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君の視界を泳ぐ単細胞生物

いたずらにじゃれあった夏の日が過ぎて、揺らめきたつ陽炎が夕立ちに溶ける。溶け出した夏の余韻で、すれ違う人の青い影が伸びていく。うんざりしていた蝉の声も今は少し懐かしい。朝に目覚めれば秋の虫が火照りを冷ますようにサラサラと鳴く。

今日は時間を割いてくれてありがとう。それなのに予期せぬ事があって僕は戻らなければならなくなった。

「今日は、もう帰ろうか」

行くべきか留まるべきか逡巡する僕を抱き寄せて、君は僕の頭をポンポンと叩いた。僕は君より随分年上なのに、君は僕を随分子供扱いする。でも見下される感じはなく、ただただふうわりと心地よい。

もし立場が逆なら僕はそんな風に強く振る舞えるだろうか。僕はわがままを押し通しそうだよ。僕には君が必要だから僕の都合で君をそばに抱き寄せたりもするけど、君が僕を必要とした時に僕はそばにいてやれない事が多くてもどかしい。

機会費用って概念を知ってるかな。ある選択を行ったことによって、得ることが出来なかった経済的価値のことをいうんだ。僕を待っている時間、一緒に過ごせなかった時間を別の誰かと過ごせたら君はもっと素晴らしく豊かで寂しくない時間を過ごせてたかもしれない。

だから弱気な僕はついつい「ごめんね」なんて言ってしまう。その度に「また謝った」って窘(たしな)められて不意に目が合うその刹那。君の瞳の奥に悲しくて美しい色を湛(たた)えた海が見える。僕はその海を泳いでいる錯覚を覚えた。僕はいつまで君の視界を泳いでいられるだろうか。そんな不安が息継ぎも出来ないほど溢れてしまって、好きだと伝える前に「ごめんね」って言葉を唇が紡いでしまう。その唇が次の言葉を紡ぐ前に君の唇が僕の唇を縫い合わせていく。

バイバイした後、カラカラとした抜け殻みたいな感情のままやるべき事をこなした。僕の気持ちと昼が下がる。分裂できる生物になりたい。僕は単細胞なのに分裂できない悲しい生き物。

眠れぬ夜は君の唄声思い出す。遠雷の音が新しい季節を呼んでいる。

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