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『六区』 第五章

咲き誇る花、桜の季節。出会いと別れ。ひとつの区切り。
新しい気持ちで改めて第一歩を。
挑戦のための希望になるスタートを切って
翔けていきたい。天高く青い空を。
そんなイメージで今週も始めていきます。


火道(FO DOU)

 ラシータは頭を振った。炎は更に大きく燃え上がっている。
『無理だよ』
「勇気を出すんだ! ラシータ、大丈夫だから!」
 佑は必死に励ました。しかし、炎はさっきより大きく燃え盛っている。小さくなる事もなかった。
『僕はここを越えられない。自分でも分かっている。この暑さには耐えられそうにない』
 佑の頭にふとラシータが無理矢理越えてくる画が浮かんだ。だがあっと言う間に炎に焼かれてしまう映像だった。恐ろしくなり、思わず叫んだ。
『佑、どうしたんだ? 大丈夫か?』
 佑の事を心配するラシータの方が、汗びっしょりで本当に具合が悪そうだった。
 そうだ、ここは観念の世界。こんな妄想をしている時点で、うまくいくはずがなかった。佑は頭を抱え込んだ。炎はますます強く高く燃えている。
「なんでもない。ラシータ、ごめん」
『佑ちゃん、何謝っているの。僕の方こそ悪かった。結局最後までついていけなくて。これは僕自身の問題だよ。ここを通れないのはね』
 佑は炎の隙間から時々見えるラシータの顔を見た。さっきまであんなに近くにいて心強かった友の顔だ。
『僕もこう見えて歳だからね。少しの間だったけれど一緒に違う地区を見る事が出来て良かったよ。こんな風に急に別れを告げる事になると思わなかったけど』
 ラシータは時々汗を袖で拭った。
『佑ちゃんは、すぐに水樹と会える気がするよ。その瞬間を見届けられないのが心残りかな』
「ラシータ、また会えるよね?」
 ラシータは笑った。
『会いたいと思ってくれるんだ。ありがとう。僕も佑ちゃんとこれでお別れなんて思いたくないな。でもね……、いや、いいんだ。気をつけて』
「ありがとう! ラシータがいてくれてここまで来られたんだ。俺ひとりでは無理だった…」
 そう言った時には、もう炎の向こうにラシータの姿はなかった。次の瞬間、嘘のように炎は消えた。戻ろうとすると、もうそこはただの漆黒の闇が続くだけだった。金湖城と火道の境界は断たれたようだ。佑の心の中に何とも言えない絶望感が膨らんできた。少し前までの自信などとうに消えていた。

 本当にラシータのせいなのか。佑の妄想が影響したのではないのか。

 考えても答えは出そうになかった。前を向くと、静かな道が続いていた。道の両端にガラスの筒に入った小さな火を灯したキャンドルがその道の輪郭を際立たせるように並んでいた。佑は前に進むしかなかった。

