『軽井沢ジャーナル』 第一章 -2-


    *

 軽井沢に引っ越すことを決めたときから、僕の人生の中で最も目まぐるしい二週間が始まった。父が死んだ後のバタバタや締め切り前の忙しさとはタイプの違う目まぐるしさだ。物理的な力仕事が加わっていたこともあるだろうが、なにより違うのは今回は終わったときに新しいことが待っているという嬉しい忙しさだということだ。

 東京のマンションは売却することも考えたが、結婚して関西に住んでいた美緒の旦那さんが東京に転勤になり、住むところを探しているという絶妙のタイミングだったので妹夫婦に貸すことにした。どんな神様の采配だよ。それなら軽井沢に持っていくまでもない家具や荷物を少し置いたままにしてもらえる。
 だが、妹夫婦が到着する前に部屋の中にふたり分の荷物を入れるスペースを作らなければならなかった。僕のマンションで一番場所を取っていたのはアシスタントたちが使っていた机なので、それは古道具を扱う業者を呼んで二束三文で引き取ってもらった。机と回転椅子が六つずつ。スクリーントーンを入れていたプラスチック製の引き出しと資料が詰まったスチール製の巨大な整理棚も処分した。
 数年前に作画を全てデジタル化してからトーンは使わなくなっていたのに、これまで思い切りが足りずに捨てられなかったのだ。そして資料はもうインターネットでいくらでも検索することができる。

 母が死んでからそのままになっていた荷物は美緒に丸投げすることにした。女性の持ちものの価値は僕にはわからないし、妹が何を残したがって何を要らないと思うのか全く見当もつかなかったからだ。父の借金のことがあったので、高価なアクセサリーや着物などは何も遺してなかったが、それでも娘として大切にしたいものはきっとあるだろう。
 あとは仕事とは関係のない僕の私物だが、あれこれ逡巡していたら高月から様子見の電話がかかってきた。
「順調か?」
「そうでもない。いざ捨てるとなると迷うものもけっこうあって」
「要るものと要らないものと、要るかもしれないもの三つに分けるんだ。そして要らないものと要るかもしれないものを捨てろ」
「要るかもしれないのに?」
「要らないかもしれないだろ」
 なんだその禅問答は。
「あるいは、今使っているものを選り分けて、それ以外のものの中から『もう二度と手に入らないもの』だけ残せ」
「ああ、それはいいかもしれないな」
「子どものときに描いた絵とか捨てるなよ」
「そういうのは母の荷物の中にありそうだ。それは妹に任せることにしたよ。多分捨てないと思う」
「絶対に捨てるな。ナナが思ってるより貴重なものだぞ」
 嬉しいことを言う。

 残った荷物を引越し業者に見積もってもらい、軽井沢に運び込む日程を決めた。妹夫婦が大量の家財道具と共に東京に到着し、ガスや水道、電気と固定電話の名義と引き落とし口座を変更した。
 銀行とクレジットカード会社と携帯キャリアに住所変更の連絡をしてから、少年クリーチャー編集部の担当編集者、伊藤さんにも新住所を知らせた。ここ三年ほど僕を担当してくれている若手の女性編集者だが、彼女は電話の向こうでちょっと涙声になっていたようだ。
「中道先生。軽井沢に引っ込んで、もう描かないとか言わないですよね?」
「言わないよ。一生食っていけるほどの貯金があるわけじゃないし、少し休んで体調が戻ったらちゃんと仕事するから。そのときはまたよろしくお願いします」
「良かった。早く戻って下さいね。ファンも待ってますから。あ、でももちろんお体の回復が第一ですからね」
「うん。ありがとう」

