『軽井沢ジャーナル』 第二章 -4-
*
僕がコーヒーを淹れ、リビングのソファに三人で腰を掛ける。ここで高月と暮らすようになって最初に招き入れたのが、こんな悲しい理由でのお客さんだなんてとても残念だ。真迫さんも一緒に遊びに来てくれたのだったらどれだけ楽しかっただろうか。
「素敵なおうち。美咲ちゃんと私のアパートとは大違いだわ」
「私もついこの間までアパート暮らしだったんですよ。だけど、狭いし暖房の効きも悪かったので、思い切ってここを中古で買ったんです。ちょうどこいつの仕事が暇になってこっちに来ても良いと言うので、ルームシェアすればローンも払いやすいですし」
少し違うような気もするが、まあいいだろう。
「ローン…。私も、開店資金を銀行から借りているので、しばらくしたらまたお店開けないと。美咲ちゃんのいなくなった穴を埋めるのが大変ですけど…」
「どなたか心当たりはあるんですか? 新規で募集をかけるとか?」
「人殺しのあったお店ですから、なかなか来てくれる人はいないかもしれませんね。それを言ったらお客様にだって来ていただけるかどうかわかりませんけど… でも、このまま閉めるというわけにもいかないと思うので、以前働いていたところの人に相談してみるつもりです」
ああ、事件の直後、斎藤さんが岬シェフのところにいたホール係の人に世話になったと話してくれたっけ。真迫さんと斎藤さんはそこで知り合ったのだ。高月はその人の話題になるのを待っていたようだ。
「そのかたは以前シェ・ミサキでホール係をされていらしたんですよね?」
「はい。山口さんとおっしゃいます」
「私も実はそのかたにちょっと伺いたいことがあるんです。ですがその前に斎藤さんにもお話を聞いておかなければなりません」
「なんでしょう」
「先日、ケープ・ブルームから真迫さんが『常習犯』の番号に電話したとき、言い訳として『ご予約いただいたけどお見えにならないお客様がいらしたので』と言ってましたよね? そういうことはよくあるのでしょうか」
「ああ、それは時々あります。最近ではお客様側が個人情報を登録する形のネット予約システムなどもありますけど、電話一本でできる予約だとキャンセルするのも気軽に感じられるんでしょうね。飲食店にとっては一番困るケースです」
「いわゆるドタキャン、ですか?」
「ええ。私たちの業界では『ノーショウ』と言います。ホテル業界でも同じ言葉を使いますね。No Show で、『現れない』という意味です」
ノーショウ、というのは初めて聞いた。
「当日キャンセルのご連絡があればまだ良いほうで、何の連絡もなしにただお見えにならない、ということもあるんです。ご予約の時に伺った番号にお電話しても出ていただけなかったりします。でも、店側にしてみれば予約があればお料理の仕込みは済ませてありますし、テーブルが埋まっていれば他のお客様をお断りしなければなりません。ですから、とても損害が大きいんです」
「シェ・ミサキでもありましたか?」
「父は仕事の話をあまり家族にしなかったので聞いてはいませんが、あったんじゃないでしょうか。父の店はそれなりに『予約の取れない店』として有名でしたし」
「そのことを山口さんに聞いてみてほしいんです。当時、そういうノーショウの存在について岬シェフと話をしたことがあったかどうか」
高月が斎藤さんに確認したいと言っていたのはこのことか。
「わかりました。聞いてみます」
山口氏には、真迫さんの事件のことも伝えなければならないだろうし、今後の相談もあるだろうから、斎藤さんには僕の書斎から電話してもらうことにして二階に彼女を案内した。
リビングに戻り、コーヒーのお代わりをカップに注ぎ、じっと床を見つめて考え込んでいる高月の前にも置く。
「ノーショウって言うんだな。知らなかった」
「俺も初めて聞く言葉だったよ。だけど、何かそういう隠語があるだろうとは思っていた」
「そう言えばステラの星川さんも予約の話をしていたな。ほら、ペンションを移転する前に団体の予約をキャンセルされる嫌がらせをされたって話。あれも『藤波の若造』の仕業じゃないかって…」
高月が顔を上げる。
「ナナが聞いた、藤波夫人の若いときの話もあったな」
「え?」
話が繋がらない。いや、高月の頭の中では繋がっているのかもしれないが、僕にはわからなかった。
「そうか。それがあいつのやりかたなんだ…」
そこに、電話を終えた斎藤さんが降りて来た。