 どこまで続いているか分らない道を進む。額から首から背中、胸の辺りまで汗が流れる。額からの汗が目に入り、更に流れる。目の前がぼやける。熱に浮かされて、ただ歩き続ける。
 この暗くて熱い道に入ってから誰もいない事に気づいた。佑以外誰もいない。額の汗を拭う。更にまた新たな汗が流れる。
 どの位進んだだろう。道以外は真っ暗で、何も見えない。ずっと同じ一本道が続いているので、距離感も分からない。
 気がつくと、前に誰か歩いている姿が見えた。佑はとにかく話しかけようと走って近づこうとした。しかし、どうにもその人との距離が縮まっている気がしない。その人は同じスピードで前に進んでいる筈なのだが、追いつかないのだ。更にスピードを上げて走ってみる。前の人は歩いているだけなのに、どうして追いつかないのか。佑は観念の世界だという事をもう一度考えてみる。目を閉じて心を無にする。そしてまた一歩踏みしめた。追いつけない訳じゃない。追いつこうとしないだけだ。
 佑は、むしろゆっくりと歩みを進めた。急いでも急がなくても同じだ。自分の行動を信じるかどうかだ。
 今度は嘘のように前の人の姿が大きくなってくる。確実に近づいたと思ったら、あっと言う間に真後ろに来た。
「すみません! あのちょっとお話いいですか?」
 佑が声を掛けると前の人は驚いた様子で振り返った。
『はい』
「金湖城から来たのですが、ここの方ですか?」
 頬被りした若い女性は頭を振った。
『私も金湖城から来ました。巫女になれたので』
「そうですか、ここには他に来た人もいますか?」
『分かりません。朝出発した方もいますし。私は日が暮れてから火道に入りました。あの、あなたはどのような経緯でこちらに?』
 女性は不思議そうにこちらを見た。
「僕は人捜しです」
『ここには巫女になれた人しか入れないと思っていました。ここに入った者は解脱するまで修行するのです。その後再び天后廟に戻って神事に携わる者と更に先に進む者と分かれるのです』
「先に進むと何があるのですか?」
『水郷という地区です。特殊な地域で住んでいる人も少なく、援助が必要な場所なのです』
「確か、陸がないとか」
 佑はラシータに聞いた記憶を辿った。
『ええ。ご存じですか。私も話に聞いただけで実際に行った事がないので、詳しい事は分からないです』
「あなたはどちらを選ばれるのですか?」
『私はまだ迷っています。神の啓示を受けて、人の為になる事をすべきだと悟ったのですが、どちらがいいのか分かりません。でもここで修行をするとどこへ行くべきかが明確になるそうです。解脱する時に道が開けるそうです』
「どんな修行になるんですか?」
『自己との対話になります。この道を歩きながら自分が生を受けた理由や成すべき事などを深く掘り下げていって、真の心の声を聞くのです』
「僕も、それをしないとここからは出られない?」
『ここに入ったという事は、求められていると思います』
「神に?」
『ええ』
「偶然入ったと言う事は」
『ないと思います』
 その女性は言葉を被せ気味に断言した。佑はポケットから天河石を取り出した。女性は食い入るように見つめてきた。
『それは、本物ですか?』
 佑は石を握りしめた。
「天河石です。本物ですよ」
 何を持って本物と言えるのかよく分らなかった。ただ、今までの事を考えると、本物としか思えなかった。掌の中でゆっくり回すと、シラー(輝き)が確認できる。
 女性は両手を合わせた。
『あなたは選ばれた人なのですね』
「分からない。最初からずっと持っているから。どうやって手にいれたかも記憶がなくって。念の為に聞きますけど、高野水樹って女性は知らないですか」
 女性は頭を振った。
「そうですか。たぶん、僕はここに来ていると思う」
『その方が同じ修行をする巫女だとすると、火道ですれ違う事はないですね。あなたに会った事も私には不思議でならないのです』
 佑は肩を落とした。その女性は反対に背筋を伸ばした。

『その方を捜しているなら、お手伝いさせて頂けませんか? これも天の思し召しかもしれないですから』
「本当? 助かります! 僕は佑と言います」
『私の事はアーシャと呼んで下さい。ここに来る前に天后廟で頂いた名前です』
「アーシャ、宜しく」
 軽く握手した後、二人は無言で歩いた。どこまでも続く道を。

 しかし、景色も変わる訳でもなく、店がある訳でもなく、何もない道を歩いていると一種の催眠状態になる。疲れも溜まってきて、思わず佑は口を開いた。
「休憩する場所とかってここにはないのかな?」
『ないですね。不眠不休で歩くしかないのです』
「え? それで倒れたりしないの?」
『分かりません。場合によっては死んだりするかもしれません』
「それ、困る!」
 アーシャはやっとくだけたように笑った。佑も笑う。
「僕はもう敬語で話さないよ、アーシャも止めたら?」
『私は修行中の身ですので。大丈夫ですよ、今の所、本当に亡くなった人はいませんから。でも、修行の途中で諦めた人は沢山います』
 その修行に自分は耐えられるだろうか。佑は巫女の選抜を勝ち抜いて来た訳でもなく、偶然ここへ来ただけだ。アーシャのように修行に対するモチベーションも高くない。でもここまで来たら、何としてでも脱落だけは避けたい。
「水を飲んだりも出来ないのかな?」
 佑はアーシャの顔を見たが、半分瞼が落ちてトランス状態に入っているようだった。佑もそれ以上修行の邪魔にならないように、黙って歩いた。
 ただひたすら歩いているだけだが、単調なだけに辛い。加えて気温が高いのもかなり不快だ。喉も渇いてきた。
 本当に二人以外は誰もいない。道の終わりもないように見える。気づくと、アーシャが背負っていた袋から水筒のような物を取り出し、佑に差し出した。
『これを飲んで下さい』
「ありがとう、君はいいの?」
 どこにも水を汲めるような場所はなさそうなので、一口だけ貰って、アーシャに返した。
『ここでは心が全てです。お腹が空いた、と思わなければ空かないし、眠らなくても平気だと信じる事が出来ればその通りになります』
 佑は観念の世界だという事を思い出していた。自分はまだコントロール出来る程ではないが、色んな地区を見る事で少しずつその感覚になれてきていた。