 全てがなんとか間に合って妹夫婦と近くのイタリアンレストランで夕食をとり、運び出す前の荷物の山の隙間で東京の最後の夜を過ごした。
 考えてみれば僕は東京の生まれで引っ越しもぜんぶ都内だったから他の場所に住んだことはない。では東京が故郷か、と問われると、そこまではっきりした思い入れは持っていないような気もする。もし父が借金を残して早逝したりしせず、安穏とした生活のまま成人していたらこういう気持ちは違っていたのだろうか。僕にとって東京は戦いの場であったのだ。だから地方出身の友達が、盆暮れに帰省するのをいつも少し羨ましく思っていた。
 だが、明日から僕は軽井沢の住人になる。

    *

 引っ越し当日、美緒と一緒に東京のマンションから荷物を積んだトラックが出発するのを見送っていたら、高月のパジェロミニが迎えに来てくれた。僕だけなら新幹線で軽井沢入りすれば良かったのだが、パソコンと作画用の液晶タブレットは業者に任せるのが心配だったし、僕はまだ車を持っていないので高月が運んでくれることになったのだ。
「おはようございます。美緒ちゃん、お久しぶり」
「高月さん、お久しぶりです。母の葬儀以来ですよね。この度は兄がお世話になります」
「とんでもない。僕のほうこそ部屋代を払ってくれるルームメイトができて大助かりですよ」
「高月さんが一緒なら私も安心です。関西にいて目が届かなかった間、ずいぶんひどい生活をしていたみたいだし。きっと空気のいいところでのんびりすれば兄も元気になれますよね」
「もちろんですよ。軽井沢は『屋根のない病院』ですからね」
 昔から美緒は高月がお気に入りなのだ。いっそのこと高月と結婚すれば良かったのに。まあ、ヤツにも選ぶ権利があるというものだが。

 パジェロミニのリアシートを倒して荷台を作り、そこに緩衝材や古毛布でグルグルにくるんだワコムのシンティックという大型タブレットを乗せ、その横にMac Proの箱を置いた。動かないようにボストンバッグなどで隙間を埋める。
「じゃあ、行くよ。元気でな」
「お兄ちゃんもね。高月さん、ほんとによろしくお願いします」

 午前十一時に東京を発った。車で軽井沢に向かうのは何年ぶりだろう。子どもの時、確か小学校の四年のときに父の運転で家族旅行をしたことがあったきりだが、あのときは父が高速代をけちったのか一般道を使ったと思う。途中、安中の国道から山肌に沿って建つ巨大な工場が見えて、それが怖いと美緒が泣いたっけ。僕にはちょっとギーガーのイラストみたいでカッコよく見えたのだが。
 東京から軽井沢までは約四時間ほどの道のりではあるが、昼間の美女木ジャンクションなど、常に渋滞しているところが何箇所もあるのでまず首都高を抜けるだけで二時間近くかかってしまった。
 途中一度だけ昼食のために休憩を取り、碓氷軽井沢インターを降りたのは午後四時を回ろうかという頃だった。荷物のトラックが軽井沢に着くのは明日なので、時間的には問題ない。

 一般道になったので窓を開けて外の風を入れた。この前軽井沢で寒いと感じてから二週間経っていたが、やはりまだ空気は冷たい。だがあのときよりも木々の緑が少しだけ濃くなっているのがわかる。

 碓氷軽井沢インターから軽井沢駅までは少し距離がある。それでも夏は、駅の南にある巨大なショッピングプラザ目当ての車が、インターを降りたところから繋がってしまうこともあると高月が話してくれた。
「今はゴールデンウィークが終わったばかりだから大した交通量じゃないが、ハイシーズンに車で東京から戻ってくるようなときは、碓氷軽井沢を通り過ぎて佐久平スマートICまで行ってしまうのがいい。ETC専用の降り口があるんだ」
「佐久平って隣の市だろ? ずいぶん遠いんじゃないのか?」
「スマートICからなら十五キロくらいかな。佐久平の駅でも三十分もあれば行ける距離だし、この辺の感覚だと『近所』だ。東京にいるときよりも『ちょっとそこまで』の距離が伸びるぞ」
 なるほど。道が空いていて信号が少ないと、同じ時間走っても東京よりはかなり遠くまで行けるってことか。都内の車移動だと、三十分かけても大した距離は走れないだろう。そして目的地で駐車場を探すのに大変な思いをすることになる。

