見出し画像

嵌らなかった最後の1ピース

彼女の名はゼニヤッタ。19戦19勝。史上初の牝馬によるブリーダーズカップクラシック制覇を含む、G1レース13勝。おとぎ話でもなければ、過去の名馬の戦績でもない。現代競馬において、1頭の牝馬が一線級で走って積み上げた数字である。いつも最後方から追走し、最後の直線だけで他馬をごぼう抜きにする感情の振れ幅の大きい走りで、私たちを常に魅了してきた。

走り続けることだけでも難しい競馬の世界で、消長の激しい牝馬が1度たりとも負けないことの難しさは、筆舌に尽くしがたい。それは最大のライバルと目されながら、最後まで直接対決が実現することのなかったレイチェルアレクサンドラの末路を見れば分かる。強い馬にもいずれ勝てなくなる日がやってくる。勝ち続けるためには、強いだけではなく、ずっと強くなければならないのだ。

ゼニヤッタは全世界的な牝馬優勢の流れの旗手でもある。前述した85年ぶりにプリ-クネスSを勝利したレイチェルアレクサンドラ、ヨーロッパに目を移せば、凱旋門賞を制したザルカヴァ、ブリーダーズカップマイルの3連覇に挑むゴルディコヴァ、そして私たちの国では、ウオッカ、ダイワスカーレット、先週の天皇賞秋を制したブエナビスタと、牝馬の一線級における活躍が目立つ。その国の競馬で最も強い馬が牝馬という事実が厳としてある。

なぜこれほどまでに牝馬が強くなったのだろうか。個体としての能力において、牝馬が牡馬を上回ったということではない。依然として、肉体的な走る能力(スピードやパワー、スタミナ)という点では、総じて牡馬の方が牝馬よりも高いことは明らかである。だからこそ、ーあくまでも経験的に決めた平均的な能力差ではあるがー、日本では斤量2kg差というセックスアローワンスが認められている。しかし、初期育成・調教の技術が進んだことにより、強い負荷に耐えられるようになったことや、能力を最大限に引き出せるようになったことで、セックスアローワンスを凌駕してしまう牝馬が出てきたということなのである。

さらに言うと、そうした初期育成・調教の技術の進歩と共に、世界のホースマンたちの意識が変わってきたということが大きい。脳のリミッターが外れたというべきだろうか。たとえば、ウオッカがダービーに挑戦した時、誰もが多少なりとも違和感を抱いたはずである。いくら強いとはいえ、牝馬が牡馬相手にチャンピオンディスタンスで勝負になるのかよと。ほとんどの競馬関係者もそう思っていた。しかし、ウオッカは見事な勝利を収め、私たちのリミッターは外された。その後、ダイワスカーレットは有馬記念で牡馬を従えて勝利を収め、ブエナビスタは天皇賞・秋を持ったままで圧勝した。同じことが世界中で起こっている。これだけ世界が小さくなった今、他の国の誰かのもしくはどの馬かの行動が、私たちの意識を一瞬にして変えるのである。牝馬でも牡馬に勝てると。

2010年11月6日、アメリカ東海岸のチャーチルダウンズ競馬場、世界最高峰の馬たちが集うブリーダーズカップクラシックを最後の舞台として、ゼニヤッタは現役生活に幕を閉じた。前年とは打って変わって、この年はゼニヤッタの得意とするオールウェザートラックではなく、スピードと先行力を問われるダートトラックで行われた。アメリカのスポーツの世界では、引退する馬にお膳立てしたりはしないようだ。それとも、追い込みの利きづらい馬場だからゼニヤッタが勝つのは難しいと考えることさえも不遜だったのだろうか。ゼニヤッタがもし勝つようなことがあれば、20戦無敗というパーフェクトな大記録が成し遂げられたことになる。競馬史上最強牝馬というジグソーパズルの最後のワンピースは、惜しくも嵌らなかった。

Photo by Raistlinsdaughter

「ROUNDERS」は、「競馬は文化であり、スポーツである」をモットーに、世代を超えて読み継がれていくような、普遍的な内容やストーリーを扱った、読み物を中心とした新しい競馬雑誌です。