 水樹と会えると確信を持って思えれば、その通りになる。

 佑はまだ自分は自信を持って信じていないのだな、と思った。それでもアーシャと出会った事は少なからず佑が願った事なのかもしれなかった。
 この暗く幻想的にも見える灯の道のどこかで、水樹も修行をしているのだろうか。佑が捜している事を知りながら、どうして姿を現わしてくれないのだろうか。水樹は一体どんな目的でここに来て、どこへ行こうとしているのか。次々と疑問や問いかけが浮かんでは消えた。
 ラシータの事も心配だった。彼はもう“月圓”に戻ったんだろうか。具合が悪そうだったけど、大丈夫だったのだろうか。

道の両側に置かれているキャンドルの火が消えているものが所々あるのに気づいた。アーシャも気づいたらしく、鞄から取り出したマッチのような物で火を熾し、キャンドルに点けた。その様子を佑がじっと見ていると、微笑んで説明してくれた。
『ここの火の管理も私達巫女の役目なのです』
 そう言って、消えている所へ火を灯していった。
「この火道は一本道?」
『そうですよ』
「なのになんで誰ともすれ違わないんだろう?」
『それはひとりひとり自分だけの道を行くからだと思います』 
「でも、僕の道はアーシャと重なった」
 アーシャは少し考えてから答えた。
『それは佑さんと私に何かの力が働いた可能性があります』
「僕が無意識に願ったのかも」
『或いは私が自分に課す修行を更にレベルアップしたかったからかもしれません』
「そうなんだ?」
『他の人とは違う特別な体験を望んだのです』
 佑はそのお蔭で色々な情報を聞く事が出来たし、一緒に修行をする事で心細さも薄れた。アーシャの邪魔になっていなければいいと思っていたので、気持ちが聞けて、ほっとした。
 時々こうやって話をしたり、又無言になってお互い自分との対話に集中したりして、ひたすら歩いた。脚が痛いような気もするが、耐えられない程ではなかった。確かに眠らなくても大丈夫だった。ただ、時間がどの位経ったのかは全く分からなかった。

「アーシャ、どの位日が経ったんだろう?」
『どうでしょうね。ここの時間の流れ方は他とは違うと聞いているので、思っているより大して経っていないのかもしれません』
「寝てないからそう思うだけじゃない? 僕には数日経った感じがする」
『それはいけません。時間の概念も飛び越えないとこの修行は終わらないですよ』
 アーシャの言葉に驚いて、佑は更に集中する。こんな所で時間をかけている場合ではない。もたもたしていると水樹は修行を終えて、天后廟に戻っているか、もしくは次の地区、水郷に到着しているかもしれなかった。

 いや、天后廟に戻っているような気は全くしない。何故か水樹は先へ先へと進んでいるイメージだ。常に自分の一歩先へ。

 佑は水郷に行きたいと願った。汗が流れる。ここは何故こんなに暑いのだろう。後もう少し暑ければ、倒れると思った。水郷は、陸がなくてもここよりは遥かにマシだろう。佑は顔を真赤にした。先程までここまで暑くなかったと思うのに。

『佑さん、見て下さい』
アーシャが前を指差した。そこには天后廟があった。先程まで全く何もなかったのに、本当に唐突に現われた。
『私達、修行を終えたのでしょうか?』
 佑は汗を拭った。
「いや、天后廟に戻る訳にはいかない」
『どうしてですか? ここに入るように促されていると思います』
「ここに入ったら、金湖城に戻ってしまうんだよね?」
『そうかもしれません。でも、私は行きます。行かないと』
 アーシャは入ろうとして、振り返った。そして袋の中から水筒を取り出すと、佑に渡した。更に火を熾す道具も渡そうとして、そのまま袋を渡した。
『残るのでしたら、修行の道具、渡しておきますね。何かの役に立つと思うので』
 アーシャは自分の被っていた布を外した。アーシャの長い髪が布から解放されると、風に乗って美しく舞った。
その布を佑の頭に被せて、顎で結んだ。
『これを着けていると、温度を下げてくれるのですよ』
 確かに、途端に冷たく頭が冷やされた。
「ありがとう。君は行ってしまうんだね。本当に荷物、もういいの?」
『ここで修行が終わりかどうかは分かりませんが、とにかく私はひたすらに次の啓示を下さいと祈っていたのです。だから、天后廟が現われた時点で、私はそこに行くようになっているのです』
「気をつけて」
『佑さんも。捜している人に早く会える事を祈りますね。何も手助けになるような事が出来なくてごめんなさい』
「僕は少しでもアーシャと修行が出来て良かったよ。ここからはひとりで頑張ってみる。たぶん、水樹と会うにはひとりじゃなきゃダメな気がする」
『私もそう思います。じゃあ、お元気で』

