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理想的なサラブレッドによる理想的なレース

「ダートのサイレンススズカみたいですね」

2011年の帝王賞を9馬身差、しかもノーステッキで制した後、勝ったスマートファルコンを称して、武豊騎手はこう語った。その言葉には、逃げて圧勝したということ以外に、深い意味が含まれている。下手に抑えてタメ逃げをするよりも、他馬がついて来られないほどのペースで飛ばした方が持ち味を発揮できる。オーバーペースがマイペース。そう、あのサイレンススズカのように、武豊騎手が理想的と考える競馬ができる馬という意味である。

スマートファルコンの凄いところは、道中をハイペースで飛ばしたほうがしまいまでしっかりとした脚でまとめられること。アメリカの超一流馬に共通した特長がそれなので、いよいよそういう馬になったのではないかと感じています。(「武豊オフィシャルサイト」より)

ここで武豊騎手が書いている「道中をハイペースで飛ばしたほうがしまいまでしっかりとした脚でまとめられる」には多少の語弊があると思うので、補足させてもらいたい。

サラブレッドは1ハロン15秒より速い時計で走ると、その分、無酸素系のエネルギーを消費してしまい、体内にカルシウムイオンが放出され、筋肉が収縮するとされている。速いペースで走れば走るほど、後半にかけて筋肉に疲労が残り、思うように走れなくなってゆく。だからこそ、理想的なペース配分とは、いかにレース終盤までエネルギーを温存して走るかということになる。つまり、肉体的なことだけを考えると、個体差こそあれ、道中をハイペースで飛ばしたほうが良いという馬は存在しない。

しかし実際には、道中をハイペースで飛ばしても、エネルギーを終盤まで温存したと同じくらい、最後までスピードが落ちない馬がいる。サラブレッドは馬体を伸縮させて走るのだが、こういった馬はスピードに乗るほどにフットワークが大きくなっていき、まるで慣性の法則に則るかのように、そのフットワークをゴールまで保つことができるのだ。無尽蔵なスタミナや強靭な筋力という肉体的な特性に支えられていることは間違いない。道中をオーバーペースで飛ばしても、最後までフットワークが乱れないという、超一流馬しか持ち合わせない稀な特長である。

もうひとつ、肉体と精神はつながっているため、たとえペースが速くても、リラックスして走れる方が、スピードが落ちないという馬がいる。たとえば、サイレンススズカは後ろから突かれるような逃げ方だと興奮してしまい、また前に馬がいる形だと追いかけたくてウズウズしてしまったという。その馬の肉体、精神に合ったリズムの走りができるからこそ、余計なスタミナを奪われることなく、最後の直線に向くことができる。他馬を大きく離すことで、リラックスして走ることができるということだ。

武豊騎手は、「アメリカの超一流馬に共通した特徴」とも書いているが、かつて日本にもそういう馬がいた。クロフネである。決して脚を溜めてビュッと切れるタイプではないが、大きなフットワークで、どこまで行ってもバテない馬であった。芝のレースでもNHKマイルCを勝ってはいるが、その特長を生かすにはダートという舞台は最適であった。

たった2戦しかダートを走ることはなかったが、武蔵野Sは9馬身差の圧勝で、1600mを1分33秒3という日本レコード。ジャパンカップダートは7馬身差をつけて、2100mを2分5秒9という世界レコードである。最初からダートだけを走っていたら、この馬は1度たりとも負けなかっただろう。それぐらい、日本で走ったダート馬の中ではポテンシャルが抜けていた。過去のどの最強ダート馬と比べてもだ。

アメリカの超一流馬では、マンノウォー、セクレタリアト、シービスケットなど、他馬を圧倒する天性のスピードがあり、スタートしてから脇目も触れることなくガンガン飛ばし、勝負所でも自ら動き、他馬が脱落していく中でも、最後は気持ちでもうひと伸びして突き放す。アメリカの超一流とされる馬のほとんどは、そうして大レースを勝ってきた。

大昔の名馬ばかり挙げても実感がないという方には、私の思い出の中でのアメリカの超一流馬を紹介したい。スキップアウェイという1997年のブリーダーズカップクラシックを勝った超一流馬。決して良血とはいえない安馬だったにもかかわらず、アメリカ競馬の頂点まで登り詰めた馬である。日本の競馬がまさにこれから世界へと向かおうと意気込んでいた時代だけに、おそらく武豊騎手にとっても、アメリカの超一流馬の中の1頭として数えられているに違いない。有り余るスピードと前向きな気性で他馬を圧倒する様は、“スキッピー”という愛称からは程遠く、これぞアメリカの超一流馬という走りで、今でも記憶に鮮明に残っている。

武豊騎手はサイレンススズカを理想的なサラブレッドと呼んだ。ディープインパクトやオグリキャップなど数々の名馬の背を知る武豊騎手が、である。なぜかというと、たとえば2000mの芝のレースにおいて、前半の1000mを58秒台、そして後半を同じく58秒台でまとめられる馬こそ、理想のサラブレッドだと武豊騎手は考えたからである。

「競馬は、最後にいい脚を残したいから、前半を抑えていくことを考えるわけじゃないですか。でも、本当に理想的な競馬はいきなり先頭に立って、最後もいい脚を使う。これができる馬が理想のサラブレッドなんです。つまり、負けようがない」

理想のサラブレッドによる理想的なレース。その完成を観ることは遂に叶わなかったが、まだ彼はあきらめてはいないのだろう。ジョッキーとしてはあらゆるものを手に入れたはずの武豊騎手が、己の肉体に鞭を入れ、馬の背に跨り続けている理由はここにあるのかもしれない。サイレンススズカやクロフネ、スマートファルコンがターフから去り、新しい理想のサラブレッドはいつ私たちの目の前に現れるのだろうか。


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