川合玉堂「行く春」をみてきた。

川合玉堂の「行く春」。竹橋の近代美術館が桜の季節にだけ常設に飾る。すこし照明を落とした暗がりのフロア。椅子や小さな畳も置いてある。じっくり座って眺めてきた。

この画は二つの屏風で構成されている。ちょうど屏風の山に小舟が置かれ、背景の岩や樹々は屏風の谷に。心憎い遠近法で広々とした印象を与える。
散る桜の花びらは左から右に飛んでいく。しかし川の流れは右から左。交差している。

「行く春」という表題をそのまま表すならば、同じ方向に流れていてもいいはず。交差してるのは何故なのか、と考えた。

改めて眺める。

川の流れと、桜の花びらがちょうど交差するポイントの真下、小舟に船頭が小さくひとり。うつむいて淡々と仕事をしている。季節のうつろいなどまるで気にも止めずふうに。
左手前には花筏。名残り惜しむような、みっしりとした薄桜色。
川の行く先や画面の左上の方、桜の後ろから鮮やかな新緑の木々がのぞく。

川を、時間の変化を表していると見立てたらどうだろう。

新緑のまつ方向へ、時間は川下に向かって流れていく。桜は花びらを川上に散らし、花筏を作り、春の終わりを告げている。その真下、季節の真ん中に人間がいて、揺らぎもせず日々の営みを淡々とおこなう。そのささやかながら確かな姿が、うつろう大きな時間の流れの中で輝いている。

人間と自然のありさまを描くとするなら、川は左に、花びらは右に流れて交差するのが、無理がないだろう。

時と自然と人間が凝縮された、ほんとうに美しい画だと思った。

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