 アーシャは走って天后廟へ入って行った。その様子をしばらく見つめていたが、段々に天后廟の存在感が薄くなって、最終的に消えてしまった。するとまた元の一本道に戻った。急激に孤独感が襲ってきた。本当は一緒に行くべきではなかったか? このままここに残って果たしてよく分らない修行を終える事なんか本当に出来るのか?
 佑は自問自答した。それでも前に進むしかなかった。自分の選択を信じてただひたすらに。

 アーシャから貰った布は不思議だった。本当に頭が冷やされるので、汗も収まった。先程の不快感が抑えられ、頭の中を整理した。

 水郷に行きたい。水郷に行けば、きっと水樹に会える。

そう思った瞬間、佑の前に又歩く人が見えた。佑は以前のように今度は焦らず、前の人の近くに行きたいと願った。気づくとすぐ真後ろにいた。今度はあっと言う間に思いが通じたようだった。
「あの、ちょっといいですか?」
 佑が声をかけても、まるで聞こえていないかのようにその人は振り向かずただ歩いている。修行中だから、精神を統一して聞こえなかったかもしれない。佑はさっきより声を大きくした。
「聞こえますか? あの、修行中すみません」
 やっと呼ばれた事が分かったのか、頬被りしたその人は振り返った。よく知っているこの顔、と思った途端、拍子抜けした。

「え……、ラシータ?」
『佑ちゃん、久しぶり!』
 前を歩いていたのはラシータだった。佑に気づくと肩を叩いた。
「どうやってここへ?」
『あれからずっと諦めきれなくて、天后寺解放の日に何度も挑戦したんだ。一年経ってやっとここに来る事が出来た。あの炎を越えてくるのは至難の技だったよ』
一年。 そんなに時が経ったのか。体感的には一ヶ月位だと思っていた。
『元気そうで良かった。また宜しくね』
「あの時もう二度と会えないかもと覚悟したのに、まさかここにいる間にまた会うとはね」
『迷惑だったかな?』
「俺も嬉しいよ。ここで出会った人と別れたばかりで心細かったから」
『他にも人がいるの? 火道では孤独だって聞いていたから佑ちゃんしかいないと思って、とにかく捜すつもりで来たんだよ』
「たまたまその人とは不思議な縁で会ったみたいだ。ここから早く出たいけど、修行を積まないと出られないみたいでさ。出来るだけ早く水郷に行きたいんだ。水樹がそこにいるような気がするから」
『分かった。とりあえず前に進めばいいのかな?』

二人は並んで歩いた。所々、キャンドルの火が消えているガラスの筒に近づいて、火を灯しながら歩いた。
『そんな事もしなきゃならないんだね』
「出会った人に託されたからね」

