けようとしていた翠怡がこちらに気づいた。
『兄さん!』
 明威は手を振った。佑も同じように振る。水上家屋に船を横づけすると、二人は船から降りた。
『佑も連れて行っていたのね』
『ああ。何か見つかるような気がしたんだ。ダメだったけど』
『そうなの。変ね、兄さんの勘が外れるなんて』
 二人が話している間に入って佑が言った。
「でも、知り合いに偶然会えた」
『え? “月圓”の人?』
「じゃなくて、“木地”で会った人だけど」
『よかった、少しでも収穫があって』
 明威がほっとしたような笑顔を見せた。

 翠怡は佑に家の中に入るように促した。結構広めのリビングに部屋がふたつ付いていた。そのひとつに案内された。そこにコンピューターが備え付けてあった。
『丁度、校長の授業中なの』
 翠怡はスリープ状態のコンピューターを立ち上げ、待機してあったウィンドウを開いた。すると丁度算数の授業をやっていた。横にバーが立ち上がっていて、そこから質疑応答など出来るようになっていた。
「これはいいね。学校に来なくても勉強出来るんだ」
『そうよ、遠くの生徒にも便利ね。この授業が一通り終わったら、今度は私の授業をやるの。出席希望者からメールが届くから、人数と名前をチェックしていてくれない?』
 翠怡は簡単に説明すると、ファイルを佑に渡した。
「分かった」
『ありがとう。お願いね。私は授業の準備してくる』

翠怡が部屋から出て行ってから、佑は画面のバーを見ていた。時々フラッシュのように、メール受信の文字が出る。それがどんどん流れてくるが、番号も一緒に出るので、分かりやすい。全部で二十三通のメールが届いた。ひとつずつ開いて、名前を出席ファイルに記入する。しばらくして翠怡が戻ってきたので、ファイルを返した。
「二十三人だね。僕も見学に行っていいかな」
『もちろんよ』
 配信授業が終わったので、二人は船に乗り込んで学校へ向かった。
 学校に到着すると、授業を受ける準備をしている生徒達早くも揃っていた。皆、水泳が好きなのだろう。“水郷”にいる限り水泳の技術は最も重要なのだと佑は思った。

『さあ、皆さん、準備体操しますよ』
 翠怡は軽やかに屈伸しながら、腕を回す。生徒達も真似をする。準備運動が終わると、皆、外へ出て、各自、水に近い縁に立った。

『丁度向かい側の家屋の所までクロールで泳いで貰います。何か異常を感じたり、体調が悪くなった人は速やかに教えて下さい。では、スタート!』

 生徒達は一斉に湖に飛び込んだ。ひとり少し遅れて飛び込む者もいたが、基本的にカナヅチという生徒はいないようだった。
『じゃあ、私も行くね。佑はここで待っていて』
「君も泳ぐの?」
『いいえ。私は船で行くわ。何かあった時の為にね』
 翠怡はそう言うと、船に乗って、行ってしまった。ただひとり学校に残された佑は複雑な気持ちになった。
しばらくすると、また船がやってきた。翠怡の船ではない。近づくまで待って、よく見ると、エスが乗っていた。
「こんにちは」
 佑が呼びかけると、エスは気づいて、手を振った。
『今日はどうしたの?』
「翠怡の授業の見学です。皆、あっちへ行っちゃったけど」
 佑が向こう側を指さすと、エスはその指す方向を見た。
『遠泳かしら?』
 船が学校に到着すると、エスは船を固定して、こちらに飛び移ってきた。
「エス先生は授業ですか?」
 エスは微笑みながら佑を見た。
『いいえ、忘れものしただけよ』
 エスは教室に入ろうとして、振り返って言った。
『佑さん、と言ったかしら。あなた年齢はおいくつ?』
 突然の質問に佑は驚いたが、すぐ答えた。
「二十六です」
一瞬エスの顔が大きく歪んだように見えて、佑は瞬きした。次の瞬間の見つめる表情は元の笑顔に戻っていた。
『そう』
 それだけ言うと、エスは教室へ入った。何だろう、と思いつつ、向かい側の家屋を見るとその周辺の水面で生徒達の頭が見えた。もう皆、到着したのか、と目を凝らした。翠怡が何か指示を出しているようだが、ここまでは聞こえなかった。
 再びエスが教室から出て来ると、すぐに船に乗り込んだ。
『それでは、頑張ってね』
エスが声をかけると、佑は、はい!と大きな返事をした。そして、行ってしまった。

