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真っ白な紙に書く緊張感が好き

罫線のない、真っ白なノートが好きです。
新しいノートを買いに出かけて、もしどうしても罫線の入ったノートしかなかったなら、できるだけ線の色が薄くて間隔が広いもの、さもなければ方眼ノートを選びます。

眼は霊的なお仕事もするから


人の肉体の感覚器はすべて、サイキックな器官としても働いています。
眼はその中でも大切な霊的器官のひとつ。

ものごとの真実を観る。
世界全体のバランスを観ながら焦点を合わせる。
創造のためのビジョンを現実世界にイメージする。
自分の行動、自分が生み出すものを観る。

ソース(存在の根源・無条件の愛)の観点から、世界を観て、ものごとを観察する。

私が今この瞬間にパソコンで打っている文章も、ソース(もしくは神、ユニバース)と繋がった私の体の感覚器が観ているのですよね。


真っ白な世界に描く


子供のころから、真っ白なノートが好きでした。
なんなら、昭和の時代の新聞の、折り込みチラシの真っ白な裏側でもいいです(笑)祖母に買ってもらった荒い紙のらくがき帳も好きだったなぁ。

大人になって、自分で働いたお金で購入できるようになって、一冊千円以上もする高級な紙で作られた真っ白なノートを見つけた時の喜びは、本当に今も忘れられない。嬉しくて胸がはちきれそうで。なんでこんなに嬉しいのか、自分でもさっぱり分からないんだけども(笑笑笑)
買ったノートを胸に抱きしめて、ウキウキとしながら家に帰る自分を、今も鮮やかに思い出せます。

真っ白な紙は、創造の源の、光しかない真っ白な世界を彷彿とさせます。

そこに、自分のエナジーの乗った手で、視線で、思考で、文章や絵を生み出していきます。
なにもなかった真っ白な世界に、自分の手が紡いでいくのを自分の眼が観て、追っていく。
真っ白な世界を美しいものでギッシリと埋めていく。
その緊張感がたまらないのです。

叡智をノートに書く


でも、書き損じたり、その時は悦に入って書いたものの、次に見直したときにすごくがっかりしたり。

書くものはノートごとにテーマを決めてあって、散文だったり、詩だったり、小説だったりと、いろいろなのですが、文章を書いたり、そこに小さな挿絵を入れるのが好きだったんですよね。

最近は、それもあまりしなくなったなぁ。
インターネットで書いたものや画像をアップ出来ちゃうので、アナログなものが減っても、気持ち的に満足できちゃうしね。

今やっていることと言えば、チャネリングで得た宇宙の真実、創造の源の叡智を、ノートに書くこと。

叡智というものは、受け取った時に魂に刻まれるので、決して忘れないから、書く必要そのものがないのかもしれないけれど。

書くことによって、自分の神聖な行動=創造の源から得た神聖な光を具現化する行動を、さらに自分の眼が観て脳が解析して受け取っていく、というプロセスが、自分をより高めていくから。

神聖さを体現できるように自分を高めていく訓練として、チャネリングをして、得たものを、その神聖さのエナジーまるごと、紙に映していく意識で書き留めていく。

面白いことに、その時はぜったい書き損じたりしないのです。絶対の真実しかない叡智だからなのだろうと、思っています。迷いもない、不安や恐れもない、心が完全に凪いだ状態で、神聖な愛のエナジーしかそこにはないから、書き損じるという現実が現れることがない。その瞬間の神聖さが好きです。ああ~文章打ちながら今思ったけど、写経ってそういうことか!


うん。とっときの新しい真っ白なノートが欲しくなったなぁ~!






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