半額になっても弁当は美味しくはならないはずだが
月曜の昼間に埼玉FM聞いてたら栗林さみの番組でテーマ投稿に来たメールのひとつが「同じ値段の半額弁当と食べたい弁当どっちにしようか迷う」みたいな話だった。
同じ値段なら食べたい方を買えばいいのになぜ悩む必要があるのか理解できなかったが、弁当の味わいよりも値引き品を買うお得感を優先すればそういう悩み方もあるのか。
夕方のスーパーで自分が弁当手に取った後に数分差で同じ弁当に値引きシール貼られたりしたこともあってそれを昔は損した気分になったりもしたけど、値引きシールに群がる人々に先んじてその弁当にそれだけの価値を認めていた自分を否定しなくてもいいかなと最近は考えている。
ラジオずっと聞いてると通販番組が箱番組として日中何度も挿入されるのだがその日はつぶれ南高梅を宣伝していた。
その中の1回で「潰れたお陰で食べられる」みたいな言い方の回があって先述の弁当の事もあっていやらしく聞こえた。
コロナの時も外食需要が激減してそちら向けの食材が通販に出回ってきていて、ラジオ通販の人たちはそれらがいかに高級かを訴求するのだけれども、下手な宣伝だと「普段おまえらの手が届かない食い物だぞ」というような嫌味に聞こえるような言い方になっていた。
謝罪に追い込まれた99岡村コロナ明け風俗美人増加見込み発言と同じく「値ごろ感」「お得感」の表明はTPOを弁えた上でさらに言い回しの工夫が難しい気がする。
通販番組なので価格の話題は避けて通れないものではあるのだが、個人的には先の弁当も含めて五感よりも金額の数字に振り回されるというのは野暮に思える。
同じラジオ局の夕方の番組で自分が1万円するコンサートチケット買った後でyoutube無料中継が決定されたという文句のメールが紹介されてた。
無料で配信見られるなら現地行かないという判断をする人がメールを書いているというのであれば文意は理解はできる。
ただそうした気持ちを他人に説明して同意ないし同情を得ようという感覚は理解できない。
買ったチケットが自分にとって「無価値」になった、ないし自分にとって「無価値」なものに1万円も払っていたという自己認識の誤りの是正(いわゆる「失敗談」)としてならぎりぎり理解はできるが、メールの人は無料中継決定後もチケットに1万円の価値があると感じているのだろうか?
「不特定多数が見られるコンサートには自分が見出していた価値はもうない」なのか「今でもコンサートチケットに1万円の価値は残存しているが金を払っていない奴らがコンサートを体験できるのが許せない」なのか、あるいはまた別に怒りの理由があるんだろうか。
まあ前者も後者も気の持ちようなのだとは思うが前者の自分だけが理解しているみたいな優越感の消失なのか後者のような金銭的な利得(見かけ上の価値逓減)で今後のファン活動の在り方を見直す契機にはなりそうではある。
どっちにしろ自身の内心の問題をラジオでぶちまけるのはもっと日の高い時間帯なんじゃないかとは思った。
なんだかんだ書いたけれども金の損得の話にいまいちノれないのは自分以外の金銭的利益を監視してその分け前に預かろうとする社会性のなさの表れのような気もしてきた。
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