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幻想の最強馬ナムラコクオー

誰しもが、“この馬こそ最強”という幻想を抱いた馬がいるのではないだろうか。特に競馬を少しずつ知り始めた時期に、そういった幻想に取り付かれることが多い。私にとっては、ナムラコクオーがそうであった。

ナムラコクオーの走りに戦慄を覚えたのは、2歳時(当時3歳時)のラジオたんぱ杯3歳ステークスであった。前走はダート戦で圧勝も、6番人気と評価は低かったが、それをあざ笑うかのように4馬身差の圧勝。他馬とは脚力が違い、直線の末脚は、まるで“飛んでいる”ように当時の私には見えた。ナムラコクオーは強いと、友人知人に触れ回ったのを覚えている。

その思いが確信に変わったのが、次走のシンザン記念である。2着馬になんと7馬身もの差をつけて、楽勝してしまったのだ。直線での脚力はさらに迫力を増し、“ジェット機が飛んでいる”ように当時の私には見えた。後楽園ウインズのモニターの前で、その強さに私はしばし震えが止まらなかった。

しかし、次走の弥生賞は、フレグモーネで3日間ケイコを休んだせいか、3着とまさかの敗戦。さらに悪いことに、クラシック本番の皐月賞を前にして、なんと屈腱炎を発症してしまう。競走馬にとって屈腱炎がどれだけ致命傷になるかは、ナムラコクオーに教えてもらったのだが、この頃は、またすぐに強いナムラコクオーに戻ると楽観していた。

そんな私の期待に応えてか、ナムラコクオーは不治の病である屈腱炎を克服し、NHK杯で見事に復活してしまう。もうこの時点で、私の幻想はピークに達していた。あのナリタブライアンに勝てるかもしれない。いや、出走してくれば絶対に勝てる。ナムラコクオー必勝の思いは、ダービーの日が近づくにつれて大きくなり、もはや自分の胸の内に抑えておくことすらできなくなっていた。おかげで、私の周りにいた競馬仲間も、ダービーではナムラコクオーがナリタブライアンを倒してアッと言わせるといつしか信じ切っていた。あれほどまでに、ダービーまでの時間が長く待ち遠しく感じたことはない。

その後のナムラコクオーの競走成績は、ご存知の通りである。今であれば、能力が圧倒的に高い、パワー型の短距離馬であったことは容易に分かる。仮にナムラコクオーが絶好調だったとしても、芝の2400mではナリタブライアンの影も踏むことができなかったであろうことも。しかし、頭では分かっていても、やはりナムラコクオーの方が強かったという想いを自分の中から消し去ることができない。たとえ幻想であろうが、思い込みであろうが、私の中のダービーでは、ナムラコクオーが圧勝している。ナムラコクオーの名を聞くと、そんな甘く切ない競馬熱中時代を思い出す。

ナムラコクオーは、プロキオンステークスがJRA最後の重賞勝ちとなったが、1996年に高知に移籍後も黒潮スプリンターズカップ、建依別賞を勝利した。14歳で競走生活を終えるまでの47戦で27勝を挙げた。最後は馬主の自宅牧場で調整をして再起をかけていたが、自宅のブロックで脚を打ち(?)、競走馬登録を抹消した。

こんな生き様もあってよい。

Photo by Sanspo


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