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情報化社会

情報化社会という言葉には、昔は新しい時代の到来というような響きがあったけれど、今となっては少し古い概念だなと感じるのは私だけだろうか。そう思ってしまうほど今の生活には情報が溢れている。

でも情報は必ずしも多ければよいというものでもないと思う。情報と知識は別物だ。いくら豊富な情報にアクセスできたとしても、それを有効に活用して知識として使う能力がなければ情報は意味を成さない。

時代とともに情報の質と入手方法がどう変化してきたかを少し考えてみた。

1 新聞、本

私が子供の頃は情報の入手方法は新聞やテレビのニュース、そして本だった。発信する側がどんな内容をどういう形で提供するかを決めて垂れ流す方式だ。誰もが同じ情報にアクセスできるけれど、提供されたものしか基本的に入手できないので均一で格差があまりないかわりに独創的な発想も生まれにくい環境と言える。

2 インターネット

インターネットの普及は情報化にとって大きなマイルストーンだったと言えるだろう。一般家庭でインターネットが使えるようになると、それまでは未知の世界だった世界中の様々な情報に瞬時にアクセスできるようになった。知的好奇心の塊のような人間にとってこれは天国だ。家にいながらにして、ありとあらゆる情報が手に入る。無料で宝の山が手に入ったようなものだ。

消費しきれない量の情報にアクセスできるようになると、実際のインプットは選択的になる。各自が興味のある情報を選択して消費するようになるからだ。場合によってはかなり偏った情報しか取り入れないということも起きるかもしれない。これが垂れ流し方式との一番の違いだと思う。自由度は増したけれど、逆に情報格差も拡大していったのがこの段階ではないだろうか。

3 SNS

最近ではさらに一歩進んで、単なるインターネットではなくSNSが一般に浸透してきた。そうなると今度は誰もが簡単に発信する側になれる。さらに自由度が増した形だが、そうなると情報を受け取る側は注意する必要が出てくる。提供される情報の真偽が定かではないことが増えるからだ。様々な質の情報が溢れかえって選択肢も拡大したけれど、その中から本当に有益な情報は何かを判断する能力が必要になってきた。いわゆる情報リテラシーがより重要になってきたという形だ。

真偽を判断する能力がない人間は簡単に嘘の情報に踊らされてしまう。それが一国の大統領選挙にまで影響を与えてしまう時代だ。なかなか大変な世の中になってしまったものだ。


かなり大雑把に私なりの視点でまとめてしまったけれど、ここ30年ほどの間に驚くべき速さで変化が起きていることは間違いないと思う。時代とともに情報の形は変わってきたわけだけれど、それをいかに消費して活用するかはいつの時代も個人の能力による、というのは変わらない。つまり、いかに知識や教養を得るか、という部分はいつの時代でも個人の能力次第、というわけだ。逆に知識を身につける能力がある人間はどんな時代になってもうまく適応していけるのではないだろうか。

とある大学の学長の講演会を最近視聴した。仕事をしながらなんとなく聞き流していたのだけれど、気になるひとことが耳に入ってきて仕事の手を止めた。「スマホには教養はつまっていない」。まさにその通り、と感心して、思わず視聴していたビデオを少し巻き戻してもう一度ちゃんと話を聞き直した。スマホは非常に便利な道具だとは思うけれど、あくまでも道具であるということを忘れてはいけない。道具に頼りすぎて振り回されないように、自戒をこめてきちんとした教養を身につけることの大切さを改めて噛みしめた。



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