「山口さんに聞いてみました。シェ・ミサキでも何度かノーショウで迷惑を被って、父がとても怒っていたことがあったそうです」
「やはりそうでしたか」
「何か月も前からクリスマスやバレンタインデーのようなイベントの日の予約をしてあったのに、当日になって現れないし、折り返しても電話に出ないというケースもあったそうです。しかも、それ、予約の名前は違うのに同じ番号からだったとかで、二度とその番号からの予約は受けない、と」
「携帯電話の番号ですね?」
「そこまでは山口さんは言っていませんでしたが……待って、それ、もしかしてあの『常習犯』の番号ってことですか?」
「そうじゃないかと思ってます。岬シェフは、またその番号からかかってきたときにすぐに気づけるように、自分の携帯電話に登録したのでしょう。店の電話にそんな名前で登録するのは憚られたでしょうから、後で予約を確認するときに照らし合わせていたのかもしれません」
「ノーショウの人だったから、私が中学の時に電話したときにもすぐに切られてしまったんですね?」
「おそらくは。本来なら予約をぶっちぎった店からの電話には出ないようにしていたでしょうが、そのときはあの火事から数年後だった上に『シェ・ミサキ』の番号からですからね。気になって出てしまったんでしょう」
「火事の…数年後だから?」
「そいつが放火に関わっています。電話番号の持ち主は吉村刑事が調べてくれました。当時は藤波エクシードの営業だった辻本…現在は軽井沢支社長の藤波敦です。そして、真迫さんを殺害した犯人でもあります。
藤波は覚えのないレストランから電話がかかってきて『予約したのに来ないのか?』と聞かれたと思い、過去の犯罪を思い出して怯えました。十三日に軽井沢ジャーナルが支社に届き、その電話は『貸別荘で焼死した岬シェフの娘』が軽井沢に出した店からだったと知りました。だから火事と自分の関係を気付かれたと考えて、その日のうちに『岬シェフの娘』の口を塞ぎに行ったんです」
偽のインタビューのときに撮った藤波の写真をカメラの液晶モニターで斎藤さんに見せ、僕らが推理したアルファベットの名前の表記の話をする。自分の身代わりで真迫さんが殺されたのだ…と、斎藤さんをますます苦しめることになってしまうが、隠しておくことはできなかった。
*
「十九年前の夏、僕ら家族と岬シェフは軽井沢に出す店の場所をリサーチするために藤波エクシードの貸別荘に滞在していました。藤波氏…当時は辻本という名前でしたが、彼が不動産会社の僕らの世話役でした。毎日あちこちの場所を見て回っていたようですが、僕は子どもだったので、貸別荘の周りで一人で遊んでいる時間が長かったのです」
普段は一人称が「俺」や「私」の高月が「僕」になっている。子ども時代の時の話をするときは気持ちも「僕」になるのだろう。
「事件の日は、辻本氏の案内で外で夕食を摂る予定になっていたようです。ところが辻本氏が夕方現れて辞去した後、父と岬シェフが何かに怒っていて、母は『外で食べる予定だったけど取りやめになった』と僕に言いました」
高月が続ける。
「父はどこかに電話をしようとしましたが、なぜか貸別荘に取り付けられていた固定電話は不通になっていました。僕も受話器を耳に当ててみましたが、完全に無音だったので電話線に何らかのトラブルがあったものと思われます」
「携帯は…?」
「当時は貸別荘のあった場所では圏外だったんです。だからタクシーを呼んで外に食べに行くことも出来なかったので、夕食は岬シェフが作ってくれました。その夜、貸別荘が燃えたんです」
『燃えた』という言葉で斎藤さんの表情が少し歪む。
「父と岬シェフがいったい何に怒っていたのか、それが僕には長い間の謎でした。今となっては想像することしかできませんが、夕方やってきた辻本氏が帰っていくのを、僕は二階の部屋の窓から見ています。辻本氏が帰ったのならそろそろ食事だろうと思って階下に降りていったのですから。そして、本当は外に食事に出るはずだったのなら、車を運転する辻本氏が帰ってしまうのはおかしい。つまり、父と岬シェフは辻本氏に対して怒っていたのでしょう」
「だけど…今となってはふたりが辻本氏の何に対して腹を立てていたのかなんてわからないよな? 高月はその時の会話を聞いていないんだろう?」
「ああ。だからここから先は憶測だ。だけど七生がいろいろなところで話を聞いてくれて、それを細かく聞かせてくれたから、だいぶ材料が揃ってきたんだ。そして、さっきの斎藤さんの『ノーショウ』の話が最後のキーになった」
ここでノーショウが?