 やがて車は国道18号線のバイパスに入り、「塩沢」と書かれた信号を右に曲がった。しばらく進むと新幹線の高架が見え、その下をくぐって「塩沢中学校前」を左に折れる。この道も国道18号だ。
「この先に軽井沢町役場がある。まだ四時過ぎだし、転入届を出してこいよ」

 軽井沢町役場の駐車場に車を停め、高月を車に残して庁舎の中に入ると、いきなり等身大の着ぐるみに出迎えられた。
 番号札を取って転入届に記入し、順番を待っている間に着ぐるみに添えられた説明を読む。これは軽井沢のマスコットキャラクターの「ルイザちゃん」というらしい。申し込めば町内のイベントなどで着ぐるみを貸し出してくれるそうだ。
 ルイザちゃんは浅間山を模した緑色の帽子に町の花であるサクラソウをあしらい、体には町を流れる清流と風を表した縞模様がついている。ちょっと可愛い。「かるいざわ」の中の三文字を取って「ルイザ」とした名前が気に入った。
 昔、僕のところにいたアシスタントで、あまりに金がなくてクーラーが付けられず、東京の夏を扇風機ひとつで凌いでいた男がいたのだが、そいつがその扇風機に「プーキーちゃん」という名前を付けていたことを思い出す。
 面白かったので「そのネーミングセンスはなかなかいいぞ」と褒めたのだが、その後彼はギャグ漫画家として成功したので僕の目もまんざらでもないと嬉しかったんだよな、などとと考えていたら名前を呼ばれた。持って来た転出証明書と印鑑、免許証などを出す。転入届は無事に受理され、これで僕は正式に軽井沢町の町民となった。

 さあ終わった、と高月のところに戻ろうとしたら、役場の窓口の人に呼び止められた。転入者に配られる町の説明書みたいなものがあるようだ。
 見ると、ゴミの分別の仕方などが書かれた紙と一緒に「浅間山火山防災マップ」というものがある。そうか、ここは火山のふもとの町なのだ。現在の浅間山の噴火警戒レベルは2で、火口周辺の一部に立ち入り規制がかかっている。だが、軽井沢町役場の辺りは火口から十キロ以上離れているので、特に気にする必要はないようだ。
 長野県では二〇一四年に御嶽山が噴火して多くの犠牲者が出たこともあり、僕が軽井沢に引っ越すと知って火山の被害を心配してくれた知人もいたのだが、浅間山は昔から常に警戒されている活火山なので、その分事前の情報も早く出るだろう。そして天災はいつどこで起こるかわからないのだから、僕自身はあまり不安に思っていなかった。っていうか、それを言ったら今まで住んでいた都心の高層マンションのほうが地震の時にはよほど怖い。

 ふたたび車を走らせてさらに西に進み、やがて僕らの新しい家に到着した。
「ひと息入れたいところだが、座ると面倒になっちゃうからな。おまえの商売道具だけ運んじまおう」
「ずっと運転してたのに悪いな」
「後で肩でも揉んでくれ」

    *

 書斎の机の上にワコムのシンティックをそっと置く。画面に直接専用ペンを使って絵を描ける27インチの大型モニターだ。角度調整用の台もあるのでかなりの重さがあったが、男ふたりの作業なので楽だった。高価なものだし商売道具なので自分で運んできたのだが、またこれで漫画を描くのはいつになるだろう。
 シンティックをMac ProとUSBケーブルで接続した。電源を入れると画面にAppleマークが出て、無事にOSが起動する。すでに光回線も引かれていたので高月からWi-Fiパスワードを聞いて入力した。
「繋がったか?」
「ああ、大丈夫みたいだ。ありがとう」