しばらくすると、翠怡が船で戻ってきた。佑は手を振る。
『佑、見つけたわ!』
「何を?」
 翠怡が船の後方を指差す。ここからではよく見えなかった。学校に到着して、船を素早く固定して、翠怡が走ってきた。
『新たに“水郷”に来た人よ!』
 一瞬、飲みこめなかったが、佑は、はっとして、すぐ翠怡の船に向かった。覗き込むと、そこに横たわっていたのは懐かしい人だった。
「ラシータ! ラシータじゃないか! ついにここまで来たんだ! おい、起きろって!」
 佑が船に飛び乗って、ラシータの肩を掴んで揺すった。
『佑、だめよ。すぐには起きないと思うわ。あなただって随分長い間意識を失っていたんだから。ここに来るまでに相当なダメージを受けているから、体が十分休息を取らない限り、目は覚めないのよ』
 後ろから翠怡が言った。
「そうなんだ。とにかく良かった」
 しばらくすると、生徒達が戻ってきた。
『先生、僕達すごいでしょ?』
『すごいわ! よく気がついたわね』
『魚じゃない何かがいるって思ったんだ』
『海士の素質あるかも』
『結構深いところまで行ったんだよ』
 口々に言いながら、水から上がってきた。あっという間に学校の縁が濡れていく。翠怡が順番にタオルを渡していく。貰った者から拭いて教室の中へ入っていった。
「本当にありがとう、皆」
 佑は生徒達に声をかけた。皆笑顔でピースする。

 実技の授業が終わってから、佑のベッドのある家屋に翠怡と船で向かった。この船にラシータが乗っている。それだけで、胸のつかえが下りた気がした。ラシータの手にカバンの持ち手がしっかり掴まれている。
「これ、俺のカバンだ。大事に持ってくれていたんだ」
 佑はそうっとラシータの手からカバンを取った。
『中の物は全部濡れちゃったわね』
 佑が中を確かめると、地図もふやけてしまっていた。アーシャから渡された修行道具が入った袋もそのまま入っていた。

『簡易ベッドがもうひとつあったはずだから、そこに寝かせるといいわ』
 到着すると、二人でラシータを運んだ。細身だが、意識がないからか思ったより重く感じた。翠怡も薄ら汗をかいていた。
 とりあえず佑のベッドにラシータを寝かせてから、翠怡は物置のような所から簡易ベッドを探していた。おそらく折り畳み式のタイプなのかもしれない。
『あった!』
 奥から出てきたのは予想通り折り畳み式の骨組タイプだった。それを広げて、布団をかける。その様子をじっと見ていた佑は、ラシータの寝ている姿とベッドを交互に見比べて改めて言った。
「僕、こっちで寝るよ。ラシータはそのままでいい」
『本当に? 確かに、ラシータは意識ないからあのベッドの方が安全かもね。ごめんね、こんなのしかなくて』
「いいよ。面倒みて貰っている訳だし、僕としてはとても助かっているんだ」
『良かった。私もこれからは助けてもらう側になるから、気にしないで』
 翠怡はそう言うと笑って帰って行った。

 どの位眠ったら、意識が戻るのだろう。佑はピクリとも動かないラシータを見ながら、眠りについた。ずっと明るいから、どの位経ったか分らない。そもそもここには時間の概念がないのだとすると、どの位も何もないのだろう。