「行くはずだった『外での夕食』は、当然辻本がセッティングしただろう。重要な取引先で、しかも飲食店経営者とシェフを連れて行くのだから、軽井沢でも名店を吟味して予約してあったに違いない。夏の繁忙期、そういう店は直前に予約を取るのは難しいだろうと思う。…だけど、辻本はそういうことが『得意』だったという話を七生がケープ・ブルームで聞いている。藤波夫人の昔話だよ」
「ああ。なかなか予約の取れない店でもすぐに連れて行ってくれた…って話か」
「美咲ちゃんからチラリと聞きました。私はホールに出ていなかったので直接耳にしてはいませんが、お店でのお客様のご様子としてどんなお話をされているのか教えてもらいましたから。…そのとき、名札をアルファベットにすることも決めたんです」
「そう。そしてこれは斎藤さんは初耳だろうと思いますが、当時藤波エクシードが進めていたコテージ村の土地取得に関して、予定地の中にあったペンションを移転させるために、担当だった辻本が嫌がらせをしていた可能性があります。その手口は、書き入れ時に団体の予約を入れて、直前になってキャンセルする、というものでした」
「ノーショウ…」
「ええ。全て同じやり口です。つまり、辻本は火災のあった日も、事前に押さえていた有名店に僕らを連れて行くつもりだったのでしょう。予約してある店は一箇所ではありません。当日、何を食べたいのか相手の希望を聞いて、それから行く店を予約済みの中から選ぶのです。具体的にどんな会話だったのかは想像するしかありませんが、おそらく…」
「軽井沢の有名店でしたらどこにでもご案内できますよ。フレンチ、和食、中華、なにがご希望ですか?」
「夏のこの時期はどこも予約がいっぱいだろう。どうやってそんなことが? 店に知り合いが多いのかね?」
「いやぁ、こういうこともあろうかと、前もって予約してあったんですよ。お食事の予定が入りそうな日を数日と、ご希望に沿いそうな有名店を複数押さえておいて、食べたいものを伺ってから店を決めればいいんですからね。これ、学生時代に覚えたデキる幹事の裏技なんで、デートでも営業の接待でも応用できますからね」
高月の想像した辻本と姫野小路氏の会話を聞かされて、僕は若いときの辻本が、接待のセッティングのためにあちこちの有名店に電話をしている姿を思い浮かべた。
それはどんなやり取りだっただろう。どの店も、お客様がいらしてくれることに感謝して予約を受けたに違いない。
「はい。割烹志乃でございます。ご予約でいらっしゃいますね。ありがとうございます。
来月の19日火曜日の夜7時に5名様。かしこまりました。何かお召し上がりになれないものはございますか?
