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強烈な努力

2009年の最後の最後に行われたG1レース東京大賞典。運命のいたずらか、それとも皮肉と言うべきか、このレースの人気を分け合ったヴァーミリアンとサクセスブロッケンの鞍上にいたのは、その年のリーディングジョッキーを最後まで争った武豊騎手と内田博幸騎手であった。しかも枠順は隣り合わせと、これでお互いを意識しないはずがない。内田博幸騎手としては、勝って自身のリーディングジョッキーと古巣の大井に錦を飾りたかっただろうし、武豊騎手としても、リーディングジョッキーの座を奪われた内田博幸騎手になんとしても一矢報いたかったに違いない。

ゲートが開き、年の瀬の人々の忙しさや熱狂を秘めるかのように、レースは淡々と流れた。大井競馬場の2000mコースはスタートから第1コーナーまでが長いため、大外枠を引いてしまったヴァーミリアンとサクセスブロッケンも、比較的スムーズにレースの中に溶け込んでいった。レースが動いたのは、ルメール騎手が操るゴールデンチケットが4コーナー手前から捲くりをかけた瞬間である。スタンドからは、「こうでなくっちゃ」とばかりにどよめきが湧いた。

ここからの2人のジョッキーの動きが対照的であった。先に動き始めたのは、サクセスブロッケンの内田博幸騎手。動き始めたというよりは、前にいる馬たちを射程圏に入れるために距離を詰めなければならなかった。思いのほか、サクセスブロッケンが大井競馬場の砂を苦にしていたのかもしれない。対する武豊騎手の手綱はほとんど動かない。自分の下で疾駆するヴァーミリアンの力を信じていたのだろう。大敗した前走のJCダートの時とは違い、手応えの良さを手綱から感じ取っていたのかもしれない。静と動。直線に向いた時には、武豊騎手は勝ったと思い、内田博幸騎手はなんとか2着を死守するのが精一杯と感じたに違いない。

フォームなど気にかけることもなく、馬を叱咤激励し、手綱を押し続ける内田博幸騎手の姿を見て、あの頃の記憶がふと蘇ってきた。私が競馬を始めて数年が経ち、時間だけはたくさんあった学生時代に、地方競馬場に通ったあの頃。当時の南関東には石崎隆之、的場文男、佐々木竹見という百戦錬磨のベテランジョッキーが君臨していて、この3人を馬券に絡めなければ、まず当たらなかった。それほどの寡占状態において、当時20代半ばであった内田博幸騎手でさえ、その他大勢の中のひとり、ワンオブゼムに過ぎなかった。

それでも、私が内田博幸騎手を鮮明に覚えているのはなぜだろう。おそらく、私が彼の馬券をよく買ったからではないだろうか。人気馬でもなく、全く力が劣るという馬でもない、ソコソコの人気の馬に内田博幸騎手はよく乗っていた気がする。何をやっても上手くいかない貧乏学生の私が、人気で磐石のベテラン騎手ではなく、人気薄の馬に乗る若手ジョッキーに肩入れしたのは当然だろう。高く厚い体制の壁をブチ壊して欲しいという願望から、勝手にシンパシーを感じていたのかもしれない。だが、私のそんな願いなどもちろん叶うはずもなく、内田博幸騎手はいつも直線で馬群に沈んでいった。だから、私にとって内田博幸騎手の印象は、「あまり上手くないジョッキー」であった。いや、事実そうだったのだろう。

その内田博幸騎手が、中央競馬の大舞台でリーディングジョッキーとなり、中央の馬を擁して東京大賞典で必死に馬を追っている。あの頃から10年以上の歳月が流れ、彼はその間にどれだけの強烈な努力を重ねたのだろうか。劣勢に思われたサクセスブロッケンが、中央競馬の天才が脚を伸ばすヴァーミリアンに一歩一歩近づいていく。

「努力すれば天才をも超えられる」と彼は語った。努力を惜しんだ私は、何も変わらない平凡な人生を送っている。寒風吹きすさぶ競馬場のモニター越しに、私はあの頃と変わらない精一杯の声援を送った。「ウチダッ、ウチダーーァ!」ウイニングランで何度も何度もスタンドに向かってガッツポーズをする内田博幸騎手を見て、彼の勝利がまるで自分のことのように誇らしかった。

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Photo by Scrap


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