 目が覚めて、佑はすぐ横を見た。ラシータはずっと同じ姿勢で眠っていた。このまま学校へ行くべきか迷った。目を離した隙にラシータが消えてしまいそうで、不安だった。
  翠怡が船に乗ってやってくるなりすぐに佑は言った。
「翠怡、ラシータが目を覚ますまで傍にいたら、ダメかな?」
『気になるわよね。分かった。私と交替で見守る事にしない? それなら安心でしょ。送り迎えは兄に頼んでおくから。とりあえず今からは私も授業があるから出掛けるわね。私が戻ったら、佑も行ってくれない?』
「うん、分かった」
 交替で、という提案が出ると言う事はすぐには目を覚ます可能性が低いんだな、と佑は思った。翠怡が足早に出て行くと、佑は再びベッドへ戻った。眠くはなかったが、寝転がった方が、横のラシータの姿を楽に眺める事が出来た。

『迎えに来たぞ』
 明威の声が聞こえた。ドタドタとやってくる音が聞こえて、慌ててベッドから起き上がった。
『なんだ佑まで寝ていたのか。良かったな。ラシータ、見つかったんだってな』
「まだ気がついてないけどね」
 後ろから翠怡もやってきた。
『じゃあ、交替するから。学校の方、宜しくね』
「うん、頼んだよ」
 明威の船で佑は学校まで送って貰った。学校に到着すると、林校長が慌てふためいて、こっちへやってきた。
『宇田佑くん、本当は今からエスさんの授業だが、まだ来ていないのだよ』
「え? そうなんですか」
『連絡も何もなくてね。何か聞いていたりするかい?』
「いえ、僕は何も」
 言いながら、佑は忘れものを取りに来ていたエス の顔を思い出した。
「翠怡の授業の時、忘れものをしたって、学校に来ていたんですけどね」
『そうなのかい? とにかく困った事になった。もう生徒達は来ているから、宇田佑くん、よければ、何でもいいから授業をして貰ってもいいかな』
「僕でよければ、手伝わせて下さい」
 林校長は何度も頷いて、佑の肩を叩いた。
『急だけど、お願いするよ』

 さて、困った。安請け合いしたけれど、佑は本当は自信がなかった。教室に入ると生徒達は騒いでいたが、すぐに自分の席に戻った。二十人位は来ていた。
「皆さん、こんにちは。僕は宇田佑と言います。宜しくお願いします。僕が臨時に授業を行う事になりました。それにあたって、どんな事をしたいですか? 出来る限り希望に応えたいと思います」
 教室は少しざわめいた。
『先生、エス先生はお休みなの? 病気?』
 ひとりの生徒が質問した。
「ごめん。僕にも分らない。とりあえず授業を始めます」

 佑は生徒達の希望で工作の授業をした。それもエス先生がやっていた続きのようで、生徒達は皆木工で色々なものを作っていた。小さな鉛筆立てからミニテーブル、大きいものはカラーボックスのようなものまであった。うまくいかない所や釘を打つ為に板を支える事などの手伝いをした。素人ながらに子供達よりは知っている事も多いのでアドバイスやサポートが出来た。

 それにしてもエス先生はどうしたんだろう。

 授業が終わってから、林校長に佑は尋ねてみた。
「あの、エス先生の家って教えて頂けますか?」
『ああ、彼女はちょっと離れた所に住んでいるのだよ』
 そう言いながら、地図を出してきた。
『ここが学校で、彼女の家はこの辺になる』
 この辺、というアバウトな表現が出てきたのは、水上家屋ならではのようだ。
「このいくつかの集落になっている所ですね。明威が来たら、連れて行ってもらいます」
『この地図も渡しておこう。何もなければいいのだが』
 佑は地図を受け取ると、明威が迎えに来るのを待った。明威がやってくると、佑は大きく手を振った。
船が近づくと、すぐさま佑は飛び乗った。
「明威、突然で悪いんだけど、学校の先生が無連絡で来なかったんだ。心配だから様子を見に行こうと思う。ここだけど」
 佑が地図を広げて見せた。明威は驚いた様子で、船を止めてから、地図に目をやった。
『あ、この間佑と行った所だな』
「この間と言うと、五郎がいた場所?」
『佑が知り合いに会ったと言ってた所だよ』
 明威は船を回転させて走らせようとした。その時、操縦盤から甲高い音がした。
『翠怡から連絡が入った。―はい、どうした?』
そのままスピーカーで外に声が聞こえてきた。

