15年前の記憶から学ぶ弁え

コスメの話じゃないんだすまんな。

節目節目で思い出す昔話を聞いてほしい。

皆様も人生の中で打ち上げに参加した事は一度くらいあると思う。

ない人は打ち上げ花火をあげていてほしい。任意で。


高校時代からの付き合いのある友人が大学で演劇部に入った。

大学4年間の集大成とも言えるその劇を見に来てほしいと頼まれた時のことだ。

俺は演劇なんて自分から見に行くタイプじゃないからこういう機会を逃したら、観ることもないだろう。

友人の誘いを嬉しく思い、見に行く事にした。

ー当日ー

演劇の内容はありきたりだったが、熱意を感じたし楽しかった。

何よりカーテンコールで挨拶した友人のやり切った笑顔は何よりも価値があった。

できる限りの拍手を送り、帰路に着こうとした。

この後、片付けとか打ち上げとか思い思いの時間を過ごすのだと。

青春だなあなんて感傷に浸っていた。

一足先にフリーターになって社会に出てた俺には得ることのない経験と感動を友人はしていた。

感傷に浸った自分に酔いたくてタバコを買い火をつけ駅まで帰ろうとしたその時だ。

「来てくれてありがとう!!本当嬉しかった!良かったら打ち上げに来て欲しい!!」 

俺は打ち上げというのは関係者が互いの労を労う為にあるものだという認識を当時既に持っていた。

フリーターながら社会に出て忘年会やわずかながらの社会経験から学んだ暗黙のルールの一つだ。

部外者が行くもんじゃないよ。それより打ち上げやるなら足しにして欲しい

と手持ちの2万円を渡した。

お金もらって参加させないなんてできない!!

と友人やその後輩達は言うのだ。

気持ちが嬉しかったからそれだけで満たされたし、もう充分だった。

そこに口を出したのは同じく高校時代の同級生である。

なんだよ参加してって言ってるんだから参加しようぜ!な!!

俺はコイツの事は嫌いじゃないが時折見せる絶対的な空気の読めなさに何度となく痛い目を見た。

俺は再度断り、帰ろうとした。

じゃあ俺は参加してこ!!折角だし!!


俺は嫌な予感がしたのだ。

絶対的空気の読めなさをはっきするコイツがやらかすんじゃないかと。

折角の打ち上げが台無しになっては行けない。

もしもの時はコイツを悪・即・斬の名の元に一刀に伏す。

仕方なく俺は打ち上げに参加した。

当然だが俺は自ら下座に行き、隅っこで静かにしていた。

特に会話するわけでもなくみんなが気を遣わない程度にお酒を飲み、ツマミに箸を伸ばす。

ふとヤロウの方に目を向けると奴はやはり何も空気を読めていなかった。

そこは上座だ。退け。


挙句の果てには友人が折角きてくれたからお金はいいよ。と言う言葉をしつこく言うが絶対的な空気の読めなさで。

お!ラッキータダ飯タダ飯!!

と言ったのだ。

黙れ。貴様はもう寝ていろ。


慌ててATMに走り、お金をおろしお会計時に全額支払った。

20人超の飲み代を一人で払うのはいくらフリーターで金があったとは言え痛い出費だが、ヤロウのやらかしをこのままにしてはおけん。

帰り道、ヤロウと一緒になりこう言うのだ。


なんかつまらなかったな。みんな各々で話してるし。
折角来たんだから話に混ぜてくれたっていいのにな。


俺にはヤロウの思考が理解できなかった。

友人の打ち上げに参加し、タダメシを食いつまらなかった?

どうしたらそんな言葉が出てくるのか。

後日、話を友人から聞いたら皆ヤロウの事で腹を立てていた。

セットがしょぼいだの、まぁ演劇なんてあんなもんだよなだの言いたい放題かまして帰っていったのだ。

逆に俺には全額出してもらって、来てくれた上に感謝しかない。

注文も空気読んで座席移動もしてくれたし、一人一人に労を労ってくれた。

今度是非お礼が言いたい。

別に自分を持ち上げたいわけじゃないが、事実そういう事を言われた。


同時に学んだのだ。

分相応・弁えるということの大切さを。

今でも人間関係で一番大切にしていることがある。

自分の立ち位置を理解する事を何よりも大切にする。


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