ご予約のお名前は…篠田さま。お電話番号もお願いできますでしょうか。はい。ありがとうございます。
ええ。では19日にお待ち申し上げております」
「お電話ありがとうございます。シェ・ミサキです。はい、ご予約でしたらこの番号で承っております。
9月19日の夜に5名様でいらっしゃいますね? コースはいかがいたしましょうか。はい。シェフのお任せコースは一万七千八百円からのご案内になります。サービス料と税別での金額でございます。
ワインは当日お選びになりますか? かしこまりました。上崎様ですね? お電話番号は…はい。ありがとうございます。では、ご予約確かに承りました」
「翡翠門銀座でございます。はい。ご予約でございますね? 9月19日の夜は…はい。御入店いただけます。5名様でいらっしゃいますね? ええ。翠石のコースは前もってご予約いただいたお客様だけにご用意させていただいております。そちらのコースでよろしゅうございますか? かしこまりました。
お客様のお名前は…臼井様、石臼の臼に井戸の井、でいらっしゃいますね? お電話番号もお伺いいたします。
では、19日19時に5名様、ご来店をお待ち申し上げます」
「寿司処・よしだです。ご予約ですね? ありがとうございます。 9月19日ですか。ええ、今でしたらまだお席はご用意できますよ。5名様で19日の7時からですね。
お席はカウンターと小上がりがありますが、へい。小上がりのほうで。お名前頂戴してもよろしゅうございますか? 吉岡様。かしこまりました。お待ちしております」
そうして、予約の当日、接待相手が希望した店以外は全て無視する。電話した店の番号は携帯に登録してあっただろう。だから時間になっても現れないことを不審に思った店から確認の電話がかかってきても応答はしない。
予約した時に名乗る偽名は、後から混乱しないように店から連想できる名前を使ったりするんだろうか。もちろん僕の勝手なイメージにすぎないが、これをやられた店の損害と怒りは容易に想像することが出来た。
高月が話を続ける。
「承知の通り、飲食店にとって、それは最悪のやりかただ。父と岬シェフは怒り狂っただろう。ノーショウがどれだけ迷惑かと。岬シェフはもしかしたら、登録してある『常習犯』が辻本だと気付いたかもしれない。『そんなことをする男と仕事はできない』と、父はキッパリ言い渡したに違いない。だから外出は取りやめになり、辻本は別荘から立ち去ったんだ」
「…出店の仲介なんか全部パーになるよな」
「そしておそらく、辻本は帰るときに貸別荘の電話線を切っている」
「なぜ?」
「取引は中止だと会社に連絡されてしまうからだ。自分のせいで大きなプロジェクトがフイになったと会社にバレるのを恐れたのだろう。出世の道は閉ざされるだろうし、もし、そのときすでに社長令嬢との交際が始まっていたとしたら、縁談も破談になる可能性が高かった。だが電話線さえ切ってしまえば取りあえずその場しのぎにはなる。携帯は圏外だし、暗くなってから慣れない道を歩いて電話のあるとこまで行くことはしないほうに賭けたんだろう」
「それで電話が繋がらなかったのか」
「だから父は東京にも藤波エクシードにも連絡することが出来ず、その夜は貸別荘で食事をした。きっと朝になったら公衆電話を探して、タクシーを呼ぶつもりだったのだろう。そしてそのまま東京に帰り、軽井沢出店の計画は別の不動産会社に話を持って行こうとしていたのかもしれない。父は仕事の面ではそういう厳しいところのある人だったから」
「私の父も、きっとそれに賛成したと思います」
