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だれのこどもでもなくなるということ3

父が亡くなって、1/2 こどもという立場でなくなってしまったが、わたしはずっと大人になれないこどものままでいたように思う。

わたしの母は、過保護で過干渉で強くてパワフルだった。子供の頃は叱られて叩かれたこともなんどもある。
偉そうな口を聞くと、寝ていた父が起きてきて母の肩を持つものだから2人でコテンパンにやられた。
大学生になっても、門限も厳しくて、誰かの家に気軽に泊まることなんで出来なかった。

未だにこどものままだったのは、そんなふうに育てられたからかもしれない。
根っこにそれがあるから、わたしはずっとこどものままでいたけれど、母は違っていた。歳をとるとともに、父が死んで1人になるとともに弱い存在になっていた。わたしはそれに気がつかなくていつまでも不貞腐れたこどもとして母に接していた。

昔は不貞腐れていても、母の方が強かったからこっちが折れるしかなかったのに、今はもう立場が逆転していたんだろう。

1人で暮らすのに慣れてない母は、友達もおらず、趣味もなくて時間を余していたのだとおもう。股関節を骨折してからは歩いてどこかに行くこともできず、わたしに執着するようになってきていた。訳あって同居はできなかったから、わりと近くに住んで買い物をしたり、様子を見に行ったりはよくしていたが、一緒にいてもなかなか話がない。口を開けば愚痴やあちこちが痛いことや昔話ばかりの母の話はわたしには少し苦痛だった。大人になれていればちゃんと向き合って話を聞いてあげることが出来たんだと思うが、なんせこどものままだし、わたしも仕事が忙しかったり、何回も同じことを言われるのがつらかったりしてずいぶん適当にしていた気がする。

執着されるのが嫌だったのかもしれない。
昔のようにまた管理されるのではないかと危惧したのかもしれない。
母が何を考えているかどんなふうに思ってるのか何がして欲しいのか上辺でしか理解してなかった。

他にもあることが原因で母からの電話が鳴るたびに嫌な思いをすることがあった時期がとても長く続いて、その時の気持ちがこびりついていたようだ。
考えないようにしていたので、実は意識の中になかったのかもしれないが、心の中にとても強く根付いてたことに気が付いた。


コロナが流行りだしたころ、咳が止まらなくなった私は母に会いに行くのもやめたし、買い物もネットや持って行ったとしても接触しないように秒で帰った。
コロナではなかったので、いつか咳も収まり、またもとのように母に会いに行く日常が始まった。
相変わらず不貞腐れた態度で。

4月のある日、仕事に行っていると伯母から電話がかかってきた
母が自分で救急車を呼んで病院に運ばれたということだった。しごとを上らせてもらい、病院に駆けつけたが、コロナの検査の結果待ちでなかなか合わせてもらえなかった。
コロナは陰性でそのまま入院となってしまった。
肺炎を起こしていて、酸素飽和度がかなり低かったらしく結構重症だった。

去年の12月に病気を宣告されていたがまさかこんなにはやく悪くなるとはまったく思わず、1ヶ月の入院の間にコロナの為に面会もろくに出来ずに、旅立ってしまった。
いつまでも不貞腐れていたことも謝ることもできなかった。たくさん聞いておきたいことも有ったのになにも聞けなかった。
亡くなる二日前にそろそろ危ないかもしれないと連絡が入り、15分だけ面会ができた。

まだ意識があり、「忙しいのに来てくれてごめんね」というのが最後の言葉だった。
なんで私はいつも母にそんなことをいわせていたんだろう。いつもいつもそう言わせてしまっていた。
なんでいなくなってからもっとあっておけばよかったなんて思うんだろう。いくらでも会えたはずなのに。

そして不貞腐れたこどものままなのに、わたしはもうだれのこどもでもなくなってしまった。

ごめんね。おかあさん 本当にごめんなさい


母が亡くなって、かなりダメージを受けました。
書くことで気持ちを整理できるかなと場違いだとは思いながらここに書きました。
半月ほどがたち、最近は涙も枯れたのか普通に過ごせていたのですが、家の片付けにいくと母が大切にしていた物や足が悪かったからつかっていた杖などをみるとまだしんどいようです。

きっと今頃は大好きな父と一緒に、楽しく過ごせているのかなと思うようにしています。

そろそろわたしも通常運転にもどらないと…です。
ご心配をおかけしました。

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