『目を覚ましたのよ! 早く帰ってきて』
『え!』
「ラシータ、起きたんだ!」
 佑は興奮気味に言った。
『おい、どうする』
「とりあえず、一旦戻ろう。ラシータに早く会いたい!」
『分かった。今から戻るから』
 明威は通信を切った。

 佑のベッドがある家屋に到着するや否や、佑は走って行った。部屋に入ると、翠怡とラシータが向かい合って座っていた。
『佑ちゃん、お帰り!』
 佑はラシータに抱きついた。
「お帰り、じゃないよ、ラシータ。心配したんだぞ! なんでこんなに遅くなった?」
『いや、すぐに湖に飛び込めなくてさ。決心するのに、大分かかった。僕は君みたいに無鉄砲じゃないからね』
「いや、俺だって無我夢中だったんだ。俺のカバンまで持ってきてくれたんだな」
『うん。多分大事なものかと思って』
「全部びしょ濡れになってたけど」
 ラシータは笑った。
『ここが“水郷”なんだね。噂に聞いていたのと違ったよ。もっと絶望的な所かと思った。陸がないってこういう事だったんだね』
「確かにね。俺もまだ慣れない」

後から入ってきた明威が話を途中で割ってきた。
『感動の再会を邪魔して悪いんだが、佑、どうする? さっきの所に行くのか?』
 佑は頷いた。翠怡にエスが無連絡で学校に来なかった事を簡単に説明した。
『エス先生が授業を休むなんて事、今まで一度もなかったのに』
『エス!?』
 ラシータが眉を潜めた。
『いや、たまたまだよね』
「何が?」
『同じ名前っていうだけだよね』
「だから、何の話?」
 ラシータの説明を聞いて、佑は飛び上がりそうになった。ラシータの奥さんの名前もエスというのだそうだ。
「いや、違うよ。彼女、“金湖城”から来たって言っていた」
 そう言いながら佑は、エスとのやり取りを思い出していた。そう言えば、かなり若そうなのに話し方がやけに年上っぽい感じだったような。年齢も聞かれて、驚いているように見えた。そうだ、佑は“月圓”出身だと言った。そうなると見た目と年齢が一致しない。エスがもし、“月圓”出身ならすぐ分かる事だ。

「とにかく早く家に行ってみよう」
 佑は明威を急かした。ラシータは立ち上がった。
『僕も行くよ』
「目が覚めたばっかりだろ? まだ休息が必要だから寝ていた方がいいよ」
『僕が行かないと、その人が別人なのかどうか、はっきりしないから行くよ』
『私も行くわ。エス先生が病気だったりしたら、心配だし』

 結局皆で行く事にした。船の操縦は明威が担当した。体感的にやはり小一時間かかるような距離だった。誰もが落ち着かなかった。まとまった水上家屋が見えてきて、やっと安堵の息を吐いた。明威はこの間と同じ家に船を固定した。五郎の家だ。
『すみません、海士です。ここに船を置かせて下さい』
『どうぞ』
 中から声が聞こえた。
「五郎さん、俺だよ。佑だよ。ちょっと話を聞いてもいいかい?」
 佑が続けた。すと、中から五郎が出てきた。
『おう、宇田佑か。どうしたんだ』
 佑は言いながら船から降りた。
「この近くにエス先生の家はある?」
『ああ、あの先生か。そうだな。この先の二階建ての家屋だな』
 五郎が指差した。
「ありがとう」
 佑が礼を言って、その後にラシータが続いた。
『お久しぶりです。分かりますか? ラシータです。お変わりないですね』
『ラシータ? あんたが? 全然面影ないな』
『その節はご迷惑おかけしました。でも、僕が出会った頃はあなた、五郎という名前なんてなかったですよね?』
『ああ、宇田佑に付けて貰ったんだ。日本人みたいだけど、いい名前だろう』

