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エクストリーム将棋


 最近の将棋は変だ。多分。

 古代インドから伝来したとされ、1000年以上の歴史を持つ将棋。いつか祖父の膝の上で見た9×9の盤面には、無限の戦略と可能性があった。あったんだ。

 僕が中学生になった頃だろうか、プロと呼ばれる棋士全員が人工知能に敗北した。一人残らず。でもそれは仕方のない事だと思った。人工知能の指す一手は冷たさを感じるほど合理的で、それでいて"勝利"という一点のみを見据えていた。到底人間には勝てるはずがない。
 技術が人間の能力を追い越したとき、残された者たちに与えられる選択肢は2つだ。1つはそのレースから降りる事。もう1つは、機械が持ち得ない"人間らしさ"に舵を切ること。

 将棋を愛する者達が選んだのは後者の方。まず棋士の見た目が派手になった。金髪や赤髪は当たり前、全身にタトゥーを入れる者、上半身裸で対局を行う者、ゾンビメイクに囚人コスプレ、さながらハロウィンパーティーである。もうこうなってくると、伝統的な和装もコスプレに見える。良くない。
 しかしこの時までだろうか、将棋がボードゲームとして成立していたのは。

 やがてプロ同士の対局でも「駒落ち」が認められた。これが決定的だった。駒落ちというのは要するにハンデだ。相手よりも少ない駒で戦わなければならない。そして駒を落として戦うという事は、相手よりも格上であることを意味する。それからの変化は想像にたやすい。
 そう。将棋は、"いかに相手よりも少ない駒で戦うか"という勝負になった。なってしまったのだ。「飛車角金銀桂香落ち」なんてものは当たり前、相手よりも一駒少なければ良い。たとえ負けても言い訳ができる。王将同士の一騎打ちが横行し、9×9の盤面は学級閉鎖寸前の教室のようになった。

 衝撃的なイノベーションをもたらしたのは藤原百十八段。彼は佐々木九十四段との対戦において、盤面に一切の駒を置かないことを宣言した。佐々木九十四段も少ない駒で必死に攻めたが、相手の駒が存在しないため勝ちきれない。試合は引き分けとなり、将棋界には平和が訪れたかに思えた。そういう事じゃないんだけどなぁ。
 とにかく"一切の駒を使用しない"という藤原百十八段の戦略(戦術ではないのかもしれない)は大いに流行した。この戦術を採用すれば絶対に負けないのだ。勿論勝ちもしないのだが。しかしそこは人間である。大の大人が2人揃えば競いたくなるというもの。そこで将棋連盟はバーリトゥード(何でもあり)ルールを採用した。何でもありと言うのだから何でもありだ。
 
 以後、将棋はボードゲームではなくなった。3分5ラウンドのキックボクシングルール。200m棋士自由型。ありとあらゆる方法で棋士達は競い合った。「王手」『参りました』という投了の形式がかろうじて残っていたことは、せめてもの救いである。自走式の王将を追いかける為、棋士には強靭な脚力が求められた。もちろん自分の王将を速く走らせる為にはロボット工学の知識も必要だ。駒を飲み込んだ棋士(この戦術は"極・穴熊囲い"と呼ばれる)に外科手術を施し、体内から王将を摘出、正確な縫合の後、王手をする為には医師免許が必要である。必要なんだから仕方ない。あと、いまだに普通の将棋で戦おうとする酔狂な棋士もいるので、オーソドックスな将棋の方もある程度強くなければならない。まあ要するにプロの棋士には、あらゆる能力が求められるのだ。
 一流のプロ棋士は、昔で言うところのスーパーマンだ。スーパーマン同士が何でもありのルールで戦う競技である。面白くない訳がない。

 そんなこんなで現在、将棋は世界中で大流行している。これが将棋と呼べるかはかなり疑問だが。

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