 ところが結構な距離を歩いた気がするのに一向に何の進展もなかった。佑は一心不乱に水樹と会えるように祈っている。随分祈る事にも慣れてきたように思っていた。
『この道は一体どこまで続いているんだろう。余りにも果てしないよ』
「この道は最初から始まりも終わりもないみたいだ。この道の終わりに辿り着くには俺達が悟らないとダメらしい」
『僕はずっと佑ちゃんの願いが叶うように祈っているんだけど、何か間違ってるのかな』
「ありがとう。いや、俺が未熟なんだよ、きっと」
 佑は元気を出す為にポケットを探った。天河石にパワーを貰いたかった。
「あれ? ない!」
 佑は自分のカバンと託された袋の中身まで丁寧に見たが、どこにもなかった。
『どうしたの? 何がないって?』
「天河石だよ」
 ラシータも驚いたように佑の服やカバンを触ってきた。
『どこかに引っかかっているとかないの、まさか、あんな大事なもの落としたの?』
 ラシータまで涙目になっていた。
「そんなはずない。ここにも持って来ていた。アーシャに見せたし…」
『アーシャ?』
 佑は、天河石を見つめるアーシャの姿を思い出した。
「まさか」
『アーシャって誰だい? 土鳳山であれだけ気を付けるように言っていたのに』
 アーシャが持って行った? そんなバカな。彼女は仮にも巫女に選ばれた人で修行中の身だったはずだ。常に人の為になる行動を目指していたはずだ。現に色々教えてもらい、助けてくれたじゃないか。
 佑の心臓が強く早鐘のように鳴り出した。後少しで口から飛び出そうだった。
『佑ちゃん、よく思い出して。いつからないの?』
「ラシータ、アーシャはとてもいい人なんだ。ここですごくお世話になった。人助けをしたいって言っていた。実際俺の事も助けてくれた」
『でも、天河石を見せたんだね。今までの流れから、天河石が誰にとってもすごい石だって言うのは分かっていたよね』
「あれを見せると、皆心を開いてくれるような気がしてたんだ」
『違うよ。皆本性が現れるだけだよ。たまたま今まで心底悪い人がいなかっただけだ』
 ラシータは溜息をついた。
『そのアーシャって娘はどこに行ったんだ?』
「はっきりとは分からないけど、突然現れた天后廟に入って行ったから、金湖城に戻ったと思う」
『分かった』

 それから二人はしばらく口を聞かなかった。ラシータは怒っているのだろうか。佑も自分自身が情けなくて腹が立った。
 アーシャが本当に盗ったかどうかは分からなかった。自分の不注意で、この道のどこかへ落としている可能性もある。
「ラシータ、俺は来た道を戻ってみるよ。もしかすると、転がっていたりするかも」
『僕はこのまま進んでみるよ。天后廟が現れたら、すぐさま飛び込む』
 佑はラシータの顔を見つめた。ラシータだって、天河石が大事なのか。もしかすると、自分なんかより。
「うん、頼んだよ」
 佑は消えそうな声で言った。
 ラシータは胸元からカードを取り出した。自分が“月圓”の代表である事を示す大事な身分証明書だ。それを佑の右手を掴んで、掌に載せた。
『これ、預けとく。言っておくけど、横取りしようなんて、これっぽっちも思ってないから』
 ラシータは躊躇う事なく、すぐに歩いて行った。佑はしっかりとカードを胸元に仕舞った。
 どうしてここまでして俺を助けてくれるんだ。一瞬でもラシータが本当の狙いは天河石なのかと疑ったのが恥ずかしかった。こんなにも信用してくれているのに。頭が上がらない。

ラシータと別れてからの戻る道で佑は天河石が落ちてないか、注意深く見ながら歩いた。出来れば自分の不注意であってほしい、アーシャを疑いたくないと思いながら目を凝らした。しかし、いつまでたっても天河石は出て来なかった。
本当にアーシャが盗ったのだろうか。天河石がここで物凄い価値のあるものだって解ってはいるが、これから解脱しようかという者が欲に目が眩んだりするのだろうか。

そもそもアーシャだって本当に巫女だったかどうかなんて分からないじゃないか。

佑は考えても仕方がない事をいつまでも思い悩んだ。

水樹に会うには、天河石が必要だ。

 佑はアーシャから貰った布を頭から取って、地面へ捨てた。途端に熱気が押し寄せる。そのまま歩こうとして、はっとした。目の前に天后廟が現われたのだ。消えないように祈りながら慌てて佑は走って対になる獅子が守る門から中に入った。
朱色の柱が続いていて、天井には大きならせん状の線香が沢山ぶら下がっている。線香の煙が目に沁みる。佑は瞬きをして、周りを見渡したが、誰もいない。