 佑がラシータを早く、と急かして、走りだした。明威と翠怡もやってきて、後に続いた。
「じゃあ、五郎さん、お元気で」

 佑は二階建ての家屋の玄関の柱を叩いた。しかし、反応がない。扉はあるが、既に開いていた。
「エス先生!」
 佑が呼びかけても返事はなかった。翠怡と目配せして、入る事とした。
「失礼します。エス先生!」
 更に呼びかけながら中に入る下にはキッチンとダイニングらしき部屋が二つあったが、いない。二階に上がると更に部屋が二つ。一つはコンピューターが置いてあり、もう一つはベッドがあったが、誰もいなかった。
「どこへ行ったんだろう?」
『ねえ、待って。コンピューターはあるけど、荷物が片付けられている感じがする』
 しばらくして、ラシータと明威も二階に上がってきた。
『いなかったのか?』
 佑は頷いて、コンピューターの前に座った。動かそうとしてロックが掛かっている事に気づいた。
「手掛かりがここにありそうなのにな」
『パスワードも分かる訳ないしね』
 ラシータが前に出た。
『ちょっと、僕にやらせてくれない?』
「え? 何かいい案があるの?」
『もし、僕の奥さんだったなら、分かるかもしれない』
 佑とラシータは交代した。ラシータが入力すると、一発でログイン出来た。
「すごい! ……という事は」
『“月圓”のID番号を入れてみたんだ。やっぱりあのエスだった』
 ラシータは項垂れていた。
『でもどうして、突然いなくなったの?』
『僕が来ている事に気づいたとか』
「いや、たぶん、最後に話をしたのが俺だから。“月圓”から来たって事になっているし、ここの五郎にも“月圓”出身者が居たら教えてって、言ってた位だったから、警戒したんだと思う」
『そんなに“月圓”と関わるのが嫌なのか』
 ラシータは顔を覆った。
「違うよ。自分の情報が漏れるのを恐れたんじゃない? よく分らないけど、“金湖城”出身だって嘘言う位だから。俺のせいだよ。俺が“月圓”出身と言いながら、年齢と外見が合わないと思われたみたいで、誰かから頼まれて、探りに来たスパイと思われたかも。ごめん」
『いや、いいんだ。佑は何も悪くない。彼女はやっぱり“月圓”に嫌気が差して出て行ったんだろう』
 今度は翠怡が手を挙げた。
『お取り込み中申し訳ないけど、コンピューター、私に触らせてくれる?』
 ラシータと翠怡が交代する事となった。
コンピューターにある幾つかのファイルは翠怡の家にあるものと同じらしい。
『学校関係のファイルは共通なの。でも特に変わった事はないわね』
 翠怡が学校のシフトスケジュールを開けると、きっちりと名前が入っていた。エスが授業の日も名前が入っている。
『これを見ているって事は勘違いしている訳でもなさそうね』
 翠怡が溜息をついた。
『あ、翠怡、緊急メールが来てるぜ』
 明威が画面の下のバーを指差した。
『本当だ。気がつかなかった』
 翠怡が暗い表情になった。
「どうしたの?」
『うん、たぶんね、予想通りの内容だと思うのね。このコンピューターだけでなく、全てのコンピューターに届いているの、それがね』
 翠怡が言いながらメールを開いた。すると、自動的に動画が開いた。眩しい光と音声だけが流れた。

 “水郷”にお住まいの皆さま、いかがお過ごしでしょうか。
 またこの季節がやってきました。どの方も優秀なのでいつも選ぶのに大変です。
 完全なる悟りを開いた者に幸運を祈ります。
 残された者も次なる機会に向けて、更に精進して下さい。

「何これ、意味が分からない」
『そうよね。何年かに一度の不定期で、この地区から何人かピックアップされるの』
「ピックアップ? 誰に?」
 佑は理解不能というような顔で翠怡を見た。
『上の者よ。一度選ばれると、もう二度とここには戻って来ない』
 ラシータも口を挟んだ。
『選ばれた者はどこに行くの?』
 翠怡は俯いた。
『それは残された者には分からないわ。一体何の為に選ばれるのか、どこに行くのか』
「まるで、あの世に行くみたいな口ぶりだね」
 佑が言うと、皆黙った。呼吸するように家が上下している。風が吹いて水面が波立っているのだろうか。

