なぜ豊臣秀吉率いる戦国武将オールスターは、朝鮮出兵で敗北したのか?

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 1592年、戦国時代の日本は世界最強クラスの軍隊だったともいわれます。

・鉄砲の保有数は50万丁ともいわれる(商業政策も軍事力に特化)

・長く殺し合いをつづけてきたので軍隊の練度が高い

なぜその日本が朝鮮出兵で敗北したのでしょうか?

よくある誤解をさきに是正しておきます。

(A)日本の水軍が弱かったから??⇒× いいえ。内陸地の奥深くまで14万人の日本軍が侵攻しているので、水軍だけを切り取って敗戦の原因とはいえません。

(B)兵站・補給路が伸びすぎたから?朝鮮の冬が寒すぎたから?⇒×いいえ。それよりも下記に述べる主要因の方がはるかに大きいです。

①日本vs明(中国)の大規模戦争だったから

 ​朝鮮出兵というと日本vs朝鮮と誤解されがちですが、その実態は日本vs明(中国)の戦いです。朝鮮については、侵攻の早い段階でボコボコにされて平壌まで占領されており、明に援軍を求めていました。

 当時の日本vs明の軍隊は互いに14万~16万人ほどの軍隊といわれます。一例として、織田信長vs武田勝頼の長篠の戦いが3万8000人vs1万5000人ほどといわれるので、まったく別次元の戦いになります。

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 いかに戦国オールスター(宇喜多秀家、加藤清正、毛利輝元、島津義弘、長曾我部元親ら)といえども、これほどの明の大軍に勝利するのはカンタンではありません。(戦線の長期化)

ただし、明側の被害も甚大です。1592年・1597年に朝鮮出兵は行われましたが、明はまもなく1644年に滅亡しています。直接的な要因としては李自成の乱&清国にトドメをさされましたが、それ以前にボハイの乱や文禄・慶長の役、楊応龍の乱によりグロッキー状態となっていました。間接的に、朝鮮出兵による甚大なダメージは明の滅亡の一因となりました。

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②「国内支配」と「外国侵略」は全く意味が異なる

 たとえば国内で秀吉が北条氏を征伐すれば、その領民は次に秀吉に税をおさめるだけで、新しい支配者に素直に従います。秀吉には全国統一という国内での成功体験がありました。

しかし「外国人がいきなりやってきて、殺人・略奪をおこない、対話すら通じにくい」という【侵略戦争】は恐怖です。領民も必死になって抵抗します。支配地支配に失敗しやすいということです。領民を殺してなにもない荒地を手に入れても、財源になりにくいのです。

日本初の全国統一という偉業が、秀吉を"驕らせてしまった"ともいえます。14万人超の軍隊がいれば、50万丁の鉄砲があれば、世界を征服できるという驕りがありました。

③偽りの講和条約(厭戦ムード)

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14万人超の大軍同士の戦争は、お互いに敗北を認めず、ドロ沼化・長期化しやすいです。(戦国時代の合戦のように数万人同士のレベルなら、まだ勝ち負けがつきやすいのですが)

日本軍も明軍も、夥しい死者数・消耗する財源・深刻な食糧難にみまわれ、互いにこれ以上の戦闘継続が困難となります。そこで「講和条約による終戦」が提案されます。

明の沈惟敬「豊臣秀吉は明の皇帝陛下に降伏しました」とウソの報告を行い、これ以上大量の死者がでないよう必死に努めました。

一方で秀吉側には「秀吉様に明は降伏します」と二枚舌の勅使を派遣し、終戦へ導きました。そこで秀吉は日本が有利となる講和条件を提示し、これを明がのむなら終戦するとしました。

しかし、そんな偽りの講和条約はいつかバレます。沈惟敬はついに明皇帝により処刑され、秀吉もいつまでも講和条件がまもられないことに怒り、1597年に慶長の役(2回目の朝鮮出兵)を行いました。

④秀吉の死亡(終戦)

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1598年豊臣秀吉が死亡し、そのあとを受けた5大老(徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・前田利家・宇喜多秀家)および石田三成の軍議により朝鮮からの撤退がすぐに決定されます。

 すなわち、秀吉の命令でイヤイヤ闘わされていただけで、大国である明との6年間にわたる大戦争など、もう武将たちは継続したくなかったのです。これにより失われた命の数、消耗した財産ははかりしれません。

また、徳川家康はこの朝鮮出兵に参戦していません。秀吉に「家康も行けよ」と諭されますが、家康は以前に秀吉の命令による三河(静岡県)から関東地方へ国替えをされています。「私は秀吉様の命令により、ボロボロのクソ田舎の江戸(東京)を発展させる使命がありますので、それを反故にすることはできません」とうまい言い逃れをしました。

 秀吉に次ぐナンバー2の実力者である徳川家康が全く参戦してないことからも、日本の武将の中にはこの朝鮮出兵に本気になれないものもあったと思われます。

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⑤戦国武将オールスター軍団ゆえ指揮系統がブレブレ

そもそも秀吉は重態のため朝鮮に渡っていません(一応九州まではいきました)。なので、侵攻するか一時撤退するかなどの細かい命令は現地の武将が判断するしかありません。日本海をわたって秀吉にイチイチご意見を奏上することなどできません。

そのせいで、文禄の役では50日間もいったん停戦を行い、その間に明・朝鮮軍に態勢を立て直され、ヨーロッパから明へ輸入されたバズーカ砲による反撃をうけたりと拙さもありました。侵略戦争は電撃戦が命です。

また、下記は慶長の役を詳細に解説した動画です。歴戦の日本武将といえども、この戦いは決してカンタンなものではなく、食料も尽き、敵の大軍にも包囲されながらの苦戦も多々ありました。



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