その気持ちの名前は

例えば、昔好きだったひとと疎遠になり、のちに、パートナーができたと聞いたとする。その瞬間、良かったねぇ、お幸せに、と、心から思える?
すごく好きだったひとを、自分が1番相手を愛していて理解していたつもりだったのに、自分じゃないひとと幸せになるなんて、簡単に祝福できる?

そして、一番キツイのは、パートナーのひととなりの情報を仕入れて、好きだったひとにぴったりの方だった場合の心境といったら。この私より!ありえない!でも理解してるからわかる…お似合いなのだよね…。悔しいような、自分を全否定されたような虚ろな気持ち。

終わったはずの気持ちが、なぜ、いつまでたっても再び湧き上がり、思い出してしまうのだろうね。

ゆるい中学生だった。ちゃっちゃと英語部のミーティングを終わらせ、放送委員の友だちが下校放送にこもる放送室に潜り込んでは、勝手にレコードをかけて聴いていた。眼下にはグラウンド。運動部が走り回って青春の汗を流している。五月の終わり。気持ちいい風の夕暮れ。あんな風に夢中になれたらいいのに、なれないってなんだろね、と鬱屈していた。

好きだったひとは科学部だった。年上のお兄さんがいるせいか落ち着いた静けさをもっていた。本も音楽も全く趣味が合わない。ただ、空気感はお互いとても似てて、世間話してて居心地よかった。

性的対象か否かは別として、ひとは考え方や空気感がぴったり似てるひとについ惚れてしまうことがある。しかし、ひととひとの関係は、ふたつの線香花火をそうっと近寄せるのに似ている。上手くくっつけると大きな玉となり、火花を散らして悦びあう。焦らずゆっくり、互いのスパークを壊さぬように重ね合わせなければ、ボトリと地面に落ちて自滅する。

それがわかったのは、学校も卒業し、好きだったひとに彼女が出来たのを知った時だった。私に雰囲気は似てて、でも私とは違う、運動神経のいい女の子。グラウンドで走り回っていたほう。泣きたいような笑いたいような、納得できるけどしたくないような。悲喜劇とはこのことか、とそれだけ妙に冷静に思ったのを覚えている。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?