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陽気で軽やかな脚取りで

日本競馬史上、ダービーを勝った牝馬は3頭いる。ヒサトモ、クリフジ、そしてウオッカ。ヒサトモとクリフジが優勝したのは戦前のことであり、クリフジとウオッカの間にはなんと64年の歳月が流れている。ウオッカと同時代を生きた私たち競馬ファンは幸せである。私たちが生きている間に、一度出るか出ないかという次元の牝馬であったのだ。私たちがウオッカを愛してやまない理由の根源は、そこにあるのかもしれない。

当然のことながら、日本ダービーを勝った3頭の牝馬は強い。ウオッカの強さは周知の通りであり、クリフジについても、ミスター競馬こと故野平祐二氏が最強馬と称して憚らなかった。しかし、牝馬にして初めてダービーを制したヒサトモについてはどうだろう。名前すら知る人の方が少ないのではないか。ということは、ヒサトモの輝かしい戦績だけではなく、その後に辿った数奇な運命についても知る人は少ない。

ヒサトモの父はトウルヌソルというイギリスから輸入された種牡馬である。産駒から6頭のダービー馬が出たことだけを以っても、トウルヌソルが現代のサンデーサイレンスのように日本競馬の一時代を席巻したことが分かるだろう。当時の良血として生まれたヒサトモは4戦2勝の戦績を引っさげてダービーに果敢に挑戦し、見事に牡馬たちを蹴散らした。レコードのおまけ付きであった。その後も6連勝して、華やかな現役時代を送った。

ところが、繁殖牝馬としては受胎率が悪く、11年間で4頭の仔を出したのみにとどまった。ブリューリボンとヒサトマンの2頭がわずかに勝利したのみで、とても日本ダービーを制した名牝の仔とは見ても見つかなかった。その後も不受胎が続き、繁殖牝馬としては半ばあきらめられてしまっていた頃、ヒサトモのオーナーの元にこんな知らせが届いた。

「ヒサトモを走らせてみないか?」

戦後の混乱期でもあり、オーナーはヒサトモを養うことはもちろん、自分の暮らしもままならない生活が続いていた。そんな貧況においては、たとえ自分にダービー馬のオーナーという栄光をもたらしてくれた牝馬でさえ、売るという決断をせざるをえなかったのだろう。ヒサトモは15歳にして、再び競馬場で走らされるため、南関東の厩舎に入った。

11年ぶりのレースに出走したヒサトモは、初戦こそ5着に敗れたものの、2戦目は持ったままで楽勝した。老いてもさすがはダービー馬と関係者は手放しで喜んだ。次走、ひとつ上のクラスで走るため、さらに強い調教がヒサトモに課せられていった。ヒサトモはダービー馬の意地を持ってこれに耐えた。しかし、悲劇は突然に起こった。調教が終わり、厩舎に帰る途中、ヒサトモは突如崩れ落ちたのだ。心臓麻痺。息はすでになかった。そして、亡骸は処分されてしまったという。日本ダービーを制した初の牝馬、ヒサトモの眠る墓はどこにもない。

トウカイテイオーはヒサトモから1本の血筋を引き受けている。完全に消えてしまったと思われたヒサトモの血が、かろうじてつながったというべきか。わずかに残した4頭の仔の1頭であるブリューリボンからトップリュウ、トウカイクインへと、大きなレースこそ勝てなかったが、中下級条件で秘かに血脈をつないでいった。トウカイテイオーのオーナーである内村正則氏が初めて持った馬が、実はそのトウカイクインである。配合種牡馬の割に走ったトウカイクインの血に、ヒサトモの影響を見出したのもこの内村氏であった。内村氏はヒサトモの血を復活させるべく、ファバージ、ナイスダンサー、シンボリルドルフという当時の一流種牡馬との配合を続けた。そうして20年近い年月をかけて誕生したのが、トウカイテイオーなのである。

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皇帝シンボリルドルフの仔であり、気品溢れる馬体や雰囲気から、おぼっちゃまというイメージを持たれがちなトウカイテイオーであるが、その母系には馬と人のオドロオドロしいまでの情念を宿している。完膚なきまでに敗れても、何度も立ち上がり、最後には私たちを驚かせる復活劇を見せてくれたトウカイテイオーの強さの源泉はここにあったに違いない。あの走りはトウカイテイオーだけのものではなかったのだから。岡部幸雄騎手が思わずガッツポーズをしてしまったジャパンカップにせよ、1年という長いブランクを克服して勝利した涙の有馬記念にせよ、全てが人智を超えていた。ヒサトモの暗い影を微塵も感じさせない、あの陽気で軽やかな脚取りで歩くトウカイテイオーの血引く馬たちをまたどこかで見てみたい。

Photo by Photostable

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