漢字廃止と死のポエム

定期的に話題になるらしいデスポエムの話題からインターリンクをたどって辞世の項目を読んでいて気になる記述があった。

江戸期は辞世文学における一つの頂点を迎えるといってよいだろう。また、政治的な理由で死を選ばざるを得なかった人々が辞世に漢詩の詩形を用いたこともこの時代の一つの特徴であり、これは自らの社会的な志を述べるのにこの詩形が最もよく適していたことを示している。

辞世の句というと和歌の形式だという印象があったが漢詩の辞世もあるのか。
また「社会的な志を述べる」というところで昨年末に読んでいた中川正之
の『漢語からみえる世界と世間』を思い出した。
「五 世界と世間」の「2 世界語『人類』と世間語『人間』」にて中国人日本語学習者による

(私が日本語の勉強を始めたのは)栄光ある人類の未来のためです。

という作文に日本語母語話者が感じる違和感の説明として「世間語」と「世界語」という考え方を導入していた。
即ち日本語学習という個人の出来事に「人類」や「未来」といった世界語が接続されることによる違和感だということなのだが、語彙選択の問題から一歩踏み込んで世間語が副詞に近づくという認知についても触れられていた。

(世界語)⇔(世間語)
未来⇔将来
人類⇔人間

日本語の表音文字化を考える際に挙げられがちな同音異義語の問題は日本点字を範に語彙を拡充すれば十分可能だと考えていたのだが、そういった表層的な語彙の問題ではなく江戸期から続く日本人のものの感じ方の問題であるならば日本語の表記法はもっと根深い問題なのかもしれない。

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