 リビングのソファや台所用品などは高月が整えてくれていた。こうしてみると僕は本当に自分の身の回りのものだけ持って引っ越してきたのだ。身体ひとつで嫁に来いと言われたってもう少しいろいろ用意するだろう。
 洗濯機はドラム式の洗濯乾燥機だった。家電などの説明書一式は電話台の下の棚に入っているから見ておけ、と高月が言う。勝手にやれということなのだろう。だが、大容量の洗濯機だし、ひとり分洗うのもふたり分も同じなので、家にいることが多いであろう僕がやればいいよな、と後で取説を熟読することにする。
「そうだ。忘れないうちに鍵を渡しておくよ」
 僕の大家さんが家の玄関の鍵をくれた。

 一段落したところで空腹を感じた。引っ越し初日だ。お礼を兼ねてどこかで食事でもご馳走したいと思ったが、今の僕はどこに行くにも彼に運転を頼まなければならない。これは一刻も早く車を買わなければ。
 だが、高月はそんな気兼ねは無用とばかりにハンドルを握る。食事は追分にあるリーズナブルなフレンチレストランでとることにした。コースが千九百円からという驚異的なコスパの店だ。

 レストランのすぐ近くには東京のデパ地下にも出店している有名なパン屋の支店があった。
「軽井沢は外国人宣教師が避暑地にしたことで発展した町だからな。宣教師たちが明治時代からパンやジャムの作り方を町の人に教えたんだ。だからそういう名店がたくさんある。最近話題のスペシャリティコーヒーの店も有名だ。昔は近くにウイスキーの蒸留所もあったんだがそれは二〇一一年に閉鎖してしまったんだよな。『軽井沢』の名前がついたウイスキーはちょっとしたプレミアものなんだ」
 僕は下戸なのでウイスキーにはあまり興味がないが、高月はそれなりにいける口なので残念なのだろう。だがパンやコーヒーが旨い町というのは最高だ。もちろん蕎麦も旨いわけだし。
「明日の朝飯のパンを買って行こうぜ。コンビニにも寄って行こう」
 全国どこにでもチェーン店のある大手コンビニの商品を見ていると、東京から軽井沢に引っ越したことを忘れてしまいそうになるな…と、高月に言おうとしたら、棚に並んでいるカップ麺の蓋が異様に膨らんでいることに気がついた。
「なんだこれ」
「ああ。ここは標高1000メートルくらいあって気圧が低いからな。密封されているものは膨らむんだよ」
 言われて他の棚をよく見ると、スナック菓子の袋もパンパンに膨らんでいる。ポテトチップスなんか風船みたいだ。
「こんなに違うものなのか。気圧なんて天気が崩れるときにしか気にしたことはなかったけど、実際に目に見えているとすごいな」
 軽井沢に越したことを忘れるどころじゃない。
 そして、このとき初めて知ったのだが、軽井沢の町内にあるコンビニは全て夜十一時に閉店してしまうんだそうだ。朝開くのはは七時から。二十四時間営業は町の条例で禁じられているらしい。
「隣町まで行けば二十四時間やってるスーパーもあるよ。だが、こっちで暮らすとじきに夜に出歩いたりする気がなくなるさ。夜は人間以外の生き物の世界だからな」
「それは…熊とか?」
「猿、猪、鹿、ハクビシンは普通に出る。熊も毎年何件も目撃情報がある。だけどそういう大物に会わなくても虫の数に圧倒されるぜ。この家はほとんど森の中に建っているようなものだからな。人間は夜は大人しく寝るべきなんだ」

    *

 初めて軽井沢で過ごす夜は幻想的だった。濃密な、手を伸ばせばすくい取れそうな霧が立ちこめたのだ。家の周りには僅かな街灯しかないが、それがぼんやりと霧に霞んでいる。聞けば軽井沢の霧は一種の名物であるらしい。この辺りで取れる野菜は「霧下野菜」と呼ばれ、夜の湿度が高いために瑞々しく育つのだそうだ。軽井沢だけでなく隣の御代田町は野菜の一大産地だということで、近隣にはあちこちに農産物の直売所があるという。
 やがて霧は雨になった。屋根を打つ雨音が新鮮なのは、長いマンション暮らしでこんなに間近に雨の音を聞く機会がなかったからだろう。
 まだベッドは届いていなかったが、高月に毛布を借りてリビングのソファに横になると、雨音を子守唄にいつの間にか深い眠りに落ちてしまった。そう、こんなにぐっすり眠れたのは数か月…いや、数年ぶりのことだったかもしれない。