「だが、辻本は深夜になって貸別荘に戻ってきた。朝になったら連絡されてしまうことは分かりきっているので、その夜のうちになんとかしようと思ったんだろう。そして、両親と岬シェフが寝入っているところに放火したんだ」
「それ…それはわかった。だけど、前に高月も言ってたけど、どうして三人とも焼死するまで逃げられなかったのかな。ご遺体から睡眠薬なんかは出なかったんだろ? もし縛られたりして火を付けられたのなら、きっと検視でわかるだろうし」
「わかるだろうね。仮に縛られたまま焼き殺されていたのなら、もっとセンセーショナルな報道になっていただろうし、捜査ももっと大掛かりになっていたかもしれないな」
「それじゃあ、いったいどうして…」
「水鉄砲、だと思う」
「水鉄砲?」
斎藤さんが鳩が豆鉄砲を喰らったような顔になっている。豆鉄砲じゃなくて水鉄砲なんだけど…って、今そんなことを考えている場合じゃないのに、深刻な話が続いているせいで、僕の頭は無理矢理柔らかい方向に行きたがっているのだろうか。
「七生が前に言ってた言葉がヒントになったんだ。水の貴重な国の石油王の子どもは、水鉄砲にオイルを入れて遊ぶかも知れない、という冗談を言っていただろう」
「あ…」
「僕はあの日の夕方、貸別荘に来た辻本の車のトランクに水鉄砲が積まれているのを見ている。ピストル型の小さいものじゃない。かなりの容量のタンクが付いた加圧式の水鉄砲だ。貸してくれと頼んだら『これは中古で汚れてるから新しいのを持って来る』と断られたんだ。
だが、火災のあと消防士さんが水鉄砲を拾って僕に渡してくれている。当時、火事で混乱していた僕は『新しいのを持って来てくれたのかな』と思っていたんだが、食事の後の遅い時間にそんなものを届けてくれたとは思えない。袋にも入ってなかったから新品でもなかったんだろう。あの水鉄砲は辻本の車のトランクに積まれていたもので、彼はそれを放火の道具にしていたんじゃないかと思う。そもそも中古の水鉄砲が汚れてるって表現は変だしな」
「水のタンクに…灯油を入れて?」
「うん。春に続いていた不審火でも、灯油が使われていた。だけど春に灯油タンクを持ってウロウロしていたら目立つだろうに、放火犯の目撃情報は出ていない。おそらく、目を付けた古い別荘の近くまで車で乗り付け、水鉄砲で建物の外壁に灯油を吹きかけて火を付けたんじゃないだろうか。そうすれば火の回りも早いだろうし、目立つポリタンクを持ち歩かなくても済む。いろいろシミュレーションしてみたんだが、ペットボトルで運んだりすると、建物に確実に灯油をかけるのは難しいだろうし、うっかり自分の手や服に灯油をこぼしたら危険だ。その点、水鉄砲は離れた位置から吹き付けることができて、持っているところを誰かに見られても不審がられることも少ない。まあ、大の大人が玩具を持っているのが不自然だ、というくらいだろう」
「なるほど。確かにそうだな」
「そんな放火のための道具だったから、僕に貸すわけにはいかなかった。そして夜に舞い戻ってきたときにもそれを持って貸別荘に入り込み、寝ている両親と岬さんに灯油をかけて火を付けたんじゃないだろうか」
「寝ているところに水鉄砲で灯油をかけられたら避けようがないよな…」
それは想像するのも辛い光景だった。火だるまになった高月の両親と岬シェフ。さぞ苦しかっただろう。斎藤さんも唇を噛んで黙り込んでいる。
「その後、逃げるときになぜ水鉄砲を残して行ったのかはわからないが、一部溶けたところがあったから、もしかしたら引火しそうになって投げ捨てたのかも知れない。あるいは灯油の残った水鉄砲を持っているのを見咎められたら危険だと判断して捨てていったのかも。それが家と一緒に燃えずに残っていたのは奇跡だ」