本当に誰もいないのか? でも、天后廟が現れたという事は、何かあるはずだ。

佑は注意深く、廟の中を回ってみる。隅の方に地下へと続く階段を見つけた。そのまま下りてみる。階段は深く続いていた。時々、壁に福と書かれたポスターが逆に貼ってあったり、お札のようなものが貼ってあったり、落書きのようなものがあったりした。薄暗くはあったが、真っ暗な訳でもなく、階段を下りる事には何の支障もなかった。ようやく扉を見つけ、中に入ると、再び線香の強い香りがした。長くて太い黄色の線香が三本立ててあって、煙が静かに上へ立ち昇っている。灰になった部分が下へ崩れ落ちた後、床に頭を垂れ、熱心に拝む人が見えた。
「あの、御祈祷中、すみません」
 佑が声をかけると、その人は立ち上がって振り向いた。なんと、アーシャだった。
『佑さん? どうしてここに?』
「アーシャ、ずっとここにいたの?」
『はい、事情がありまして。またお会いするとは思ってみませんでした』
「アーシャ、単刀直入に聞くけど、僕の天河石を知らない?」
『知っていますよ』 
 アーシャは平然と言いながら、正面に祀られている神像を手で指し示した。
『こちらが媽祖です。海をお守りする神様です』
「それで天河石はどこにある?」
『こちらに祀らせて頂きました。佑さんがお捜しの人と出会えるようにもずっと祈っています』
「いや、あの」
『きっと間もなく願いを叶えて下さいます』
「あの石は僕のなんだけど」
『ええ、分かっています。でも石が私に訴えてきたのです。神の御許に行きたいと』
「石が何だって?」
『石の意志が佑さんより神を選んだのです』
「石のイシ? ふざけんなよ! 盗んだんだろうが!」
 佑が声を荒げても、アーシャは冷静だった。
『そう思われても仕方ありませんね。石の方からこちらに来たので。気づいたのは天后廟へ来てからです』
 佑はアーシャの話をいくら聞いても納得出来なかった。
「とにかく返してくれ」
『残念ながら今はもうここにはありません』
「何? 適当な事を言うな!」
『本当です。数日前にここへ来た方が持って行きました』
「でも石は神の御許に行きたかったんだろ? 何故渡したんだ」
『私は渡していません。石自体がそれを許したんです』
 佑の怒りは更に噴き上がったが、どうにか耐えた。
『石はしばらくの間媽祖と一緒に祀らせて頂いたので、更にパワーを受けているようでした。佑さんの元を離れて、次の方の元へ行く運命だったのでしょう』
 一体誰が持って行ったというのだろう。もしかして、佑が来る前にラシータが持って行ったのか。それなら、いいのだが。
「もう、いいよ。とにかくここにはないんだな」
『はい、そうです。佑さん、ここからは本当に自分の心だけを研ぎ澄まして下さいね。誰に依存する事もなく、自分が思う通りに動いて下さい。そうすれば、いずれまた天河石と再会すると思います。もちろん、捜している方とも』
 アーシャは悪びれる事なく微笑んだ。佑は肩透かしを食らった気持ちになった。
「じゃあ、もう行くよ」
『佑さん』
「何?」
『私の代わりにキャンドルの火を絶やさないように火を点けて回って頂いて、本当に感謝しています』
 アーシャは頭を下げた。

 何でもお見通しって事か。

 佑はやっとここでアーシャの言う言葉が真実なのかもしれないと思い始めていた。
『私は次の段階に入るまではここで祈祷を上げています。いつでも何かあればいらして下さい。お力になれる事があれば、言って下さいね』
「ありがとう。疑ってごめん。あの石は俺にとって大事な物だから。もし戻ってくるような事があれば、教えてほしい」
 アーシャは頷いた。佑はそれだけ言うと、再び階段を上がった。また気が遠くなる程階段は続いた。ようやく本殿に戻ってきて、佑は外に飛び出した。息がぜいぜいと切れ、しばらく前屈みになって呼吸を整えた。汗が一気に吹き出してくる。振り返ると、天后廟は嘘のように跡形もなく消え、またキャンドルが照らす暗い道に立っていた。ふと足元を見ると、先程投げ捨てた布が落ちていた。佑はそれを拾うと、頭に再び被せて、顎元で括った。暑さが少し和らぎ、ほっとして溜息を吐いた。

 佑は今度は再び前に進む事にした。もうこれ以上戻ったとしても天河石は出てこないだろう。アーシャの言う事が本当ならば、幾ら探してもここにはないはずだ。

 しばらく進むと、前から人が歩いてくるのが見えた。ラシータだ。佑は思わず駆け出した。
「ラシータ、どうだった?」
 ラシータは頭を振った。
『だめだった。天后廟も出てこなくて』
 ラシータが天河石を持って行ったわけではなかったのか。佑はがっかりした。
「俺はアーシャに会ってきた」
『本当? それで?』
「天河石の意志で、天后廟にしばらくあったようだけど、数日前に誰かが持って行ったって」
『誰かって誰?』
「よく分らないんだ。でも、アーシャは嘘をついているようには見えなかった」
 佑は胸元から預かっていた身分証明書のカードを取り出して、ラシータに渡した。
「これ、大事な物だから、むやみに他人に渡しちゃダメだよ」
『佑ちゃんにとにかく信じて貰いたかったんだ。僕の方は君に対して絶対的な信頼があるけど、君にはないだろうから』

