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「これは、君の分」

「親孝行したいときに親はなし」

というけれど、この言葉を言われるたびに、私は

「いや、十分してますけど?」と内心思っていた。

何しろ22歳の時、祖母が脳梗塞に倒れた際に私は今で言う、介護離職をした。大卒でせっかく就職した会社を辞めて家の会社に入ってくれと親に言われてしまったのだ。これから母が祖母の介護で大変になる。でも、父はその時すでに中国進出を決めていて多忙になるから身内に会社に入って欲しい、と言うのがその理由だった。珍しく、父が正座して私に頭を下げた。仏間で、十一面観音像の前で。その場には母もいた。黙っていた。

まだまだすれてなく、純粋だった二十二歳の私が、日頃父権的な父が頭を下げたら拒否できるわけがない。それに当時はまだ景気が良くて「3年くらい手伝って、弟が入ったら私は抜けて、再就職しよう」と気楽に考えていたのは今思い返しても、世間知らず甚だしくて、安直だったと思う。でも、それが私の最大の親孝行だったと今も思っている。というか、親にはそう思ってほしい。なぜなら貴重な20代を私はほぼ実家に捧げたのだ。決して、孫を産んだことじゃないですから!

ところがそう思った通りにはいかず、父は私を会社に入れてしまったら、あとはもう、ずっと手伝ってもらうつもりだったらしい。反して私は「こんな小さい世界にずっといるのは嫌!」と思っていた。第一、人間関係が極端に狭い。大学を出たばかりの二十二歳にそんな世界で満足できるわけない。色々衝突はしたけれど、仕事のことではあまり揉めなかった。

結局、6年半、私は父が自営する会社で働いた。きっかけとなった祖母が亡くなり3回忌を終えた、29歳になる一週間前に辞めた。

それから、私は本当にやりたいことしかしなくなった。親孝行も全然しなかった。家を出て一人暮らしを始め、実家との距離が出てくると関係も良くなった。

やがて私は自分で仕事を見つけたり、勉強を深めたりする中で自分の家庭を持った。

生まれて初めて、「地に足が着くってこういうことか」と思った。

実家は私にとっては狭苦しく、逃げ出したい、もっと広い世界に行きたいと思いながらも捨てきれなかった。いつも中途半端な気持ちでその場に属していたのだと、自分の家庭を持って初めて気づいた。

でも、父は私の新しい家庭を愛してくれた。そして、突然の病でまるで津波にさらわれるように逝ってしまった。やがて、父の財産を母と弟と争うとは、その時の私は予想もしなかった。所詮、父が築き上げた財産。そして母も私も弟もサポートしていたのだから、話し合いの末に不公平の無い落ち着きどころがある、と無邪気に信じていた。

一番の心配事は、母の毎月の生活費をどう工面するかだった。母は浪費家なので父はあまり現金を渡していなかったから、私と弟で予算を決めて母の家計を管理しつつ、母とも話し合って自由に使えるお金を決めれば良い、と思っていた。父の残した財産で、それは十分にできるはずだった。

ところが、話は思いもよらない方に転がっていった。全ての所有権を自分に移したい、と言う弟に私は言葉を失った。

「タダでくれとは言わない。姉貴の条件を言ってくれ」

母は完全に弟と一体化して、実母とは思えないような言葉を私に投げつけた。その空間に、私は、涙を流しながらクラゲのように浮いていた。

ああ、そうなんだ。本当にいなくなってしまったんだ。父がいない、ということは。「これは、仁香の分」と言ってくれる人がもうこの家にはいない、ということなんだ。

中途半端で狭苦しい家だったけれど、いつだって「私の分」が、要求しなくても用意されていた。

スイカも、ケーキも、おもちゃも、お土産も。

いつだって「これは、仁香の」と手渡してもらえた。私もそれが当然、と思っていた。でも、もうこの家では私は「要求」しなければ何も渡してもらえないのだ。

父が使っていたハーモニカも、時計も、一緒に買った絵も。何もかも。

「これ、私が欲しい」と言わなければ、全部、弟のものになったあの家で埃をかぶっていくだけなのだ。

それはとても忍びなく、悲しいことだった。

あっという間に逝ってしまったからなおさら、私は父の遺品を片付けながら、父のことを偲びたかった。母と、弟と。それができると思っていた。でもその作業を私は一人で行った。

「持っていきたいなら何を持っていってもいいけど、あとは俺に一任して」

「あなたの気の済むようにして」

母と弟はそう言い残して、私が整理をする場所から立ち去った。

「これは、仁香の分」

記憶の中の父の声を思い出す。今更のように、父が守ってくれていたことや愛情を感じる。

もっと親孝行しておけばよかった、とは正直全く思わない。生きている間に守ってくれていることに気づけていたらなあ、とは思う。

でも多分、いなくなって初めて感じられる親の愛があるから、私は今、自分を見失わずに生きていられるんだと思う。












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