「その水鉄砲、高月がタイムカプセルの箱入れて埋めたんだよな?」
「ああ。唯一の物証だろう。水のタンクから灯油が検出されて、更に犯人の指紋が残ってくれていれば」
「タイムカプセル?」
斎藤さんに簡単に事情を説明をする。
「それが見つかれば、犯人を告発できますか?」
「できるかもしれません。指紋が残っていなくても、水鉄砲そのものと、当時の話を警察に説明すれば、重要参考人と見てもらえる可能性もありますし」
「掘り出しに行こう! 場所はペンション・ステラだ。星川さんにお願いして、庭を掘らせてもらうんだ」
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六月二十日の朝、僕と高月はペンション・ステラにいた。
「庭を…ですか?」
さすがに星川さんの娘さんはきょとんとしている。
「はい。掘り出した後は、きちんと元通りに埋め戻しますのでご迷惑にはならないかと思います。昔、ここで火事があったときに貸別荘に泊まっていた私が埋めたものなんです」
「高月さんがここにあった貸別荘に… そうだったんですね。じゃあ、あの火事の時に怪我をした男の子というのは…」
「はい。私のことです。ここが火災現場だったというのは最近になって知ったことなんですが」
「そうでしたか。ええ。いいですよ。今日これからですか? あいにくのお天気ですけど」
今日も梅雨らしく小雨が降っている。
「もしよろしければ」
星川さんの承諾を得て高月と僕は庭の白樺の木のところに向かった。斎藤さんも誘ったが、朝早く彼女のところに「もうフィガロを動かしていい」と吉村刑事から連絡が来たので取りに行ってくる、と言われたので、僕らふたりだけで来ることになったのだ。
まあ、あまり大勢でお邪魔して大ごとにするのも如何なものかと思っていたので、それはちょうどよかったかもしれない。
ペンション・ステラの庭は、客商売ということもあって綺麗に整えられていた。敷地の周りを囲うように植えられたコデマリやノリウツギの花が梅雨時を迎えて咲き誇っている。幸いなことに白樺の木の辺りに花壇はなく、むやみに花を傷つけなくても済みそうだ。
作業に備えて僕らは合羽を着込んできたので小雨くらいなら全く気にならない。五本並んだ白樺の木の前に立つと武者震いが出た。
「ナナ、緊張してるのか?」
「馬鹿言え。ワクワクしてるよ」
僕の強がりは高月には通用しなかったらしく、口の端に微かな笑みが浮かんだ。
「掘るぞ」
白樺の根元にスコップを突き立てる。どの木の間を掘ればいいのか、高月にははっきりわかっているようだった。
僕も手伝いたかったが、スコップが一本しかなかったのと、この作業は邪魔するべきではないという気持ちで高月の背中を見つめる。
雨で土が湿っているせいか、比較的掘りやすそうだ。やがて高月の動きが止まり、スコップを横に置いて地面に向かってしゃがみ込む。手を使って土を払うと、彼の身体越しに鮮やかな青い箱が埋まっているのが見えた。
「あった」
まだここにあったんだ。十九年の時を経て、少年高月の埋めたタイムカプセルが姿を現した。大人になった高月が箱を持ち上げ、そのまま地面の上に置く。発泡スチロールの箱は年月で劣化することもなく、蓋の隙間に指を差し入れるとと小さくきしんだ。
「開けるぞ」
別に誰に断らなくてもいいのだが、おそらく子どもの頃の自分に向かって宣言したのだろう。だが蓋を開けた高月は、落胆とも混乱とも言えるような狼狽を見せた。
「ない…」
「え?」
覗き込むと、箱の中には湿って変色した紙の束や小石などしか入っていない。水鉄砲は?