 絶対的な信頼? 何をもってそんな事が言えるのだろうか。

 佑とラシータは並んで歩いた。この始まりも終わりもない道を。

「基本的にはこの道で人とすれ違う事はないからね」
『修行する処だからね。僕もこっちに来る前に聞いたよ。ここに来るのは巫女か、神事に携わる者だけだって。佑ちゃんと僕は全く特殊というか、本来なら入る事が出来ない場所みたいだよ』
「うん。俺も天河石を持っていたからここに来られたんだと思う。ラシータは執念だね」
『執念って、そんな暗い感情じゃないよ。ただ、佑ちゃんの所へどうしても行きたくなったんだ』
「それが執念だよ。あの炎を渡れなかったのに、ここまで来るとは」
『佑ちゃんも会いたいと思ってくれたからじゃないかな。簡単にはいかなかったけど』
「そうかもね。ひとりになる覚悟が足りなかったんだ」
『そんな事ないよ。でもここからは僕の力が重要になるよ。僕が天河石並の力を発揮する』
 佑はラシータの顔をまじまじと見た。
「その自信はどこから来るの?」
『長年の経験と知識から』
「あ、そう」
 ラシータは笑った。壮大なジョークだとでも言うように。実際ラシータは佑にとって頼りになる存在であり、希望であった。
 歩きながら二人は色んな話をした。

「もしこのまま永遠にずっと歩き続けなきゃいけないとしたらどうする?」
『そうやって言葉にされたらぞっとするけど、案外楽しんだりして』
「そう言うと思った」
『だって、他に選択肢がないんだったら、もう楽しむしかないでしょ』
「“月圓”が心配じゃないの?」
 ラシータは静かに答えた。
『心配はないよ。皆、精神的に強い人達ばかりだ』
「でも、孫のハッシの事とか」
『ハッシ、会いたいな。佑ちゃんが水樹を見つけたら、安心して“月圓”に戻るよ』
「ごめん、結局は俺のせいだよな」
 ラシータは笑って佑の肩を叩いた。
『ううん、僕が佑ちゃんと一緒に経験を共にしたかっただけ』

 二人は更に歩き続けた。不眠不休で。体はもう意識しなくても前に進む。歩いているという事すら忘れそうな位に勝手に前に進む。精神的な疲れはあるが、体力的にはじんわり脚が痛いだけで不思議と大丈夫だった。この変わらない景色の永遠に続くかと思われる道は終わる事がなかった。