 翌日は高月は仕事に出てしまった。僕はひとりで荷物のトラックの到着を待ち、引越屋さんのアルバイトがどんどん運び込む家具を置く場所をおろおろと指定し、降ろすものがなくなってアルバイトが元気に挨拶をして引き上げてしまうと、のろのろと片付けを始めた。雑巾は昨日も使ったから場所はわかっている。掃除機の入った段ボールはどれだ。そうだ、まずはベッドだ。
 どうにかシーツと格闘して寝床を確保すると、そのまま倒れ込んでしまいたい誘惑と闘わなければならなかった。いやいや、高月が戻る前にもう少し体裁を整えておかないと申し訳ない。だが腹も減った。まだ朝のパンが残っていたはずだが…と、台所に降りていったら玄関のドアが開いて高月が顔を出した。
「やってるな」
「おまえ、仕事はどうしたんだよ」
「外回りのついでにちょっと寄ってみたんだ。昼まだだろ? 弁当買ってきたぜ」
 ああ、こいつはなんて気の付くいいヤツなんだろう。

 食事が済むと高月はまた出かけてしまい、僕はひたすら部屋の片づけに終始したので夕方にはどうにか全ての荷物を開けることが出来た。畳んだ段ボールは後で引っ越し業者が取りに来てくれることになっている。片付いてみると、疲れてはいたが少し外を歩いてみたくなった。
 この家は小さな別荘地の中にあり、周囲にも建物が点在していて数世帯が定住しているとのことだ。もし近所の人に出会ったら越してきた者だと挨拶してみるのもいいかもしれない。挨拶用の菓子折などは用意していないがそれは後日でもいいだろう。
 財布と煙草とiPhoneをポケットに入れてスニーカーを履く。気温が下がってきたので上着も忘れない。門を出て右に進んだ角の家は確か定住者がいるお宅だ。ちょっぴり期待しながら横を通ってみたが、誰か出てくる気配はないようだった。仕方ない。
 そのまま道を下って国道に出る順路を辿る。途中にある水路には今日も澄んだ水がたっぷりと流れていた。後で高月に聞いたことだが、これは浅間山のふもとの湧き水から流れてくるもので、御影用水という名前が付いているらしい。細い水路が何本も集まって御代田町との堺にある温水路まで流れているそうだ。
 温水路というのは初めて聞く言葉だったが、湧き水は水温が低く、そのままだと農業用水としては冷たすぎるため、幅を広く取った浅い人工の川を流して太陽熱で暖めるのだという。それも東京で暮らしているととても想像できない仕組みだなと、改めて軽井沢という土地の冷涼さを知った。

 別荘地から国道に出てみたが、中軽井沢の駅までも数キロはあるし、途中に喫茶店はおろか商店も見当たらない。iPhoneの地図を見るとかなり離れたところにカフェはあるようだったが、この手のカフェはおそらく禁煙だろう。コーヒーは旨いかも知れないが一服するのは難しいだろうな、と進むべき方向を迷っていたら、高月の車がこちらに向かってくるのが見えた。
「散歩か? 片付けは済んだようだな」
 窓を降ろして高月が言う。
「うん、ちょっと歩いてみたくなってここまで降りて来たんだ」
「ちょうど良かった。だったらこのまま車を見に行こう。乗れよ」
 そう。引っ越しのあと、最初にやるべきことは車を買うことだ。僕は大学入学と同時に運転免許を取得していたが、父が死んだあとに家の車は処分してしまったし、都内では車が必要になることは滅多になかったのでこれまで自分の車を持ったことはなかった。だが、運転免許は早く取っておいて本当に良かったと思っている。何しろ漫画家は自由業なので免許証ほど頼りになる身分証明書はなかったのだ。