『エスはもしかすると、ピックアップされたんじゃないか』
 明威がふと言った。翠怡は頭を振った。
『そんなの、信じたくない。何の前触れもなしに』
『いつも突然だろ』
 四人は途方に暮れてしまった。もうどうしようもないのか。

「まだそうだと決まった訳じゃないから、念の為捜さないか? “水郷”をくまなく捜してからでも遅くはないよね」
 翠怡は顔を上げた。
『そうよ。とりあえず反対側の集落も捜してみる価値はあるわ』
『そうだな。行ってみるか』

四人が五郎の家まで戻ってくると、五郎が家から出てきた。
「エス先生いなかったよ」
 佑が言うと、五郎は真っ青な顔をしている。
『まさかピックアップされたのかな。この間ちょっと話したんだけど』
「何を話したの?」
『まず佑の事だよ。“月圓”出身者がいないか聞いていただろう。ラシータの奥さんらしき人がここにいるかどうか』
 佑は五郎に話した事を後悔した。
「そうだけど。それで“金湖城”出身だって言っていた?」
 五郎は頭を振った。
『その前に、おいらはラシータが“木地”に来た頃の話をしたんだ。だから彼女はあっさり“月圓”出身者だと認めた』
 横からラシータが入ってきた。
『僕の事も何か言っていたかな』
『いや、そのうちここに来るかもしれないって話をしたら、驚いていた』
『なんで“月圓”を出て行ったか、なんて話まではさすがにしてないよね』
 ラシータは、縋るような目で五郎を見た。五郎は腕を組んで斜め上を見上げた。
『原因はラシータのせいじゃないよ。彼女自身の問題だ』
『問題って?』
『何不自由ない暮らしをしていたけど、このままでは魂は成長しない、ここで負荷をかけないと、って話していた』
『負荷って……』
 ラシータは絶句していた。
『とにかく彼女は彼女の思いだけでここまで来たんだ。理解は出来なくても、それはそれとして、認めてあげるべきじゃないか? 他の人はどうあれ、ラシータだけでも』
 佑がラシータの肩を抱いた。
「とにかく、エス先生を捜そう。会って話すべきだよ。俺は諦めない。絶対に」
『そうだ、急ごう!』
 明威は船に飛び乗った。翠怡も続いて、その後に佑がラシータを引っ張って、船に一緒に乗った。
「五郎さん、またね」
佑は手を振った。

 佑が林校長から借りた地図を広げて、指差した。
「今ここにいるから、反対側というと、ここかな」
『そうだな。俺はまだ行った事がない』
 明威が頭を掻いた。
『とにかく行ってみよう』

 またしばらく船を走らせた。誰も何も言わなかった。中々集落は見えてこなかった。何もない湖の水面が続くだけだった。湖と言っても陸地が見えないので、海のようにも見えた。ほとんど大きな波のない水面だが、船が進む振動で、周りは波打っていた。
 ラシータは疲れたのか、目を閉じている。眠っているかもしれない。佑も目を閉じてみたが眠れなかった。

 しばらく進むとようやく集落が見えてきた。最初に目に飛び込んできたのは、わりと大きな立派な建物が水上に浮かんでいる。華やかな色合いのブルーとイエローの建物に、凝った彫刻で飾られたドアや窓があった。これは家だろうか、それとも何か公的な建物なのだろうか。他の建物も同じように色鮮やかで装飾が多いものが多かった。

「随分エキゾチックだね」
『同じ“水郷”でもこんなに雰囲気違うのね、私も初めて来るけど』
『とりあえず船を停めたいけど、誰に言ったら、いいのかな』
 明威は考えあぐねながら、少しずつ船を集落に近づけていった。船を固定してから、明威が声をかけた。
『すみません、ここに船を停めてもいいですか?』

つづく

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