『もう気づいているよね』
「何?」
『ここから抜け出すには闇雲に願って前に進むだけじゃだめだって』
「そうだね。水樹に会いたいと願っても、“水郷”に行きたいと願っても全然叶わない。やっぱり天河石がないからここから出られないのかな」
『佑ちゃんは天河石がなくても、天后廟には行けたんだよね。それなら天河石は関係ないよ』
「そうだけど、不安なんだ」
『それ』
「え?」
『その不安な心が次へ進めないようにしているんだ。もっと気を楽にして、明るい未来を信じようよ』
「そんな簡単にはいかない」
『どうして? 今までだって何とかなったじゃないか。これからだってどうにでもなる。もし自分が信じられないならさ、僕の事だけでも信じてみてよ。僕がいるから何とかなるっていう風に』
 佑は素直に、そうだね、と返した。確かにこの世界に来て一番信じられるのはラシータだった。今自分の傍にいるラシータを信じなくて、何を信じられるだろう。
 “火道”に来るのは大変だっただろうに、諦めずに挑戦して来てくれた。いつでも助けてくれた。
『少なくとも僕がいる事で佑ちゃんの気が休まるなら、何でもするよ』
「何でも? 例えば?」
『そうだね、僕が佑ちゃん位若い頃の話とかしてあげようか』
「面白そう、聞きたい!」
『僕には最初から決まった婚約者がいたけど、それが嫌で家を飛び出したんだ』
「へえ、どこに行ったの?」
『多分、“月圓”を出て、“木地”に入ってしまったと思う。そこには小さなおじさん達ばかりで女の子なんて、居やしない』
 佑は笑った。一郎達を思い出したからだ。
「それで、ラシータは女の子にされたの?」
 ラシータは頭を振った。
『そんな訳ないだろう。佑ちゃんじゃあるまいし』
「俺だって、好きでああなった訳じゃない」
『まあまあ、佑ちゃんが普通に男だったら、僕は声をかけてないから、あれも必然だったと思うよ』
「ラシータに出会う為の儀式だったって言うのなら、俺も受け入れるしかないか。それで、結局その婚約者とどうなったの?」
『破談になった。そりゃあ、別の地区まで逃げた位だからね。相手には申し訳なかったけど、誰が相手でもその時は嫌だったと思う』
「じゃあ、実際結婚したのはいつ?」
『三十半ばだったかな。たまたま同じ仕事をしていた仲間だったけど、不思議な人で気づいたら、その人がいない人生が考えられなくなった』
「ロマンチックだね」
『でも、十年位しか一緒にいれなかった。彼女も若い頃の僕のように、“月圓”から出て行った』
「どうして出て行ったの?」
『分からない。僕に不満だったのか、この地区に不満だったのか、それも分からない。娘もいたんだけど、置いて出て行った』
 ラシータの横顔を見ながら、佑はラシータの人生を想像した。何故か暗い側面は全く想像出来なかった。
『だから佑ちゃんが必至になって水樹を捜す気持ちはすごく分かる気がするんだ。僕は彼女を捜さなかったけれど』
「それはどうして?」
『僕も出て行った時、放っておいてほしいと思ったから、きっと彼女もそうだって思った。それに戻りたくなったら、すぐ戻ってくるだろうと軽く考えていた』
「戻らなかったの?」
『うん。僕は戻ってきてほしかったけれど、彼女が戻りたくないなら、仕方ないかなって。彼女の意思を尊重したいからね。彼女には幸せでいてほしいから』
「でも娘さんもいたのに」
『娘にはかわいそうだったと思っている』
「別の事情だったりしないの? 例えば誘拐されたとか」
『書き置きが残されていたからね。でも出て行く理由は書いてなかった。ただ、捜さないで下さいとだけあったんだ』
 佑も水樹が捜してほしくないと思っている可能性を考えた事がある。実際のところ分からないが、佑は捜さずにはいられなかった。直接会って話がしたいし、確かめたい。
「本当は捜してほしいけど、そう書かざるを得なかったとか」
 ラシータは目を閉じた。
『だとしたら、僕は相当な愚か者だよ』
「ごめん。これは単なる仮説だから。気にしないで」
『その仮説が正しかったとしても、今更何も出来ない』
 佑は余計な事を言ってしまったと思った。本当の所、なんて分かりようがない。ラシータの奥さんに会って本人に聞かない限り。
「ラシータ、奥さんに会いたいと思わない?」
 ラシータは一瞬黙った。佑はそれまで意識していなかった感情が湧きあがった。ラシータが奥さんに会えればいいのに。いや、会っている所を見たい。ラシータが喜ぶ顔が見たい。

『会いたい』

 ラシータがそう言ったかと思うと、目の前の景色が変わった。火道は終わり、その先は暗い湖が広がっていた。

「この先はどうなっているんだろう?」
『ここからは泳いで行かないといけないのかな』
「でも、どの位の距離なのか見当がつかない」
『この湖は“水郷”に繋がっているかもね。でも、ここの情報はほとんどないよ。陸がないって聞いた位だから、人がいるのかどうかも分からないね』

「ねえ、ラシータ、ここは観念の世界だって言っていたよね? ここでは死は存在するの?」
『もちろん』
 佑は肩を落とした。
「俺がこの湖に飛び込んだら、死ぬのかな」
『佑ちゃん、泳ぎは得意?』
「全然。むしろ泳げない方だと思う」
『じゃあ、飛び込むのはよそうよ』
「だって、ここが観念の世界だとしたら、信じる者は救われるんだよね?」
『そうだけど、自信あるの?』
「今ならブレない自信がある」

 ラシータが奥さんともう一度会えるなら、いくらだって飛びこめる。実際飛び込んだら会えるような気がする。そして、死なないような気もする。或いは死んだとしても、次の局面へ進める気がする。
 佑は不思議な事に恐怖心がなくなっていた。ここで怯んだら、また何も出来なくなりそうだった。
『佑ちゃん!』
 ラシータが叫ぶのと同時に佑は湖に飛び込んだ。

つづく

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