「まず4WDは必須条件だ。寒冷地仕様のものがあればなおいい。軽井沢では細い裏道に入ることも多いから小型車のほうがいいな」
「別荘族は大型の輸入車を乗り回しているんじゃないのか? ちょっと国道に立っていただけでも六本木辺りでも滅多にお目にかかれないような超高級車がバンバン走ってたぞ」
「あんなのは実際にここで暮らしている人間が乗るものじゃない。すれ違う度に長い距離をバックして戻る羽目になるぞ」
「じゃあ軽自動車がいいのかな」
「自動車税を考えるとそれが経済的だろうな。ただ、冬になったらスタッドレスタイヤに交換するためにガソリンスタンドまで積んでいかなきゃならないから、タイヤが四本積める程度の荷台があったほうがいい」
「…軽トラとか」
「ナナがそれ買ってくれたら便利だな。貯木場に薪用の丸太を貰いに行けるぞ」
「軽トラだとふたりしか乗れないよなぁ。妹夫婦が遊びに来たら迎えに行ってやれないし」
「真に受けるなよ」

 そんな話をしているうちに広い敷地に中古車をたくさん展示してある店に着いた。メーカーの直営店ではなく、中古車と新車の両方を扱っている店だという。整備工場も同じ敷地内にあるので、不具合があったらすぐに対応してくれるのが安心だ、と高月が教えてくれた。
 店の主人は四十代の、若い頃はちょっとした走り屋だったんじゃないかと思わせるような雰囲気の男性だった。
「おや、高月さん。いらっしゃい」
「こんにちは。今日はこいつの車を見に来ました」
 軽井沢ジャーナルを置いてもらう関係で軽井沢中の店の人と顔馴染みなのかもしれない。やはりこの店の出入り口の棚にも軽井沢ジャーナルの最新号が積まれていた。

 車は今一番手に入りやすくてデザインも気に入ったハスラーにすることにした。ツートンに塗り分けた白い屋根がちょっと可愛い。ボディの色は臙脂だ。何色でも良かったのだが、緑の深い軽井沢の森に深い赤はきっと似合うだろうし、冬になって雪景色の中を走るのも綺麗だろうと思ったのだ。
「そういう理由で車の色を決めるところは、やっぱりナナは絵描きなんだなぁ」
 と、高月が意外なところで感心してくれる。

 納車されるのは数日後だという。だが、免許証の住所変更は早くやっておいたほうがいいので、そのまま高月の運転で国道18号沿いにある軽井沢警察署に行くことにした。
 入口左の受付窓の前に立つと、中にいたおばちゃ…いや、我々よりも少し…二十歳くらい年上に見える女性警察官が高月を見て笑顔になった。
「あら、高月さんこんにちは。今日は吉村さんは非番だけど?」
 顔の広い男だ。まさか警察署に軽井沢ジャーナルは置いてないだろう。
「こんにちは森本さん。今日はこいつの付き添いです。今度こっちに越してきたので免許の住所変更に」
「お友だち?」
「はじめまして。高月の友人の中道七生と申します」
「はじめまして。軽井沢にようこそ。あら、この住所、この間高月さんが越したところと同じじゃない?」
「そうなんですよ。うちに間借りさせてやることにしたんです。しばらくこっちにいますからよろしくお願いします」
「高月さんのお仕事を一緒にされるの?」
「そういうこともあるかと思います」
 待て待て。僕は別に軽井沢のグルメ記事を書くつもりはないぞ。それに吉村さんって誰だ。