「なぜだ。なぜ水鉄砲だけがない? 他に一緒に入れたものはこうして残っているのに…」
「誰かが…先に掘り出したのかな」
「だが、それなら箱を元通りに埋めておく理由がわからない。それにここに水鉄砲を入れたことは七生と斎藤さんにしか話したことがないんだぞ」
「僕は先に掘ったりしてないし…」
最初からそれは疑っていないよ、と高月の目が言っていた。気が動転して間抜けな言い訳をしてしまったようだ。
雨の中、ここで立ちすくんでいても仕方ないので、高月は納得できない様子ながら、箱を取り出した穴を埋め戻し始めた。箱の体積分、地面が凹んでしまうだろうが、それは後でうちの庭の土を少し運んでくることにして勘弁してもらおう。
あらかた穴が埋まり、箱を持って引き上げようかというところで、背後に人の気配がした。
「星川さん、これでいいでしょうか?」
と言いかけて、人影が星川さんの娘さんではないことに気付く。立っていたのは吉村刑事だった。
「吉村さん、どうしてここに?」
「君たちこそ、ここで何をしているんだ?」
「僕らは、高月が埋めたタイムカプセルを…」
「その話、吉村さんにしようと思っていました。実は私、昔ここに事件に関係ありそうな、あるものを埋めたんですが、掘ってみたら見つからなくて」
高月が言い終わる前に吉村刑事が口を開く。
「探しているのはこれだろう?」
吉村刑事が後ろで組んでいた手を前に回す。その手にあったのは厚手のビニール袋に包まれた水鉄砲だった。
「えっ?」
「どうしてそれを?」
なぜ吉村刑事が高月の埋めた水鉄砲を持っているんだ? いや、それが高月の埋めたものなのかどうか、僕には判断できないが。
「僕はね。軽井沢に戻ってきたとき、真っ先にここに来てこれを掘り出したんだよ」
「戻って?」
高月が怪訝そうに聞く。
「覚えていないのも無理はない。あの状況ではね。僕はあの火災のとき、君と話をしているんだ」
「あのときの… 若い警察官は吉村さんだったんですか?」
高月の話に出てきた、名前を尋ねた警察官か。
「そう。あのあと他の署に異動になって、刑事になったときに軽井沢署に再び配属になったんだ。まあそんなことはどうでもいい。僕はね。毛布にくるまった君が、ここに水鉄砲を埋めているのを見ていたんだ。それがずっと気になっていたんだよ」
「なぜ、私が軽井沢に移住してきたとき、そう言ってくれなかったんです? あの火事のことを調べていることは話しましたよね?」
「ああ。越してきた君を見て、あのときの少年だとすぐわかったよ。だけどね、申し訳ないが僕は長い間ずっと、放火したのは君なんじゃないかと疑っていたんだ」
高月が絶句する。それはちょっと酷いじゃないか。十一歳の少年が両親とその友人を焼き殺したとでも言いたいのか?
抗議しようとした僕を高月が制した。吉村刑事が続ける。
「君がこれを埋めたのを見て、放火に水鉄砲を使ったのかも知れないと考えた。だから軽井沢に戻ったときに掘り出して保管していたんだ。取り出してみたら中に灯油が入っていることは臭いでわかったしね」
「でも、それを捜査本部に提出することはなさらなかったんですね?」
「さすがに被害者の息子である少年が放火した、というのは突飛な考えだったし、信じたくないという気持ちもあったからね。でも、君が軽井沢にやってきたときは、もしや証拠隠滅のためではないかとも疑った。刑事なんて因果な商売だ、というのは有名な刑事ドラマのセリフだが、本当にそうだよ。折に触れて、ステラの名前を出して反応を見たり、君がここに近寄ることを気にかけていたんだが、君は現場がここだということにはなかなか気付かなかったようだね」
「ええ。知ったのはごく最近です。だから掘り出すことにしたんです」
「誰かがここを掘ろうとしたら、すぐに連絡をくれるようにステラの娘さんに頼んであったんだ。そうしたらさっき、電話をもらってね」
それで吉村さんがタイミング良くここに来たのか。
「だけど君が放火犯じゃないことは、つき合っているうちに徐々にわかった。これを僕が持っていることは機会を見て話そうと思っていたんだよ。それは信じてくれ。そして今、これを探しているということは、犯人の目星が付いたんだね?」
「はい」
高月がポケットから藤波の写真を出して吉村刑事に渡す。僕が先日の偽インタビューで撮ったのをプリントアウトしたものだ。
「やはり藤波か」
吉村刑事は写真を一瞥してまた高月に返した。
「その水鉄砲を調べてください。灯油は臭いでわかったと言ってましたが、もしかすると犯人の指紋が付いているかもしれません」
「調べよう。君の指紋もあるね?」
「ええ。埋める前に素手で触りましたから」
「よし。藤波敦に任意で指紋を提出してもらおう」