 免許証の裏に新しい住所を記入してもらい、警察署の建物を出たところで高月が説明してくれた。
「さっきの女性は森本さんといって、この警察署の主みたいな人だ。吉村さんというのは生活安全・刑事課の刑事で、今まで何度かトラブルに出くわしたときにちょっと世話したことがあるんだよ」
「おまえ、警察の世話になるようなことしてるのか?」
「話聞いてたか? 世話になったんじゃない。俺が世話をしたんだ」
 んん? どういうことだ。それに生活安全・刑事課って何だ。
「生活安全課と刑事課を統合したものだよ」
 そのまんまじゃないか。

 つまりこういうことらしい。普通の警察署ではもちろん生活安全課と刑事課は別になっていて。通常、生活安全課は犯罪の予防、少年非行の防止、環境犯罪の取り締まりをする。そして刑事課では殺人、強盗、窃盗、知能犯、暴力団犯罪などの捜査、拳銃、覚醒剤の取り締まり、鑑識活動を行うわけだが、長野県内の六箇所の警察署ではそのふたつを一緒にして捜査に当たるのだ。管轄内の人口が少ないところではそれに比例して犯罪も少ないということなのだろう。軽井沢の他には飯山、小諸、駒ヶ根、阿南、木曽警察署がその課を採用しているそうだ。吉村刑事はその生活安全・刑事課の警部補で、町内のトラブル解決などに当たっているらしい。

 軽井沢ではあまり重大な事件は発生していない。連合赤軍が山荘に立てこもった一九七二年のあさま山荘事件は有名だが、それ以外だと「知人同士のトラブル」「隣人同士のトラブル」「家族間のトラブル」が殺人事件に発展したもの…が、ここ四十年間でも数えるほどしかなかったようだ。これなら生活安全課と刑事課が統合されているのも頷ける。
 そもそも人口が2万人足らずしかいない町だし、移住してくる人の多くは定年を迎えてから所有していた別荘に定住するパターンなのだから平均年齢も高い。しかも生活に余裕があるので犯罪とは無縁なのだろう。
 ただ、普段の人口は2万人でも夏休みのハイシーズンになると約400万人が観光客として訪れるというのだから恐れ入る。2万人が400万人って200倍ですよ。そうなると軽微な犯罪はかなり増加するので、夏だけ使われる臨時の交番まで置かれているのだ。ちなみに年間を通しての軽井沢への観光客数は800万人超。これは沖縄を訪れる人数よりも多いんだそうだ。

 余談だが、交番が「冬期休業」することに驚いてはいけない。軽井沢ではホテルも冬は閉鎖されているところがあるし、なんとコンビニが冬場に閉まっていたりするそうだ。高月が軽井沢で迎えた最初の冬、18号バイパス沿いのコンビニが営業していないのを見て「潰れたのか?」と建物に近寄ってみたら冬期休業の張り紙がされていたことがあると言っていた。
 それでもこの町の観光業に従事している人たちは、ゴールデンウィークと夏の繁忙期だけで一年分の稼ぎを出してしまうらしい。ただ最近ではシーズンオフでも海外からの観光客が多く、地方都市の疲弊とは無縁の土地だということだ。

 話が逸れてしまった。そんな重大事件の少ない軽井沢ではあるが、あちこちからやってくる観光客のトラブルや、高齢世帯が多い故の認知症患者の徘徊など、細かい事件はそれなりにあるらしい。
 そして高月は取材のために町内の飲食店やホテルなどの施設に頻繁に顔を出す。そういうときたまたま不可解な落とし物があったり、怪しい言動をする客がいたりして警察が呼ばれると、高月が状況を説明したり原因を解明したりして、その吉村さんという刑事に感謝されることが続いたんだそうだ。それ以来、高月が居合わせていない場面でも意見を求められることもあるのだという。それは確かに「世話をしている」と言ってもいいのだろう。物事の裏側や仕組みを知ることに執着する彼にはいかにもありそうな話だ。

骨折日記のときはたくさんのお見舞いサポートありがとうございました。 ブログからこちらに移行していこうと思っていますので、日常の雑文からMacやクリスタの話などを書いていきます。